非常ベル
翌日を迎えた。
今日という日は朝っぱらから、煩わしい他人の怒鳴り声を聞かされることになった。
教室に向かう途中に横切った生活指導部の部屋。
怒声の主はこの中だ。
「いい加減にしろぉおお!!おまえ何考えてんだ、田渕!!」
ばんっと、机を叩く音が響いてくる。
夜市はそこで足を止め、部屋の目の前まで後退した。
中でお怒りを受けているのは田渕なのだろう、彼の声が聞こえないのは相変わらず。一体何をやらかしたのかと思って耳を傾けてみれば、何てことはない。ただの誤解だ。
「一体どんだけ無断で授業サボってんだ!!あ!?どういうつもりだ!!言ってみろ!!」
田渕は決してサボっていた訳ではない、だが初っ端から食らう生活指導の威嚇攻撃により、畏縮して誤解を解く発言をできないでいるようだ。これもいつもどおり。
ちゃんと考えれば、まともな生徒が理由なく授業をサボるなど、よっぽどあることではない。どうやらこの教師も怒りたくて仕方ない部類の人間なのだ。
教員なんてのは結局、聖人でも大賢者でもないただの普通の人だ。それが一端に他人を指導するなど、今更ながら失笑ものであった。こいつとクラスの運動部員達と何が違う。同じだろう。ただ自分の我儘がまかり通りそうな相手を自然に判別し、好き放題に言いまくる一般人だ。
ただそれだけの日常的な風景。
夜市は再び歩き出した。
「ったく、ウジウジウジウジしやがって!気持ちわりぃ。」
再び前に出した足を止めた。
いいのか、これで。
こんなのはよくある普通の光景、価値のない日常の一部。
心底気に入らない。気に入らないがどうしようもない、それで避けてきた臭い物だ。
この部屋の中にいるのが田渕じゃなかったら、きっと別の行動をしている。
そんなことはあり得ないが、もし怒鳴られているのが二条怜華であったら、自分は恐らく行動した。
しかしそれが田渕だからという理由で、さらりと日常の一部だと装ったのだ。
所詮自分も何てことない普通の人なのだと、当たり前のことを情けなく思った。
本当に気に入らない、自分も周りも全部そうだ。
夜市は戻って生活指導室の扉の前に。
そして一旦呼吸を整え、発言予定の決めゼリフを頭の中で復唱した。
「よし。」
扉に手を掛ける。
と、その時、同時に扉ががらりと開かれた。
向かい合わせになる田渕と夜市。眼前の田渕は目を真っ赤に腫らせていた。
「お、おう。」
奥を覗くと、ジャージ姿の教員が座っていた。
その眉毛とジャガイモのような顔面。例の体育教師と同一の人物だ。名前は知らない。
目が合うとガンをつけるような顔で若干威嚇気味にこちらを見る。確かにこれは怖いなと、田渕に少し同情した。
そして軽く会釈して、その場を一旦退いた。
田渕と共に教室に向かう。
鼻をぐずぐずと鳴らす以外に田渕は何も声を出さない。
「ただの誤解でお前は何も悪くないんだから、ちゃんと言い返せよ。負けてんじゃねーって。」
なんて声は掛けなかった。
今の彼が最も求める言葉はそうじゃないだろう。ただ慰めも励ましも、こちらの自己満足のようにしか思えなかった。
だから無言で隣を歩くだけに留めた。
やがて教室に到着する。
入った途端に、元気な輩の声援に出迎えられる。
もちろんそれは自分に対してではなく田渕に対してだ。
例の運動部連中とその取り巻きたる女子数名は、昨日撮影した動画の鑑賞に盛り上がっていた。
その動画とは、田渕の体当たり攻撃を撮ったものだった。一体誰が撮影したものかもわからないが、すでにその映像データはクラス内外に出回っている様子だ。
彼らはその動画を食い入るように眺め、そのダサい体当たりシーン前後を集中的にリピート再生しては大笑い、また誰かがそれを真似して大笑い。
そんな時誰かが、田渕が半ベソをかいているのに気が付いた。
「お前泣いてんの!?は!?マジで?うける~。」
「てか、顔がきしょい。」
「写真とろおぜ!おい田渕~、こっち向けよおい!」
どうでもいいんじゃない?
