プロローグ
俺はこの春に高校を卒業したのち、憧れの漫画家になるべく家に引きこもった。
家にはサラリーマンの父親、専業主婦の母親、去年からOLをやっている姉がいたが、俺に対して苦言を呈する人間はいなかった。正直ものすごく恵まれた環境だ。
ただ、姉の暴君っぷりだけは参った。
「あんた暇なんでしょ」
の一言で、風呂掃除は押し付けられるわコンビニにパシらされるわ。頼まれたアイスをコンビニで買ってきて渡したら「これじゃない」と再度買いに行かされたこともあった。
そんな姉が、乙女ゲームにハマった。
姉いわく「イケメンに癒されなきゃやってられない」とのこと。その乙女ゲームはいわゆる『作業ゲー』の面があり、時間をかけて作業しないと気持ちよく進行できないのよ!と姉は力説していた。
嫌な予感がした俺はそっと逃げようとしたが、姉が俺を逃がすわけがなかった。
「あんた暇なんでしょ。レベ上げ頼むわ」
それからは、毎日家にいる俺は漫画を描くかたわら、ちょくちょく乙女ゲームのレベル上げとアイテム集めをすることになった。
姉のハマったゲーム『蜂蜜色のラプソディ』は五人の攻略対象キャラがいる。
キャラ一人一人を攻略する為にレベルを上げ、親密度やら好感度のようなステータスを上げ、地道なプレイが要求される。
大事なストーリー進行は仕事から帰ってきた姉がやり、俺は昼間にその下準備をすることを強いられた。
「それにしてもさ。全員攻略しなきゃ気がすまないわけ?」
俺は仕事から帰ってきた姉に訊いてみた。
姉はきょとんとした顔でこっちを見た後、ムフゥーっと鼻息を吐いてやれやれといった仕草をした。
「あんたも攻略サイトとかで話追ってたら分かるでしょ?ストーリー進めないと魅力が見えてこない子だっているんだから全員攻略は当たり前!」
「そんな力説せんでも」
「とにかく、あと一キャラなんだから頑張ってよね」
とんだ暴君である。
姉が『蜂蜜色のラプソディ』を始めてから二ヶ月。忙しいOLではあるが弟の俺が作業全般を担当してやった結果、既に四キャラのエンディングを迎えていた。
メイン攻略対象である王子様、その親友の公爵家子息、王国騎士団の新米騎士、ヒロインが通う学院の男性教師。
ここまでで、姉が特に気に入ったのは昨日やっと攻略できた赤毛の教師だった。姉はどうやら年上のインテリキャラがお好みらしい。
「あー。最後の占い師君も楽しみ~」
「占い師ってまた変化球だよな」
「そうよね。ビジュアル以外情報ほとんどないし」
作業もだが、意地悪く妨害してくるライバルキャラなんかもいて面倒なゲームだった。しかし終わりが見えてきた今となっては割りと愛着も沸いている。
漫画を描いている間に趣味と実益を兼ねて映画や漫画やアニメを観たりしていたが、自分の嗜好と離れた乙女ゲームはいい気分転換ともいえた。
もう一度やれと言われたら絶対に嫌だが。
今日も残業ありの仕事から帰ってきた姉が、夕飯もそこそこにリビングで携帯ゲーム機の電源を入れた。
「姉ちゃん先風呂入ってこいよ」
「えぇー、めんどくさぁい。ビール買ってきてくれるんなら入ってもいいけどぉ」
「まだ木曜日だけど飲むのかよ」
姉がいつものように、財布から取り出した五百円硬貨をホレホレとこっちへよこした。普段は週末にしか飲まないのに、よっぽどストレスが溜まってるのかもしれない。
「お釣りで俺も何か買っていい?」
「いいよぉ。よろしくー」
こっちも見ずにヒラヒラ手を振っている姉を一瞥し、俺はコンビニに行くために靴を履いた。
初夏の緩い風を肌に感じながら、夜の町を歩く。
少年漫画雑誌の新人賞に原稿を送ってから、まだ反応はない。今はネットでの公開で人気を得て漫画家になるルートもあるし、まずは沢山の人に観てもらう方が大事かもな。
そんなことをツラツラ考えながら、赤信号で足を停める。
突然、カッと視界一杯に眩しいライトが弾けた。
ーーぶつかる!
