いっそ男に
「ただいま」
返事がない……。もう一度声をかけてみるけど、やっぱり返事はない。
昨日仕事は全部終わらせた、って言っていたから、きっと何かに集中してしまって、ボクの声なんて聞こえないんだと思う。キミは、本当に自分の好きなことに関しては集中力が高いよね。
玄関から廊下をまっすぐ進んで、リビングダイニングの扉を開けた。
キミが顔を手で覆って、その指の隙間からテレビ画面を見ている。その画面を見て、ボクは焦った。
「ちょっ、なに見てるの?!」
ボクの声が大きかったのか、キミが「え?」っと呟いてボクのほうを見た。
「あ、お帰り」
「ただいま、って、なに見ているの……」
こんなもの、キミが見たがるとは到底思えない。静止画でさえも気持ち悪いと言って眉をしかめるのに、動画だなんて。また、理解不能なことを、と思ったのが顔に出たのだと思う。
「こんなのを書いてくださいって」
ゴソッと紙の束をボクに差し出して、その真ん中部分をキミは指し示した。
「え……」
ボクは言葉に詰まった。これって、男性向けの、いわゆる官能小説ってやつですか?
「これ、依頼?」
「うん……」
憂鬱そうな顔を手で覆って、キミはまた画面を見ている。
「断らなかったの?」
紙の束をダイニングテーブルに、鞄を床に置いて、ボクはネクタイを緩める。
「断ったよ。そもそも畑違いなんだし、無理、書けない、って」
そういいながらも、キミは指の隙間から画面を見続ける。
ボクは大きなため息をついてから、キミの隣に座った。
「断ったのに、何しているの?」
ボクには状況がよくわからなかった。
「なんだか、これ持ってきた人、勘違いしていたらしいの。男の作家さんだと思ったんだって」
「は?」
そんな初歩的ミスをする出版担当者なんているのだろうか。
「で、とにかく絶対私なら書けると思うから、3日後に改めて伺うので、そのときにもう一度返事を聞きますって」
「伺うって、もしかして、その人来たの?」
「うん、来た。電話もFAXもなしで。怪しいと思ったんだけど、その雑誌知ってるから、出版社に確認もした」
それで、怪しくないと判断したんだ、キミは……。
「で、断る気満々のはずなのに、なぜにアダルトDVDなんて見ているの……?」
ま、見ていることを考えると、興味がないわけではないんだろ思うけど。
「ほら、人生一度は見てみたいって思わない?」
そんな理由……。
「知らないことは書けないしね」って渋い顔をして、キミはボクのほうを見た。
「一応、断るんだよね……?」ってボクはキミにもう一度確認してしまう。
それに「そうだよ」って、キミは何回同じこと言わせるの? と言った顔をボクにする。
「なのに、それ。借りてきたの?」
「うん。でもね」と言って、キミはリモコンの停止ボタンを押して、画面は音のないニュースに変わった。
「やっぱり、男の人じゃないから、肝心なところはわからない」
肝心なところって、どこのことだろう……?
キミの言っている意味を、正確に理解したくなくて、ボクはわからないふりをして苦笑した。
「数見たらわかるかな?」
変なことを言い出したキミに、ボクは「作品の数ってこと?」って呆れた顔で聞き返した。
「うん。アッ君、どれだけ持ってる?」
そんなのを持っていること前提で妻に聞かれるのもどうかと思うけど。やっぱりあんまりボクのこと旦那として見てくれてないってこと?
そう思うと、会社で疲れたのとはまた違う疲労感がボクを襲う。
「何枚かはあるけど……」
渋い顔して正直に答えたボクに、キミは「それ、貸して」と言ってきた。
「駄目」
ボクは即答した。キミにはその答えが理解できなかったのか「なんで?」と聞き返してくる。
「なんでって……」
ボクは困惑してキミを見た。唇を尖らせて、首をかしげてキミはボクを見ていた。そんなキミが可愛いって思う。
しばらく見つめ合って、ボクは立ち上がりキミに言った。
「晩御飯にしよう。また、今日もお昼ご飯食べてないんでしょ?」
冷蔵庫を開けると、キミのお弁当が視界に入る。
「今日は来客があったから」と言って、キミは音声の出ていないテレビのほうに顔を向ける。
話題を替えたことに、キミはなにか気がついたのかもしれない。
可愛いキミが誰もいない家で、そんなDVDをいくら音声がないと言えども見ていると思ったら……。いや、日中は、音声付いているかもしれないし。
ボクの可愛い奥さんが、ひとりでそんなものを見ながら、もしかして……、なんて想像し始めたら、ボクは会社で仕事なんかできない。ボクのほうが自分の妄想で耐えられない。ボクの勝手な妄想が膨らみ始めたとき、キミが呟いた一言で、ボクは現実に引き戻された。
「いっそ男になれればいいのに」
残念そうにそういったキミに、ボクは大きなため息をついて答えた。
「そんな問題じゃ、ないよね……」