デニッシュパンより軽い命
決定的な、正当性のある、わかりきったもので、万人が認めてくれる、そんなものが殺人だと思った。
けれど、それはまた国や、所属するグループによって違うことも明らかで、そんな話がしたいわけじゃなく。
殺人を犯した自分でさえも、言い訳が可能で、殺された方にとっても言い訳は可能だ。
きっと、僕が明日殺すからっていっても、彼女は逃げ出さないだろう。
彼女の解釈は成長する。困難なほど、成長しつづけ、これも1つの愛の形だという陳腐な物語に落とし込めれば、それはそれは大層に人工的なベールをくるんだエイエンのものとなる。ように見える。
僕は彼女に明らかに間違って欲しかった。だから、僕が明らかに近いと言われる殺人というものを持ちだしてみたのだけれど、そこで、何かをしてくれるわけではなく、呆けたように僕の手を見つめるだけだった。
はっきりとさせたい、イチかゼロ思考。融通がきかない。そう妹は言ったっけ。罵るわけでもなく、トーンも変えずに。
そうだよねお兄ちゃんって。そう言った。僕はずっとそう思ってきた。あらゆる自分の解釈をそれに当てはまるように出来るのだから、簡単だった。
僕は妹に与えられたようなもので、それを僕が生きることだとおもっていた。
僕は、中学生のとき、ブランド品の財布を持ってみた。もっている人が格好いいのだとされていたから。
結果は、からかわれるでもなく、見向きもされなかった。僕は財布を見てもらえるほど解像度が高くないようだった。
ドット絵は、ドット絵。1ピクセル茶色を加えようが、そんなことはみえるはずもないのだ。
ドット絵が殺人を犯す。これはクラスメイトにとっては、断罪すべきもので、結束と暇つぶしと、とんでもない快楽を与える。
個人的に断罪してもいいという、新ルールが生まれ、ますます国になっていく。
僕は、選択をひとつもしたくなかったんだ。ああ、そうだった。
選択しないことも選択だとか、そういうのは認識しなきゃいいだけで、エンターテイメントにも生きられない。というか、そもそも、生き方とか、個人とか考える必要すら面倒だったし、すべて決めてもらって、それをこなすだけにしたかった。
目に入ってくる情報や、その他なんだっていい。とにかくもう面倒でたまらなかったしそれを考えているときは、いつもトイレに行きたくなったときだった。
恵理子が死んだのはそんなことをグルグルと考えながら、口にものを詰め込んでいるときだった。
死体を盗もうかと思ったけれど、そんな気力もなかった。腐ったりすると面倒くさいらしいし。以前読んだ小説によると。
ドライアイスを買いに行くのが面倒だ。
だから恵理子を頭の中で飼うことにした。
自分と同じ不細工な太り気味の妹。吐き気がするほどに上を向いた団子鼻から息が漏れ僕にさっき同じものを食べたであろう息をふりかけ、話しかけてくる。
彼女の命令は絶対だった。
でも如何せん、僕の冷静さは、そこでも恵理子に人格を与えることを許さず、一ヶ月の間、飼い慣らしてみたものだけれど、命令はせずに、精々裸になって、僕の処理を手伝ってくれるのみだった。
まあ、このままでもいいかな。そう思うとあっという間に高校を卒業してしまって、就職とやらは出来ず、週2回働くフリーター生活になってしまっていた。
恵理子は変わらない。笑ってもくれる。僕はもう、それで良かった。
奥の待合室でタバコを吸っている兄ちゃんを尻目に僕はピザの具材を並べていく。
覚える必要なんかない。目の前にはメニュー毎のレシピを書いた紙が貼られている。それを見ながら多すぎず、少なすぎないと思われそうな量をつかんで並べていくだけだった。
これが一生続いていくのだろうか。そう感じるのは若気のいたりなのかもしれない。
けれど、僕には他の選択肢なんか何一つみつからなかった。
システムを考える側が面白いのはわかるけれど、僕には、勉強して大学に行く意欲も、
現実面で言えばお金のほうもなかった。
そりゃ、泥棒するよ。うん。泥棒する。そのほうが手っ取り早い。
この有り余った体力と、磨り減った精神力を使って、僕は恵理子を創造し続けた。
でも、僕に命令は下してくれなかった。なんで?
