第一話 牢獄と山田とセシリアと(改)
季節は真夏だった。36℃を超える蒸し暑い気温の中、
カラスの羽のような混じり気のない漆黒のスーツに身を包み、
男は四ツ谷駅から地下鉄に乗り込んでいた。
その理由というのは何を隠そうこの男が、仕事の依頼先である中目黒の企業へ向かおうとしていた為だ。
依頼先と言っても、彼が生業としている仕事は水道管工事の業者でもなければ、
コカ・コーラの売り切れた自動販売機に、炭酸ドリンクを詰めて回っていような業者の人でもない。
彼は、今年の冬に三十二歳を迎える、どこにでも歩いていそうな
少し目つきの鋭い、とある自営業のおっさんである。
そして唐突ではあるが、そんな自営業のおっさんの彼がこの現代において、
曰く日本の最後の記憶として目に焼き付けた光景は、
家族と過ごす温かな夕飯のひとときではなく、
かけがえのない友人と過ごす談笑のひと時でもなかった。
今朝も慌ただしく走る、丸の内沿線の電車の窓ガラスで、さり気なくネクタイを締め直し、
座席に座ったとき目の前にふっと映り込んだ
中年サラリーマンの盛り上がった股間だ。
あぁ、嫌なものを見たなと眉を顰め、少し惰眠を貪ろうと
そう、目を閉じた。それが、その瞬間こそが最期だった。
ほんの一瞬、目を閉じて目またを開けると、
突如彼の目の前の光景が鮮やかな深紅に変わっていた。
それから鈍い頭痛が頭にまとわりつき、
急に酷く息苦しくなり、耳鳴りが止まらなくなった。
目の前が深紅色に変わって10秒程度、
そういった気持ち悪さ以外の感覚が完全に失われてしまっていた。
目を開けているのか、閉じているのかもわからない。
いや、おそらくもう閉じているのだ。
そこはもはや意識の中の世界で、
その時に彼が見ていたのは、
一糸纏わぬ裸の魂が毒の沼をゆっくり、ゆっくりと泳いでいく光景だった。
それから、失っていた意識は、少しづつ半覚醒し始める。
一番最初に、彼に感覚として戻ってきたのは、ずっしりと重い両腕の神経だった。
重い。いや、違う。重いと感じるほどに、彼の腕は酷く痺れていた。
例えば……そう。想像してみてほしい。
二の腕に後頭部を乗せ、思わず何時間も眠り込んでしまった油断。
その後、ふっと目覚めて腕を動かすと、
ビリビリとしばらく電気が帯電している感覚。
小指一本でも動かそうとすると、
その感覚が一気に両掌十本の指の先から小走りで肩まで這い上る。
そんな感覚の、数百倍の痺れと痛みが、彼の両腕を襲う。
次に彼を悩ませた感覚は、酷い片頭痛。
その中で、脳みそがグワングワンと踊っている。頭蓋の内壁が熱くなる。
あまりの頭痛に、そっと頭を痺れた手で抑える。急激に気持ち悪くなり、
吐き気と同時に、むしろ胃の奥の方が熱を持つのを感じた。
しかし、そんな何十にも重なる苦役の中でも、彼は僅かな光を感じていた。
中でも彼が特に覚醒の手がかりを感じていたのは、
声だ。
とてもかすかな声が、
彼の鼓膜を、弛まずにさすり続けている。
それは、かすれた声。
その声は、少しフィルタに掛かかったような、不鮮明な女性の声だ。
何を話しているのかは聞き取れないが、彼はその声に、あらゆる希望を託す。
眉間にしわを寄せ、じっと聴く。
かすれた声ではあるが、その声は柔らかくて温かい……。
きっとこの声は、夕暮れ時、迷子の子供に声を掛ける。
『あなたは迷子だけれど、でも決して独りじゃない』
そう、怯えないように、安心させるように、優しくそっと微笑む声。
途方にくれながらも、一緒に母親を探してくれる優しい声。
そしてどこか、凛としている。
気品と芯がある。
その芯の切れ端にでもいい。
少しでも触れることが出来れば、
もしかしたら、自分は戻れるかもしれないと彼は思った。
今信じられる確かなものが、それしかなかったからだ。
彼は耳を澄ませる。
すると、近づく。
そうしてもう少しと、声の切れ端を掴もうとあがく。
しかしあがくと、遠のく。諦めると、近づいた。
あぁ、何だか。色々考えたが、結局私は死ぬのかもしれないと、ふと彼は悟った。
けれどそれでも何か不思議な衝動が、彼をどうにも諦めさせなかった。
声の正体を確かめたかったのかもしれない。
心の手を伸ばし、糸の端をなんとか掴もうと集中する。
声が……遠のく、近付く。遠のく、近付く。遠のく。近付く。遠のく、近付く。遠のく、近付く。遠のく。近付く。遠のく、近付く。遠のく、近付く。遠のく。近付く。遠のく、近付く。遠のく近付く遠のく近付く遠のく近付く遠のく近付く遠のく近付く。
突如、ガラスを思いきりトンカチで割るような耳鳴りがして、ついに声の端を掴んだ!
