プロローグ
今すぐへたりこんでしまいそうな程暑い。三月だと言うのにじわじわと蒸されるような、そんな感じ。汗を拭おうとして顔に当てた左腕は既に汗まみれで、一滴だって汗を連れてってくれやしなかった。
「……はっ……ぁ……」
息を吸いこむと、乾ききった喉が鈍く痛んだ。
体は酸素を欲しがっているのに、肺は圧迫でもされているかのように酸素を拒む。そのせいでなのか、酸素の回りきっていない頭は次第にぼーっとし始めて、耳鳴りがしてきた。けれど、何故かただ一つはっきり聞こえてくるのは俺の呼吸音と、住宅街に響くアスファルトを蹴る音。
きつい。もうやめてしまおうかな。
そんな言葉が頭に浮かばないわけでは無かった。ただ、そんな言葉が浮かぶ度に俺が言う。
だけど、走らないわけにはいかないじゃんか。
「ありがとうねぇ、助かったわ。貴方みたいな子が孫に欲しかったわぁ……学校は大丈夫なのかしら」
「え……っと、うわ、もうやばいかも。すみません、ちょっと急がないと」
「あらあら、本当にごめんなさいねぇ」
「いえ!大丈夫です。じゃあ、お気を付けて」
ふと、ついさっき交わした会話を思い出した。だって、知らないふりをする訳にはいかなかった。あの細い、小さな体であんな重たい荷物を運んだら、一体どれ程の負担がかかるんだろう。
(まだ、間に合うし……ギリギリだけど)
目の前がチカチカしてきた。
次の角を右、左、そしてまた右。
あの大通りが見える。あぁ……あの時と同じだなぁ、なんて。昔のことを思い出したら、少しだけ懐かしくなって笑った。
好きだ。皆が、野球が、高校の三年間が。苦しかった思い出も、辛かったこと、泣いたこと、嬉しかったこと、楽しかったこと、楽しかったこと、楽しかったこと。全部、好きだ。俺にとっては全部、大切で仕方ない。
俺は今まで上手くやれただろうか?
大切なものを守ることは、案外難しくて、意外と辛い。
「……も……ちょい……っ」
後少しで、思い出のグラウンドへ。
そしたら俺は、皆と集まって最後の野球をするんだ。今は苦手のスライダーも打てるようになってるから、皆はきっとびっくりするんじゃないかな。そんなことを考えながら、またアスファルトを蹴る。
今日が終わって、俺も終わったら、世界はどうなってるのだろう。
皆俺の事を忘れる?それとも不思議な事があった、なんて思い出す?
別に、俺一人が居なくなっても世界に影響しない。俺一人居なくなろうが、そのまま居座ろうが、世界にとってはどうでもいい。所詮俺の存在なんてそんなもん。それでも、いい。たまに俺の事を少し思い出してくれるような人が一人でもいてくれたら、そしたら……充分幸せだろう。
あの人が大切な人に最後に見せたあの表情は、その人への愛しさ、感謝、二度と会えない事の寂しさ、過去を思い出しての懐かしさで満ちていた。
もうすぐ、そんなあの人と同じように、皆と会えなくなる自分は……どうするべきだろう。
大通りに辿り着く。信号が青になるまで息を整えながら、当たりを見渡した。
今度は、あの日と違って車通りが少なく、突っ込んでくる車もなかった。
「……__さん。」
信号が青になる五秒前、俺は青空に向かって言った。
「あの人の見送りに行ってきます。これが最後です。」
澄み渡る青空が眩しかった。まるで、あの人みたいに。