ふと二条怜華の言葉を思い出した。
その当人は黒板前の席について、こちらの騒ぎなど一切気にしていない様子であるが、やはり本当に気にしていないのだろう。
他人なんぞ、クラスなんぞどうでもいい。意味がない。
確かにそうだ。それに同意する。
だが、先程の体育教師といいクラスの連中といい気に入らない。
そこに自分の利益は全くないのは知っている。しかし、切り捨てられない気持ちの澱みが、ここに激しく渦巻いているのだ。
そう思っていると、自分の席に向かうはずの足は自然と進路を変更していた。
が、ちょうどその瞬間に鳴るのは始業の鐘。
それと同時くらいに担任が教室に入り、生徒たちは自分の席へと散った。
「日直号令。ん?後ろの、えぇ、黒…なんだ、君、席につきないさい。ホームルーム始めるよ。」
夜市は返事をすることなく席に着いた。
いつも通りの日常だ。
いつも通りで変わりなく、渇き、飢え、何かが歪み、見失ったままに茶色く錆び付く。
本当は何もかもが嫌で仕方ない。
それに気が付くのは簡単だ。簡単だが苦しく、どうにもならない。その現実を前に引き返すことしかできない。
ぼさっと眺める黒板は、数学の授業が始まっていた。
教師に一度くらい当てられたが、適当に黙っていたらそのまま過ぎた。
こんな感じで、死んでいよう。
くたばって死んだように、死人のように生きる。いいじゃないか。どうせほんとに死ねやしないのだから。
もうミイラとかゾンビとか、そんな感じの人生でいいんだって、もう随分にまえに妥協していた気がする。
ただやるせない。
死んだまま窓際に座っていたって、どうせ夢に描く様な展開には至らない。
世の中は、怪人とか仮面の戦士とかで賑わっているかもしれないが、どうせその問題、根本たる何かは依然置いてけぼりなんだ。
もう何でもいいや。
取り敢えず本格的な睡眠に入るため、机の上に腕を設定。
腕の枕は、案外骨がごつごつと額に当たるため、そのポジショニングは非常に繊細だ。
きっと二条怜華等の優等生は、こんなつまらないコツさえ知り得まい。
いそいそと額と前腕のベストフィットポジションを探す。
痛みが少なく安定する場所、これが意外と大事なのだ。
そんな感じで入眠の体勢を整え終わると、何てことの無い日常に消耗し、溜まっていた疲労が勝手に目蓋を下に降ろす。
そして次第にうとうと気が遠のいていき、落ちる様に眠りについた。
して、丁度そんな時だった。
廊下で突然に響き渡る、けたたましい警報ベルの音。
なぜ自室の目覚まし時計がここで鳴るのか、という寝起き特有の発想はコンマ1秒後に消し去った。
次に思うのは、今日は防災訓練か何かかだっただろうかという疑問。若しくは火災警報器の点検だろうか。
しかしながらこれが訓練でも点検でもない事は、ざわめく周囲の様子から理解した。
数学の教師は、廊下に首だけ覗かせて、他のクラスの様子をきょろきょろ確認。どのクラスもまだ廊下に整列してないが、事前に訓練の説明を聞いていない以上、やはりほんとの火事なのか。
そんなこんな、どのクラスも似たようなタイミングに、だらだらと廊下に並び始めた。
「いや、まさか。流石に違うよな。」
武蔵ノ宮高校2年B組。
それは突然の出来事だった。
時間割通りの授業は現国、その授業が始まって約10分後、突然見知らぬおじさんが教室に入って来たのだ。
教師も含め全員が、その謎のおじさんに対してきょとんと困惑、どうリアクションすべきなのかが咄嗟にでてこない状態。出るのはただ一言、え? という一文字だけ。頭の上には疑問符が可視化しているようだ。
しかし教師としては、そんな堂々と進入してきた不審者であろう男に対しただ突っ立ているだけという訳にはいかないのも当然で、疑問符を振り払うと、すかさず男を問いただす。