瞼の裏が一瞬白く光り、唐突に、ハッと意識を取り戻す。
ゆっくり彼は……目を開けた。
最初に彼の目に入ったものは、年の頃十七くらいの、
帽子を深くかぶった少年の姿だった。
彼は石壁を背にして、背後にのけぞりながらこちらを凝視していた。
少年は余りに帽子を深くかぶり過ぎており、
ちゃんとした輪郭を認識することが難しかったが
男子にしてはとても顔が小さい方だ。
肌は白く、華奢な体つきをしている。
服装は白シャツに、帽子と同じ色の茶色いオーバーオール。
突然目の前に現れた男を見て固まり、
驚きの余りか、大きく目を見開き口をぽかんと開けている。
目覚めた男は、少年を見てもまだ少し現実感を取り戻すことが出来ない。
意識が薄く、頭がボーっとしていたが
なんとか辺りを見渡してみる。
彼のいる場所は薄暗く、青白く、狭く
壁も地面もゴツゴツしていて酷く湿った場所だった。
しかも辺りには独特なカビの匂いが漂っていて、強い冷気が肌を刺す。
更に、彼等がいる空間を外と区別して区切る細かい柱。
……なるほど、ここは牢屋なのだと、男はやっと理解した。
牢屋は、剥き出しの地下道に、ただ人を閉じ込める為だけに作られた冷たい空間だった。
牢屋の向こうには松明があり、かろうじてその灯りで周りが見渡せる程度だ。
少し落ち着いて鼻から息を吸い込むと
鼻筋を通る冷気と、酷いカビの臭いに思わずむせた。
「あ、あの……これで、終わりでしょうか?」
目の前の少年が、震える声を絞り出して問いかけた。
少年は突然這って膝で歩き、男に近付いてくる。
腕をゆらゆらと伸ばし、ゆっくりと男に接近していった。
不思議と恐怖はなかった。
「終わりでしょうか? これで」
「む……」
「術式です。合っていましたか?」
「……」
「もう、大丈夫ですか?」と震える声で少年が重ね重ね問いかける。
「何の……」
男が口を開き、しかし少年はそれを止めるように、男の頬にそっと手を添える。
「未来の騎士王様。どうか、どうか私を、大陸一の騎士王にしてくださいませ」
「騎士王?」
「騎士……王様でございますよね?」
誤解の仕方が怖かったので、男は食い気味に言葉を被せ、強く否定した。
「違うが」
少し沈黙があり「ん?」と少年が表情を固めたまま首をかしげる。
「騎士お……」
「違う」と男は話を明確にするため、更に早口で言葉をかぶせた。
少年は、どうやら自分が想定していた様子と、
状況が食い違っているらしいということに気付き、男の頬からスッと手を離す。
「……あなたは誰でしょうか?」
「私は、桐生宗一郎という者だ。個人で人材コンサルティングをやっている」
「じん、ざい?」と少年は深く首を傾げた。
「そうだ。港区に住んでいる」
「えぇと……」
「なんだ?」
「違います」
「いや、違わないが」
「違うのです。私は此度の召喚儀式で、組織を統べる優秀な指導者、すなわち騎士王を呼んだのです。
決して、じんざいなんとか……ではないのです」
「ふむ。そう言われてもだな。私は騎士王などではない」
「剣を、使えないのですか?」
宗一郎は、自分のいる場所をもっと確かめたいと立ち上がり、改めて辺りを見渡してみる。
まごうことなき、牢屋だった。
「……県? 県庁に行く用事はないぞ。私は地方公務員ではないからな」
「では、魔法が……達者なのでしょうか?」
牢屋の柵の隙間に腕を入れ、本当に出られないかどうか、もぞもぞと試しながら答えた。
「まほろば駅前の映画なら見た。便利屋家業というのも、中々大変なものだな!」
少年は、なんとかこの男を返さなければと思った。
急いで懐に手を突っ込み、父から授かった大事な召喚の書を取り出してパラパラと知識を漁る。
手に汗が滲む。
本の中には、呼び出した対象を元の世界へ返すというような方法は記されていなかった。
確かに少年自身、此度の召喚に失敗し
望まぬ何かを呼び出してしまうという、一抹の不安を抱かなかったわけではない。
だが、そもそもこの時の少年には
そんなリスクを慎重に考慮しながら、事を行う程の余裕を心に残してはいなかった。
まさに、藁にもすがりたい気持ちで決行した計画だったのだ。
少年は諦めたように、開いていた本をパタンと閉じ、宗一郎の背中に目を細めた。
「……やはり違います」
「む? 何がだ?」
声に反応し、宗一郎は柵に片手を掛けたまま少年の方へ振り返った。
すると少年はぎゅっと目をつむり、両掌を握り締めて叫んだ。
「あなたは騎士王様なのです! 私は、父の書いた書の通りに儀式を行いました! 寸分違わずです!