車道から大きく外れた対向車線のワゴン車が、真っ直ぐ俺に突っ込んでくる。
ぶつかる直前なのか、その瞬間なのか。
時と身体が止まって思考だけが怒濤のように流れていく。
就職もしないで夢追っかけて、父ちゃんも母ちゃんも何も言わなかったけど心配してたろうなぁ。
姉ちゃん、自分のせいだって思っちゃうかな。
姉ちゃんのことは尊敬してたし、感謝してたんだ。俺が漫画家になりたいってのに最初に認めてくれたのも姉ちゃんだし、こうやって引きこもりがちの俺が外に出るように考えてくれてるのも分かってた。
だから姉ちゃん。もし俺が死んだとしても、責任なんか感じないでくれよな。
ワゴン車が、ブレーキの音もなく凄いスピードのまま俺と正面から衝突する。
そこでブツッと思考が途切れ、俺は意識を失った。
「う……ううん」
痛む頭、熱っぽい頬、微かに聞こえる鳥のさえずり。そのまま寝ていたいと思いつつ寝返りを打ったが、ハッと我にかえる。
がばっと起きた俺は、フカフカのベッドにいた。
「俺……は……」
おかしい。何かがおかしい。
俺は、誰だっけ?
自分の名前、歳、家族。
思い出せる。
思い出せるのだが、それと層を成すようにもう一つの記憶が自分の中に存在しているのだ。それはとてもかすかで、ともすればぼやけて消えてしまいそうな記憶なので、慌てて口にのせる。
「俺……僕、は、レオン・ファウルダース。ファウルダース公爵家の、当主の弟……」
もう一度、今度はしっかりと。
「僕はレオン。ここはファウルダース公爵邸」
途切れ途切れに薄い記憶を呟きながら、布団を捲った。
ベッドの天蓋には白いレース布がかかり、それをめくると花柄の壁紙に囲まれた部屋だとわかる。
書き物机に椅子、小さなローテーブルと、それに併せた二つのソファ。重そうな木製のタンスと、その横にはほとんど装飾のない鏡台があった。
そっと鏡台のところまで歩き、自分の顔を見る。
サラサラした赤毛、夏の空のような蒼色の瞳。俺の知る自分の顔とは似ても似つかない、痩せているものの柔らかな雰囲気を持った長身の青年がそこには映っていた。
そうだ、これは僕。レオンの顔だ。
そう思うと同時に、別の意味でこの顔に見覚えがある。
これは、つい最近まで『攻略対象キャラ』だったレオン先生の顔ではないか。
まさか、ここは『蜂蜜色のラプソディ』の、世界?
いやいやいや、ちょっとまて。
漫画やアニメに影響されて、中学生の頃は異世界に転生するのに憧れたりもした。けどそれは剣と魔法のファンタジーだったり、銃片手に生き抜く世界だったりへの転生だったんだ。
俺は痛む頭を片手で押さえつつ、すうっと大きく息を吸い込んだ。
「……何で乙女ゲーやねーん!!」
ゲホゲホとむせる程叫んでしまった。しかもツッコミ意識が高すぎたのか、芸人のような関西弁になってしまった。
俺の叫びからしばらくして、控えめなノックが聞こえた。「どうぞ」と促すと、メイドが一人入ってくる。
「レオン様、今のお声は……。お加減はよろしいのですか?」
その言葉で、レオンである自分が熱を出して臥せっていた事をぼんやり思い出せたが、目の前のメイドの名前は残念ながら思い出せなかった。
全く知らないわけではないのだが、レオンとしての意識や記憶がとにかく薄いのだ。
「ありがとう、大丈夫」
そう応えながらふと窓の下を見ると、中庭のテラスで小さな少女がお茶を飲んでいる姿が見えた。側にはメイドが一人立っている。
小さな少女が、チラリと此方を見上げた。
直ぐにその目は反らされたし、目が合うこともなかったから彼女は此方に気づいてはいないだろう。
その少女の顔にも、見覚えがある。
緩やかなウェーブのかかったストロベリーブロンドの髪は、見方によっては金にも薄いピンクにも見える。意思の強そうな赤い瞳は特徴的で、遠くからでもハッキリと分かる。
何よりストロベリーブロンドの髪の真上に載せている真っ赤なリボンにとても馴染みがあった。
そうだ、あの娘はかの乙女ゲームでの主人公のライバルキャラ、公爵家令嬢のミリエラだ!
しかし「はて?」と頭を捻る。
ミリエラとレオンは義理の叔父と姪という関係なので同じ家にいるのに不思議はないが、年齢的に自分の知るキャラより随分若い。
『蜂蜜色のラプソディ』の主人公は十五歳。ライバルお嬢様のミリエラも同じ年だ。しかし窓の下に見える少女は、どうみても小学生以下。まだ十歳にも満たない年齢に見えた。
そこで、俺は慌てて鏡台の方に戻る。
先程は気づかなかったが、どうもこのレオンの顔は、かつての俺と同じくらいの歳に見える。しかしレオンは攻略キャラのなかで一番年上のキャラで、確か二十代後半のはず。
と、いうことは。
「この世界は、あのゲーム世界のストーリーが始まる何年か前の地点ってことだな?」
俺の呟きに、ずっとそばに控えていたらしいメイドが首をかしげた。