僕は、「死んだほうがいい」といってくれるだけでいいのに。
この虚しさは、虚しさは・・・。
僕はよく寝るようになっていた。
起きると安い菓子パンを口にいれるだけ詰め込んで、テレビを少し見て、また寝る。
そして、週に二回だけ、家の近所の個人が経営しているピザ屋に行くだけだった。
ある日、洗面所に立つと、僕は涙が少しでた。
鏡に写った自分に、会いすぎた。もう飽きたよ、その顔。僕は飽きすぎると泣けてくることを理解した。
菓子パンを食べる。今日はピザビックパン。感触が耳に伝わって、飲み込むことが笑ってしまうくらい意識できて、僕はそれを繰り返した。
いち、に、いち、に、いち、に
そう言って咀嚼運動を繰り返す。恵美子。恵美子。恵美子。恵美子恵美子恵美子。
僕の恵美子が消えた。咀嚼する度に消えていくのがわかった。恵美子が噛み砕かれ、千切れ、肉も血も散らばず、恵美子はくにゃくにゃになって、四方にちらばって、消えた。
いち、に、いち、に、いち、に、いち、に、いち、に、いち、に。
それでも僕は噛むのをやめなかった。
止めることが面倒だったそれだけだった。
恵美子は消えた。仕方ないなと思った。
急に自慰がしたくなった。パンツをずりおろし、咀嚼をしながら、僕はいつもより速く自慰をし終えた。
気づけば四つめのパンだった。デニッシュパンだ。布団の中で咀嚼した。いち、に、いち、に。
涙が止まらなくなった。何故だろうかは分かっている。僕は、期待しすぎたんだ。
期待しすぎた。
恵美子は普通のやつだったし、僕は恵美子を好きでもなんでもなかった。
臭い枕と布団が、僕を捨てる紙袋のようにくしゃとまとめて包んでくれた気がした。
このまま生き続けて死ぬだろうから、誰か僕を殺して下さい。
「クジラ・・・」
そうだ。あのクジラみたいな生物だ。
あれに殺してもらおう。そう決めてからは早かった。
恵理子が死んだあの日。きっと彼女が呼んだんだ。暗くて見えなかったが、彼女に会えば何か知っているはずだ。
会いに行こう。彼女に。
うん、そうだったはずだ。
僕は、そういったはずだ。
声には出していなかったかな、まあ、そんなことどうでもいい。
気づいたとき、僕は包まれていた。
布団に潜っているときのような杜撰さではなく、大切だからゆえにきつく握り締める理想の、皆が言う母親のような厚みだった。
恥ずかしながら、少し泣きそうにもなった。
目を開ける感覚はあった。でも、なんて言ったらいいのかな、そこが綺麗にきりとられたように、麻酔のときの皮膚を縫う感覚のように、意識に靄がかかっていた。
視界はどうだ。見えなくはない。少し酔うけれど。
ああ、わかった。わかったわかった。
僕は、眠りに落ちたのだ。あるいは、死んだのだ。あるいは街に出たのか。
靄がかかっているというのに、何かが起きることに注視できるというのか。出来はしない。うん。
目にもう一度意識を運ぶ。瞬きを繰り返す。
粘着状の目やにがこびりついたように、ぬちゃり、ぬちゃりと瞼が交尾し、僕の水晶をどこかにしまい込む。
僕にいたっては、無意識に掴んでいたであろう手に持ったものが爪と皮膚(いや爪と指の間と言えばいいか、いやどこまでが指でなんだろう、ああ、そんなことどうだっていいのに!)の中に入りこんでいることがもどかしくてたまらなくなっていた。
爪同士を絡ませて取り除こうとも思ったが、手は思った通りに動かず、指が大きく空を切る。
途端に爪らしき鋭利なものが親指に突き刺さった。
視界がひらけていく。ああ、そうなのか。僕の体じゃないのか。僕は最初からわかっていたかのような納得が訪れたことに不満を感じなかった。
ぽっこりと出た腹が見える。全身が薄い緑と灰色を混ぜたような色をしており、衣服は身に着けていない。
指は九本。左右に四本ずつ分かれていて、一本は、手のひらを返したところにある。人間と同じ親指のような役割なのか、その一本だけ、他の指より太い。
すべての指に長い爪が生えている。
小人というか、ゴブリンに近い感じなのだろうか。周りの景色といえば、薄暗くて、とにかく赤い。
赤い肉をスライスしたような破片が、そこら中に散らばっている。ゲームでみた、体内をモチーフにしたステージに似ている。