「あの今授業中ですが、どちら様で?」
現国の若い女性教師は、恐る恐るに話しかける。
しかし、それに対しておじさんは、あまり聞く耳を持ってはいないようだった。
「二条怜華はいるか?」
「え?」
「二条怜華という生徒がいるかどうかと聞いているんだ。」
「え、えーと。おりませんが。」
当然そんな生徒はこのクラスにはいない。一体どこの情報からそんな事を言っているのだろうか。
「ではどこにいる。」
現国の教師は彼女の事を知っていた、いやこの学校で彼女の事を知らない教師はいないだろう。どんな試験をやらせても満点に近い点数ばかりを叩き出し、スポーツは万能おまけに容姿端麗のどこぞのお嬢さまなのだ。
その有名人は3年の確かA組だっただろうか、しかしこの不審者にそんな情報を与える何てことはある筈がなく、次に思いつくのは通報の二文字だった。
「警察を呼びますよ!?」
そう言ってポケットから自分のスマホを取り出したが、不審者はそれに対して焦りも怒りもしない様子だ。
「なぜいないのだ。」
不審者のおじさんは座席に座る生徒達をぐるりと一周見渡した。
「あのバイクの少年、さては嘘をついたな。」
「ちょっと、あなた聞いてます?本当に警察を呼びますよ?それが嫌なら職員室に来てください。」
「黙れ。」
おじさんは、近づいてきた女教師を軽く突き放し、教師はその反動で尻もちをついた。
「まぁいい。ならば力ずくで、いやその前に余興の一つでもいいだろう。」
「ふぅ。」
腰に手を当て、軽く息を吸い込む不審者のおじさん。
そして次の瞬間に、おじさんは突然大きな声で、高らかに叫び上げた。
「変態!!!」
同時にぼむんと沸き立つ黒い煙。
煙はおじさんを全身包み込み、もくもくと天井まで達すると、あとは自然に消滅する。そして、煙が止んだそこにいるのは、先ほどまで立っていた普通のおじさんではなく、なんと怪人が立っているではないか。
黒光りするマッチョな上半身は、馬の体から生えており、頭には馬の頭蓋骨のヘルム、手には刺又、また体の各部に厳つい鎧を身に着けた。これぞ木曽馬怪人ウマンバである。
教室は生徒の悲鳴で一斉に沸き立ち、耳が割れるかと言うほどに空気が軋んだ。
それをみたウマンバは、刺又の一振りで教卓をUの字に変形。その衝撃音に合わせて怒声を放つ。
「黙れぇえええええい!!」
その一声で、生徒らは一瞬にして静まった。
一部のすすり泣く女子生徒を除いて、生徒と教員はウマンバの威圧に沈黙する。
「無駄口を叩く奴はこの机みたいな感じになる。頭がな。」
ウマンバは話しを続ける。
「諸君。吾輩は木曽馬怪人ウマンバ。最近テレビでよく目にするだろう? それが吾輩である。さて吾輩はとある要件あって参上した訳であるが、せっかくの機会だ。吾輩が直々に特別授業をしてやろう。なに、そんなに難しい内容ではない。」
「吾輩が行う授業はとある啓発事業である。駄目・ゼッタイ、というやつだな。では一体何が駄目なのか。この日本いや世界では公に認められた悪魔の取引があるのだ。わかる者、おらんか。ではそこの男。」
ウマンバは目の前に座っていた男子生徒を刺又で指して指名した。
一瞬の内に血の気が引いた男子生徒は声を詰まらせ、ぶんぶんと首を横に振った。
「わからんか。まぁ仕方あるまい。答えは賭博である。して、それが何故悪であるのか、説明の前に諸君らには一旦それを体験してもらおうと思う。では早速だが。」
その時、ウマンバは何の前触れなく刺又を投擲する。
飛翔する刺又は教室の後ろに。今まさにこっそり教室を抜け出そうとしていた男子生徒の頭上をかすめた。
「二度目は無いぞ。」
