君を咲かそう
花の様子をよく見てね。水は、やり過ぎてもあげなさ過ぎてもダメよ。
摘んだら、水揚げは面倒でも、ちゃんとして。
気をかけるだけ、長く綺麗に咲いてくれるから。
育てるなら、愛の言葉を。
***
「ありがとうございました!」
最後の客を見送って、朋花はふっと息を吐き出した。無意識に丸めそうになった背中を伸ばし、腕をぐるりと回したあと、誰もいない夜の道路に「お疲れさまでした」と小さく呟きを落とす。
そうして、数本残った花のバケツをひとつずつ店の中に入れ、閉店の準備を始めた。
照明を落とした店内。道を行く人々からよく見えるように、外側を全面ガラス張りにして、明るく清潔で花が美しく見える効果を狙ったふうに店を改装したのは、ほんの数年前のことだ。
毎日、開店前と閉店後にガラスを磨き、花殻一つ残さぬよう徹底した清掃を心掛けて手入れしてきたため、店は改装時とほとんど変わらず輝いていた。
――それも、今日でおしまい。
自分たち家族が愛したこの店は、今日で、眠りにつくことになる――
ガラス越しに見える外の風景も、今日で見納めかと思うと、例え様もない寂寥感が胸に溢れてくる。俯きそうになった頭をグイと上げて、朋花は両手で挟むように頬を叩いた。
ダメだダメダメ! 暗い顔はナシ! 店を閉めると決めたのは自分、落ち込むなど以ての外。
今まで家族を見守ってくれていた、愛する場所の終わりは笑顔で迎えるのだと、朋花は自分自身に言い聞かせる。――そう、父を見送った時のように。
【花崎】は、祖父母の代から続いてきた、小さな街の花屋だ。
最初は、各家庭のささやかな冠婚葬祭に使われるための花を。
時代の流れとともに、少し手を広げて、日々を彩る花々を。
ただ無造作に束ねるだけだったものを、アレンジメント技術を習得した母が見場よく花束にして、手に取りやすいプチブーケ等も売りに出した。今では珍しくないそんな工夫も、朋花が小さな頃は、お洒落でちょっと贅沢な気分が味わえるアイテムとして、受け入れられたのだ。
生花店からフラワーショップへ。
小さな頃から店を手伝い、家の益になるよう園芸科のある学校に進んだ。父母が祖父母を手伝い、店を継いだように、自分もいずれ【花崎】を継ぐのだと、当然のようにそう思っていた。
――でも。
朋花が中学生の時に祖父母を、そして大学卒業直後に母を、病で喪って。
辛かったが、なにより愛妻家だった父の方が意気消沈し、朋花は嘆いてばかりいられなかった。亡くなる前の母の口癖は「お父さんが心配だわ」「お願いね、朋花」だったのだ。自分が父を、花崎を支えなくてどうする、と踏ん張った。
ゆっくりとだが父に笑顔が戻り、そして母が健在だった頃から描いていた店の改装に踏み切り、気持ちを改めてやっていこうとした矢先――今度は父が倒れた。
病は一進一退、父の闘病生活は長く続いた。
友人や、花崎を理解してくれる近所の人々の助けがなければ、家業と看病の両立など朋花一人では無理だっただろう。
父の前で、涙を見せずに笑顔でいることも。
改装で、それまであった貯金を使い果たした直後だった事が災いし、あっという間に花崎は困窮することになった。
入院費、手術費用、店の維持費。
生活費も切り詰め、父母がこっそり蓄えてくれていた朋花の結婚費用も、どうせ使わないのだからと切り崩した。そうして使えるものは何でも使って費用を捻出していたが、いずれ無理が来ることは、本人が一番よくわかっていた。
だけど諦めきれず、足掻いて、足掻いて――店を開け続けるのは、父の願いでもあったので、他者の力を借りてまで、店を継続してきたのだ。
昨日が、父の四十九日だった。
今日まで店を開けていたのは、一種の区切りにするつもりだったからだ。
明日、【花崎】は、別の者の手に渡る。
