わかりやすくてつまらなくて
「M県T市」
驚くほどあっさり地図は見つかった。
現実にある土地だ。僕の住んでいるY県に近い。とりあえず一安心だ。よかった。僕の頭が創りだした幻想世界ではないようだ。
「ランドセルのない子。かわいそうな子」
また頭の中で声がした。また・・・?あれ?前にしたのはいつだっけ?もう少しで思い出せそうな気がするんだけど。
聞いたことある声だ。当たり前か。前にしたことがあるもんな、あれ?いつだっけ?
ん?今僕が声に出してる?ううん?そんなことないよね。うん。
「とりあえず今は帰宅しよう」そう心に強く決めた僕は、目の前の地図看板で駅の場所を確認する。
幸い駅はここから歩いて二十分くらいだ。いつもは二十分も歩くとなると憂鬱で、股ずれも悪化するから避けたいところなんだけどまあ一応緊急事態だし仕方ないよね。あ、金がない・・・まあスリに合ったっていおう。なんとかなるでしょ。お金はあとで絶対払うし。なんなら電話番号だって住所だって本名だって駅員さんに教えちゃうよ僕。うん、たぶんなんとかなるよね。まあめんどいけど歩くか。
「かわいそうな子、か」ふいに忘れかけていたことを思い出した気がした。
僕はいつもそういわれてたような・・・母親に?いや・・・誰だったっけ?
三十代ぐらいだろう。いや見方によっては五十代にも見える女性が、地べたに座っていた。
地下鉄の電車が通過する音はうるさい。それにもかかわらず、彼女は一点を見つめて苦しそうに顔を歪めて微動だにしない。ホームとホームの間の小汚い椅子がすぐ近くにあるにも関わらず、自動販売機の裏の柱にもたれかかっている。添え木のようなひどく痩せこけた体を投げやりにほおりだして、肩まで伸びたちぢれた髪を一定の間隔で触っている。半年以上前に明らかにパーマをかけたであろう人工的なちぢれ毛が異様に不自然だった。
彼女は何を感じ、何を思い立ち、どんな姿で、どんな声色で、どんな樣子で美容院に頼んだんだろう。人間の想像できない色気が怖かった。
女性を窺うようにして六歳くらいの女の子が立っている。深い青のワンピースは絹のように滑らかで、普段着ではないことが一目で分かる。赤いランドセルが不自然なほど光っているように感じた。丁寧に揃えられた教科書がその中に入っているのが見える。痩せぎすの女の子の体には不釣り合いなほど背筋を伸ばし、少し首を曲げて女性を見ていた。親子なのだろうか。彼女も入学式だったのだろうか。そう考えるのが自然なようだが、何かひっかかった。僕はというと、かろうじて白色だと認識できる二線の内側に入って電車を来るのを待っていた。
周りに人は女性と女の子しか居ず、等間隔にあいた自動販売機のまだずっと奥に二、三人居るのが見受けられた。
僕は彼女らに背を向け、手書きで書かれたお粗末な時刻表を思い出そうとした。丁度さっき僕が到着すると同時に地下鉄が通り過ぎただけで、一向に来る気配がない。
さて、何時だっただろう。線路の奥のフェンスには気の遠くなるような歯医者の大きな看板がかかっている。なんて投げやりなイラストだ。
なぜこの手の看板はいつもいつも歯がゆさを隠そうとはしないんだろう。虚しくならないんだろうか。苗字に犬が入っているだけで、犬に医療器具を持たせ、医者の格好をさせるなんて。その犬は決まっていつも茶色と白だし・・・犬っていうものを舐めすぎていないか。電話番号まで中途半端に「ワン」をつけていて、何かしら描いてるほうも、頼んでいるほうも謎の安心感の共有が感じられる。なんかここまでやってれば安心だ。みたいな。あほか。
「う・・・ぁ・・・」
僕が歯医者の看板から、その隣の眼鏡屋にターゲットを切り替えようとしたその瞬間、背後からうめき声が聞こえた。
野太い声だ。とても女性が発したとは思えないが、目の端でとらえた限りでは予想通りあの女性が発していた。
泡を吹いていた。目は焦点が定まっておらず、柱にもたれた背中を上下にこすりつけるようにしながら荒く息をしている。前につきだした両手の指の関節という関節を思い切り曲げ、怪獣ごっこをするような滑稽なポーズをとっている。
「ああ・・がぁっ・・・があああ」
泡を吹き出した口からよだれが次々と溢れでて、目からは幾筋の涙がつたっている。
僕は何もその場を動けずに、どうしようという気もおこらず、ただ見ていた。
その時ふと視線に気付いた。少女だ。ランドセルを背負って、女性の姿を伺っていた少女がこちらの方をじっと見ていた。
今までは気付かなかったのだが、その女性にそっくりだった。ただ、それよりもっと、魚のエイに似ていた。
空虚な目だった。何も訴えかけていない。助けなんて求めず、悲しそうでもなかった。感情が読み取れなかった。
親戚の葬式に無理やりつれてこられたような顔をしている。目には見えないが悲しいときにとる態度を学習しているような、そんな表情だった。
しかし、自分が思い込めば、助けてほしいと訴えかけているような目でもあり、なんというか・・・無表情だった。女性が激しく震えたと思うと、彼女のスカートが湿り、水が線をつたって溢れだしてきた。水は目の前にいた少女の足を濡らしながら進んでいく。失禁した水たまりの中の泡がきらめいて妙に美しかった。
僕はどこか冷静だった。いや・・・いつもか・・・僕はいつも・・自分が・・いや、何もかもがよく分からなかった。自分の感情さえ・・・なんかううん・・・なんか・・・やだなこういうの独白みたいで、すっごく恥ずかしいからやめよう。ほんと、狂ってしまったといえば聞こえがいいが、あああ、結構普通っぽい人でも狂うんだなあとか、見るからに薄っぺらで趣味とかなにもなさそうなこんな人が狂うなんてなんか・・そんなもんかぁとか何とかしみじみと感じた。
分かりやすい狂った表現で、見てるほうが笑っちゃうくらい・・・あの少女も見るからにホラーっぽいし、ああ・・・何だかつまらない・・つまらなさすぎる。
もっともっと、僕をわけわからなくさせてくれ。もっともっと・・・僕を・・・ああ、あほらしい、やめたやめた。
僕は普通に地下鉄に乗り帰宅した。なぜかその日はよく眠れた。よかった。運動するといいことあるんだな。アーメン。