そしてここに現れたのがあなた。ということは……間違っているのは、あなたなのです!」
「違うと言っているだろう……」
「どうして、嘘をつくのでしょう」と彼は首をかしげた。
「嘘ではない。先程も言ったが、私は騎士王などではない。ただの自営業の、男だ……それよりお前は誰なのだ。そしてここはどこだ?」
「えぇと、これは失礼致しました。では、私も自己紹介をさせて頂きます」
そう話すと、少年は「もう少し奥に」と牢屋の奥の方へ移動し、
宗一郎を手招きし地べたへ腰掛けて欲しいと促した。
少年も同じように座り込み、かぶっていた帽子を外す。
すると帽子の中から、まるでまとまっていたシルクのカーテンが上からストンと落ちるように、
少しウェーブの掛かった、煌めく金色の髪が落ちて、背中のあたりでくるんと跳ねて止まった。
淡い花の香りが広がり、そのとき初めて、宗一郎は少年の素顔全体を確認することが出来た。
彼の丸く優しい顔周りの輪郭。煌めく美しい金色の髪。
唇から発せられるその優しい声もあいまって、全体的に柔らかい雰囲気を作り上げていた。
そして、その中でもクリッとした大きな瞳が際立って目立つ。
つまり彼は少年ではなく、少女に違いなかった。
少女は、その金色の髪を僅かに揺らしながら、悠々と誇らしげに語った。
「私の名前は、セシリア。セシリア=グランチェスタ=
アーシェント=ストヴァリスス=グラデウスエミット=F……」
少女が、それはもう井戸端会議をしているおばちゃんの無駄話くらい長い自分の名前を、
牢獄の天井を突き抜けるくらいに鼻高々と語り始めたその時、
宗一郎の頭の中は、まるでカーテン越しの朝の陽ざしに、
すぅっと晒されるフローリングの床のように、綺麗に透き通り浄化されていった。
この感動をまたも、わかりやすく表現するなら
まるで半年間放ったらかしにしていた、手の付けようもない程ぐちゃぐちゃに散らかった
部屋の整理整頓の仕方が一瞬にして、神の啓示によって分かってしまった瞬間のように。
「みなさまは私の事を省略して……」
「山田だ」
「ち、違います! 私は山田じゃありません!」
「いや、お前の名前は山田だ」
「違います! 私の名前はセリシア。セシリア=グランチェスタ=アーシェント……」
宗一郎は思い出していた。
そう山田……山田は、宗一郎が自営業で人材コンサルタントを始める前、
前職に勤めていたカフェでマネージャーをしていた際、
店舗で働いていたホールの従業員の名前だった。
彼女は接客こそ丁寧なのだが、いつも仕事が遅く、厨房から檄を飛ばされては謝り、
時にはお客様のお釣りを渡し損ねて歩道を走り謝り。
もう謝る為に来てるのかお前はと言いたくなる程にミスを繰り返し謝りまくっていたスタッフ。
それが山田だった。
確かにセリシアは聖女にも似た優雅な雰囲気を漂わせてはいたが、
同時にその挙動一つ一つに自信がなさそうで。
しかし変なところで頑固さの残るイメージが見て取れる。
そしてそのせいで何度も山田もミスを繰り返した。
彼女の、妙にゆっくりと話す言葉の速度も、あの子に似ている。
そうだ、山田だ。ベストオブ、山田。彼女は、もう山田でしか有り得ない。
そう、宗一郎は納得した。
「なるほどな、山田」
「だから……」
「それで、ここはどこで、どうして私はここにいるのだろうか。知っていたら、教えてほしい」
セシリアは不満そうに少し頬を膨らませ、言葉を返した。
「ここは、エスニアです」
「エスニア?」
「エスニアはこの国の地名です。ただ、わからなくても構わないのです。あなたは、別の世界から私がお招きしたのですから」
「……ふむ」
「あなたにお願いしたいことは、ただ一つ……私を、大陸一の立派な騎士にして頂きたいのです。その為にあなたを呼び致しました」
両手を合わせ、祈りのポーズを取って、セシリアは宗一郎に懇願した。
「うぅぅぅぅむ」
一体、何がどうなっているのだろうか。彼を襲った頭痛は、もう大分マシになっていたので、
宗一郎は顎に手を当て、脳をフル回転させてみる。
未だに状況が良く掴めない……これは、夢の続きなのだろうか。
私は中目黒へ向かうために、つい先程まで丸の内線の電車に乗っていたはずだ。
今日午後に打ち合わせをするはずだった、豊商事の課長に御逢いするために。
それが、どうして……私は今、暗い牢屋で年端もいかない少女に騎士王だと勘違いされているのだろうか。
わけがわからない。というより、どうして牢屋なのだろうか。
さすがにわからないことが多過ぎて、パンクしそうになる。
「いくつか聞きたいのだが」