失禁する男子生徒。
ウマンバは近くの生徒に命令して後ろまで刺又を取りに行かせ、それが手元に戻ると話を本題に戻した。
「諸君らに賭け事を体験させる、それが一体どれだけ悪なのか今にわかるであろう。丁度今グランドで持久走をしているな、その一番になる生徒を予想して賭ける。して賭けるものは、そう、諸君らの命だ。」
「構わんだろう? 人間の命など大した価値はない。」
「では、隣の席の者同士二人一組になれ、よいな。まずは右側の席に座る者から始めるとしよう。あぁ、賭けるのは己の命ではない、隣に座る者の命が賭けられるのだ。外れれば、そやつの頭が潰され、当たれば二人とも退出を認めよう。」
「30秒後、黒板に走者の名を書きにくるのだ。では始め。」
ウマンバはそう言うと教室の前に掛かる時計を注視するが、生徒らはその突然のイベントに困惑しつつも従わざるを得ない状態だった。言う事を聞かなければ、あの何キロあるかしれない鈍器で殴られる。
助けが来ることを願いつつ、今はおとなしく指示通りに行動した。
隣の席の物と机を合わせ、それができると窓際まで走って、体育の授業を見に走る。
中には興奮で泣き崩れ、動くこともままならない生徒も見受けられたが、先ほどもあったように無駄口は死刑、手助けは叶わないと思われる。
そして、誰を書くかを決めた生徒らは、ウマンバの顔を伺いつつ、怯えながらに黒板までやってくる。震える手で握られたチョークはナメクジが這ったような文字しか引っ張れない。
まさか、本当に殺しはしないだろう。
そう思った生徒も少なくからずはいたかもしれない。しかしその幻想が打ち砕かれるのも時間の問題だった。
グランドにて始まる持久走。遂にスタートが切られて走り出す。
そうなるはずだった。
ところがどうしたことだろうか、体育教師が笛を吹くとグランドに散っていた生徒らは集合し、そして体操を始めるのだった。
それはどう見ても整理体操。よくよく時計を見てみれば、もうすぐ授業は終了する。体育の授業は着替えの時間も考慮され若干早めに終わるのだ。
よって一位は存在しない。
これがウマンバの描いた筋書通りのなのかはいざ知らず、ウマンバはその様子を見て上機嫌に笑い出した。
「うまははははははははっ。ぅまあ、残念だ。まことに残念。」
「これが賭博なのだよ生徒諸君、わかっただろう?理不尽で極悪、人の尊厳を踏みにじる悪魔の所業よ。この日本という国はだな、そんな絶望を生みだすこと、それの運営をすることを容認しているのだ。よいかな。」
「これも教育の一環なのだ。賭けで全てを失う絶望感、とくと味わうがよい。」
ウマンバはそう言って、蹄を鳴らし移動する。
逃亡阻止のため、まず廊下側の生徒達から殺していく気のようだ。
一人の生徒の前まで来ると立ち止まり、その刺又を振り上げた。
「死すがよい。」
「あっ、ああ、うわああああああ。」
狙われた生徒は、今になってそれが本気であると理解したようで、這いつくばる様に逃げ出した。
かくして振り下ろされた刺又は、机をぺしゃんこに、そして床を大きく陥没させる。
またしても悲鳴が巻き起こる。
もう平静を保っているのは不可能だ。パニックに陥る生徒らは教室の後ろの出口にどっと押し寄せた。
となりのクラスの教員が異変に気が付きやってくる、そしてウマンバを見るなり腰を抜かせ、四つん這いで移動すると体当たりするかの如く非常ベルのボタンを押した。
全教室に警報ベルが鳴り響く。
2年B組は一目散に散って行き、隣り合うクラスもウマンバに気が付くなり慌てて避難を開始した。
「うむ、まあよい。そっちは後で殺せるとして、二条怜華を探さねば。」
ウマンバはそう呟くと、上階へと続く階段の方へと駆けて行った。