床中に空いた小さな穴から液体がこぽこぽと溢れ出ている。途端に穴が勢いをつけて液体を吸い込む。
水なのか、血なのか、それすらもわからないほどに赤い色に塗れている。
僕は周囲を見回して、出れそうなところがないか探した。
十畳程の空間のひしめき合った肉の壁には一切出口らしきものが見当たらない。
試しに壁を押し付けるように触ってみる。弾力のあるバスケットボールのような感触。爪で裂いてみようとするが、固すぎて裂けない。
床の穴を広げようと、穴の中に爪を突っ込んでみるが、穴は浅く、直ぐに固い地面にぶつかった。というよりも僕の手の握力は思ったよりずっと弱いようだ。水のコポコポという音が増していく。
十分ぐらいその場で立っていただろうか。
足の甲までしかなかった床の水が膝のあたりまできていた。
僕は今になって何もわからないことが怖くなってきた。
じゃぶじゃぶと水の音をならし、五メートルぐらい先の奇妙に床が突き出している小島のような場所に移動する。
周りには何もない。わからない。周りが暗すぎる。
「はあ、はあ」
口からだらしなく息が漏れる。
どうやら体力は変わっていないようだ。
重い腰を上げ、小島に倒れるように乗り出す。
その時、水が大きな音を立てて沈んでいく。吸い込まれているといったほうが正しいか。
丁度小島の対角線上あたりに大きな穴がぽっかり空き、その中に水が流れこんでいた。
なんだ、定期的にこういったことがあるのか。今、僕も行かなければいけない。それは分かっていた。
けれど、出来なかった。樣子をみたい、というよりも何がなんだかわからなくなっていた。
水が吸い取られていく。同時に穴も塞がっていく。僕は見ることしか出来なかった。
痛くもないふくらはぎを執拗にさすりながら、穴から大きな舌のようなものが突き出たそれを、じっと見つめる。
僕にはもう、何もない。だから見つめる。見つめるしかできる事はなかった。
するとどうだろうか。穴がもう一度大きく穴をぱっくりと開いた。その中はやはり体内のように真っ赤で、繊毛のような触手のようなものが、数百、数千と壁にびっちり張り付いて、個々を主張するように、それぞれが勢い良く動いていた。
その中で、小さな玉が動いている。視認したときにはもう外に飛び出ていて、僕の目の前に移っていた。
玉は、顔だった。ほのかに懐かしい顔。
恵理子・・・なわけはなく、懐かしさは各パーツのせいだろう。
目も鼻も口も輪郭も、使い古されたような懐かしい顔だ。
平均的な顔というよりも、やや野暮ったく目だけが切れ長で鋭く光っている。女性だ。
女性に違いないと思った。髪が長かったという単純な理由だけだったが、もしかしたら違うのかもしれない。
とにかく頭が痛くなった。この痛みから逃れたかった。そのためには何だってはしないが、ある程度のことはするかもしれないと思えた。例えば、1週間朝6時に起きてジョギングとか。あ、もちろん1時間限定で。それ以上の痛みだったが、逃れるためにそれ以上のことをする力が無いと思った。
僕には結局ピザをつくることぐらいしかできないんだ。あ、ピザの生地とか具とかは自分で調達出来ないだろうし、ピザ屋に行かないと作る気にならないから、ピザもつくれないんだろうけれど。
個人の動機の威力を信じ過ぎだよ皆。ルサンチマンで人は動けないし、続けないし。虚しくなっても楽を選んじゃうよどうしても。だから自分を見つめるだなんてことは結構危険で、それやっちゃうと「本当」という悪魔のワードが出てきて地獄に落とされちゃうんだ。落とされた横に天国があったり、なんだかわかんないところがあって、ころころころころ転がっていくんだよ。
そして死ぬ。のかな。どうなのだろう。それじゃああまりにも安易だ。いや安易なのかもしれない。
トライ・アンド・エラーの回数を寿命にすればいいのに。そうしたほうがもっとやれる気がする。このやれる気がするっていうのもやっかいなんだよな。ああもう、バイトするなら就職するべきなんだよ。ほんとほんと。
でも面倒くさい、面倒くさい。あえてやるも面倒くさい。僕はもうやんなっちゃったよ。
明日食べるパンのことだけを考えて生きていけれたらいいのに。食って寝る。これでいいのだよ。
そういうことをうつろな目で考えていたらいつの間にかその頭だけの女が何かを喋っていた。




