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エイ  作者: ごめん手
17/22

リリース直前

「えりこ・・・」

 彼女は泣きもせずに、ギチギチと絞められるまま、単語のようなものを口走り続けた。

 聞こえたのは、その言葉だけだった。

 意味を紡ぐのは受け取り側だということを痛感する。

 恵理子なんて、こいつが知っているわけもないのに。

 もしや、レズビアンの彼女の名前かもしれない。れいこかも、えみこかもしれない。もう一度本当かと聞かれたら、すぐ気が変わりそうな、そんな言葉の音を残して、彼女は息絶えた。

 さて、何で僕、えりこをさっきの少女だと思わなかったのだろうか。親子関係で、最期に娘の名前を呼ぶっていうのは、十分に考えられるっていうのに。

 反射的にとしかいいようがない。

 この娘は、えりこじゃない。

「えりこ・・・」

 そうつぶやくと、彼女は「え」と言った。

 何も聞かないでおこう。

 僕は、帰るんだ。

 そして、明日も明後日もパンを食べながら、ピザの具を並べ続けるんだ。

 明日は、久しぶりに牛丼屋で親子丼でも食べようかな。

 さあさ、帰るんだ。僕は来た電車に一本遅れで乗り込み、T市を後にした。

 うん、まいった。

 さあさ、まいったぞ。

 この隣にいる子をどうにかしないと。


 僕には何かをしようという気がなかった。

無論、隣にいる女性にだ。

 穏やかな朝は、こんなにも気持ちがいい。

僕の悩みは、いつもに増して、何も思い浮かばなかった。

 彼女の淡い色全部がぬごっと動くと、僕は玄関の方に足を滑らせた。

 ベランダの方から見える彼女は、洗濯物でも干すのだろう。がらりと窓を開け、外に降りた。僕にできることは、そう。ひとつだけだ。後ろについてきている彼女をランドセルごと手で囲むようにしてしゃがむ。

「32歳くらいだ。たぶん子供もいる。君と同じくらいの歳だろうな。」

 目は見れないので、前髪部分を見る。彼女はあの赤ん坊特有の目つきで僕を見ているのがぼんやりと分かる。

 あの赤ん坊の目つき。ペットショップでよく見る、あの目つき。あ、ペット側じゃなく、ペットを飼おうとしている人間の目つきね。あの万能感にあふれんばかりに動物を見る目つき、あれが一番赤ん坊っぽい。そう思いませんか皆さん。

「あの人がいい?」

 彼女は何も言わなかった。僕のほうを見るようでもない。

「お前、なんでついてきたんだ」

 今日はよく喋る。と思った。菓子パンを食べるとき以外、口を開けることはあっただろうかと自嘲気味に思う。

「僕は、帰りたいんだよ」

 おうちに、と言いかけた途端。彼女は、転けた。何もないところで、その場で転けた。

これは倒れたといったほうが正しいんだろうか。とにかく少女の顔が地面に張り付いた。

赤いランドセルから、みるみるうちにあの独特の匂いがわき出し、薄いピンクの粘膜状になった液体が髪の毛や衣服にからみつきながら地面を侵す。

 僕はとっさに、ベランダの方にいる女性をみた。

 彼女は笑っていた。手に広げていた洗濯物であるはずのものが、何やら小さく蠢いている。

 小さな触手、繊毛のような、いや、小さなミミズのようなと形容するほうが正しいか、ぷりぷりとしたものが何百、何千とからまりあった物体が、手に絡み付いていた。女性はそのことに気にも留めない様子で、僕のほうだけをみてずっと笑っている。

 どのような笑い方だろうか。顔の見えない笑い。表現がおかしいかもしれないが、笑っているのに、笑っていない。

 ああ、鼻が膨らんでいない。筋肉の流動がわからないのだ。口が口角をあげたまま、生まれてきた人間のようだった。

 僕は口の中に懐かしい味が広がったような気がして、何もできなかった。

 僕の周りには、ピンクの液体が広がって、それと分離するようなどす暗い赤色の固形のつぶが流れている。

 少女も、彼女も起きてこない。

 起きる?起きるとは、何と自分の都合の良い言葉だ。起きている、起きていない。そんなことはどうだっていいんだ。

 自分の都合がいいことが起こってほしい。そういうことでしかなかったはずだ。

 なら、行動しようか。

 今の僕は、秩序を求めて彷徨うウォリアー(僕はいつもPRGの最初の職業は戦士を選択しない。理由はないがいつもだ)なのだ。

 何も言わずに蹲る少女のランドセルを持とうとしたが、少女がお腹を抱え込むような体制なので、少女自体を運んだほうがはやいと気づく。

 よく噛むと言われる近所の家のハムスターを持つときのように、上から掴む場所をシュミレートし、一気に下から掬い上げる。

 洗濯のりが手についたような感覚がきもちわるいな。それしか思わなかったが、ひとまず歩きだす。

「この子を返さなければならない」

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