こんな風に出会う。
毎朝、駅まで歩く道の途中で僕を追い抜いて行く人が誰なのか知ってはいたけれど、声をかけたことはなかった。正確には声をかけられなかった。
彼女はきっと僕のことを覚えてはいないから自己紹介からはじめなくてはならないし、そのためには速度を合わせて進む必要があるだろう。それに彼女は、僕の知っている彼女とずいぶん変わってしまっている。
だから、僕は彼女の後姿を見送るだけだ。
トレーニングの結果の美しいフォームで走るその人は、いつも膝丈のスカートで華奢なパンプスを履いている。
つまり、ビジネススタイルで僕を追い抜いて疾走していくのである。しかも、毎日。
僕の通った中学校は陸上競技が盛んで、僕の入学した年の三年生たちは全国大会のレベルだった。報道でしか見られないスターたちが、目の前で練習しているのだ。当然のように陸上部は人数が多くて、先輩たちには記録を出す奴の顔しか覚えてもらえない。
小学校のリレー選手くらいじゃ、話にならなかった。自分はずば抜けた才能なんか持っていないと入学早々知っただけだ。
地味なストレッチ運動を繰り返す一年生の横で、リレー競技の選手たちがバトンパスの練習をする。腕の筋肉を伸ばしながら、それを見ていた。
仰向けの手の中にバトンが入ると同時に、魔法のように返る手首。そしてスピードを乗せたふくらはぎの動き。人間の身体を美しいと思ったのは、あれがはじめてだった。
第二走者が彼女だった。第一走者を待つ緊張した顔、テイクオーバーゾーンを超えてからの躍動を、今でも覚えている。ふくらはぎから足首までの美しいラインは、僕を魅了した。それまで女の足に興味を持ったことなどなかったのに、どこがどうなって性的な視線になったのかは思春期の謎だ。
とりあえず彼女の足は美しく、部活動の目的が彼女の足の鑑賞になったのは言うまでもない。
だからと言って一年坊主が三年生の代表選手に声をかけられるはずもなく、他の部よりも全国大会分遅くなった先輩たちは、終わるとあっさり引退していった。
彼女がスポーツ推薦でなく、近隣の進学校に進んだと知ったのは卒業した後だ。何度か卒業生を招いた練習会があり、そのときにもう走っていないのだと聞いた。
先輩たちが卒業してから成績の落ち気味な陸上部は、一部の熱心な生徒以外はダレまくり、全国大会のレベルには程遠くなっていた。
そして幼い欲情は自分の中で過去のものとなり、十年近くが過ぎたのである。
数年前に父親が家を買い、僕の住まいは少し変化した。中学校で言えば学区内だから、それほど大きな変化じゃない。けれど近所にどんな人が住んでいるのかは、知らなかった。
はじめて彼女に気がついたのは、まだ大学生のときだ。日曜の昼過ぎに本屋に向かう僕の前を、思いっきり好みの足が歩いていた。自覚できる程度に足にフェティシズムを持った僕は、当然その足の持ち主が気になる。速足で追い抜いて、さりげなく振り向いて驚愕した。
あのふくらはぎ、あの足首は僕がずっと思い描いていた形だ。薄い皮膚の下に柔軟性のある筋肉がある。その足が走るとき、どういう形になるか僕は知っている。
藤崎涼香先輩、僕の初恋はあなたの足でした。そんな風に声をかけるのは、絶対にアヤシイ。
就職してしばらくすると、先輩が毎朝自分を追い抜いていくことに気がついた。さすがにハイヒールでこそなかったが、朝の風景の中にビジネス服の全力疾走は異質で、しかもパンツではなくスカートであることが余計異質で。
もう少し早く家を出れば、あんな風に走らなくても充分に出勤に間に合うのに。どんだけ寝坊してるんだ、先輩。慣れて笑いが出るころには、僕にとっての先輩は毎朝楽しみに観察する野鳥みたいなものになった。
今日はネイビーのジャケットだった、昨日はベージュのスカートだった、みたいな。
僕は先輩の足さえ見ていれば満足だったし、すぐに声をかける気はない。ただいつか、あの足を間近で観察し、この手で薄い靴下を穿かせてみたいものだと夢想するのみだ。
そしてできれば――いや、これ以上のフェティシズムを披露するのは人格の問題になるかも。
ってわけで、僕はここ二ヶ月ばかり先輩の後姿を見続け、毎朝非常に良い気分で出勤していた、新入社員の緊張を上手い具合に緩和してもらい、先輩には感謝しかない。
そして本日は雨が降っている。まさか傘を差しての全力疾走はないだろうと、雨の中を歩く。先輩が速足で追い抜いていくだろうと思いながら歩き、結局後姿を見ないまま階段にさしかかったときに、横をハイスピードですり抜けて行った人がいた。
ちょっと待ってください、先輩。階段は濡れていて危ないです。そんな声はかけられず、駆け上っていく後を追って(スカートは膝上だった。ラッキー!)僕も階段を進んでいく。
何段か上の人がバランスを崩すのは、見えていた。見えてはいたが、当然持ち直すと思っていたのだ。
きゃー、なんて女の子らしい悲鳴じゃなかった。うぎゃーとかうわーとか、とにかく大きな声と共にまわりの人が一斉に横に飛びのき、多寡を括っていた僕だけが真下に取り残された。
ご想像の結果通り、彼女は僕を巻き込んで下に落ちたのである。ちなみに僕が下敷きになったため、彼女はストッキングが敗れただけの無傷だ。
「すみません! 申し訳ありません! お怪我はありませんか!」
大丈夫ですと立ち上がろうとした瞬間、手首に痛みが走った。慌てて押さえているうちに、面白いほど腫れがきた。自分が原因の彼女は逃げることもできず、僕は僕で尋常でない腫れに慄いて、その場から病院に向かった。開院まで一時間ほどあったが、緊急の場合なら少々の融通を利かせてくれる個人医院を知っている。学生時代、さんざんお世話になったところだ。
「朝は少し余裕を持って出たほうが良いですよ、藤崎先輩」
タクシーの中でそう言うと、うろたえた彼女の顔は、手首の痛みを一瞬忘れるほど愉快だった。勤め先に連絡し、入社一回目の有給休暇を使った僕の左手首は、ギプスでしっかり固定された。慰謝料のなんのと言っている彼女を止め、僕は自分で会計を済ませた。
「本当にごめんなさい! お詫びに何でもするし」
泣きそうな顔は、バトンを待つ凛々しい顔の先輩ではなくて、中学生の二年先輩と大人の二歳年上では、差の開きが変化していることを自覚した。
「お詫びは結構ですから、これから仲良くしませんか。先輩後輩じゃなくて、友達になってみたいです」
連絡先を交換して、今日のところは帰宅した。母が大騒ぎをしているし、利き手でない方を動かせないってだけで、動作はこんなに不便なものなのか。
お詫びは結構ですよ、先輩。ただこれから仲良くなったあかつきには、僕はあなたにお願いしてみたいことがあります。それを聞いてもドン退かないでくださいね。
とりあえず日曜日にもう一度会う約束はしたから、長期戦で行くつもりではある。
fin.