もろもろの費用を都合付けてくれた来嶋は、近所の誼か、「急いで返さなくても構わないし、そのまま住んでいてもいい」と言ってくれていたが、昔からの知り合いだからと、贔屓されることを朋花は好まなかった。なにより、借りを抱えたまま店を続けることが、朋花には苦しかった。
花屋を仕事にしていて、矛盾しているとは思うのだが、このままだと店の花たちを金の為の道具として見てしまいそうで、嫌だったのだ。
花崎が花屋を続けていたのは、花が好きなことはもちろんだけど、何よりも、花を手にして笑顔になる人たちのためだったから。
生命を輝かせて咲く花を、綺麗に整えて、生かして、誰かの元へ届ける。その誰かが、花を見て、幸せになる、そんな光景がこちらも幸せにしてくれる。
なのに、幸せのための花屋ではなく、金の返済のために花屋を続けるというのは、何だか手段が違ってしまって、朋花の心が許さなかった。
ずっと続いてきた店のことを考えるなら、自分のこんな意地は間違っていると思うのだけれど――
ガラス扉の鍵を閉め、朋花は少し考えたあと、奥へと引っ込んだ。キッチンの冷蔵庫から桜色のワインボトルを取り出し、グラスを家族のぶんだけ持って、街灯と月明かりに照らされた店内に戻る。空になった花バケツをひっくり返し、その上にグラスを置いて、ワインを注ぐ。
店の中で飲み食いなんてと、本来なら叱られそうだが、やっぱり最後の夜は店ですごしたかった。
「ごめんね、みんな。花崎、守れなくて」
軽くグラスを合わせたあと、飲み干す。喉を通り胃に落ちた液体は、スッと朋花の身の内を浸した。もう一度、深く息を吐いた。
汚れることも構わず、ぺたりとコンクリートの床に膝をつく。
仰ぐように、店を見回した。
少し前から、片付けを始めていた店内に、花が売れてしまったせいだけではない、よそよそしさを感じて切なくなる。ひんやりした空気に水と緑、花の香りの漂うこの店が、朋花の全てだった。明日からは、朋花に残るのはこの身だけ。
不安は山のようにある。とりあえず、家を出るのは朋花の仕事が決まったあとでいいと言ってくれている。職業はアレだが、来嶋に任せれば、家も店舗も酷いことにはならないと思う。
あとは自分のことだった。この歳で、職探し。しかも、職業経験は花屋のみ。胸を張って自信があると言えるのは、底なしの体力だけ……大丈夫か私、大丈夫なのか。思わず遠い目になってしまっても、仕方がないだろう。
なんとかなるさ、と上を向いて発破をかける一方、なんとかならなかったら? と足を引っ張る臆病な自分がいる。
目の前の問題を片付けるためにがむしゃらにやってきて、いつの間にか三十歳。大学時代から付き合っていた恋人とも、とうに別れてしまった。改めて、ひとりぼっちを痛感してしまう。
グラスを手に、不安を隠すように目を閉じた。
「とーもか、こんなところで晩酌?」
からかうような声に振り返る。店の奥、自宅へ繋がる三和土に、輪郭に幼さを残した青年の姿があった。数件隣、穂高家の長男栄だった。
幼い頃から行き来している彼は、朋花の家の鍵を持っているひとりだ。だから唐突に姿を現しても不思議ではない。
「栄ごめん、家のほう来てたの?」
腰を上げようとした朋花を制して、栄の方から彼女に近付く。
「ちょうどいいや。晩メシ持ってきた、こっちで食おう」
ひょいとデパ地下惣菜の袋を持ち上げて、笑う。
学生の彼がめずらしくスーツなんて着ているから、改まった場所に出掛けていたのかもしれない。
「すきっ腹で酒飲むなよなあ、胃やられるぞ?」
ワインボトルとグラスを見てお小言めいたことを栄は言うと、イスを片手に引きずり、朋花をそこに座らせる。代わりのように栄が床に腰を下ろした。一帳羅、汚れるんだからと注意しても、平気平気と生返事だ。
袋の中からサラダ、おにぎり、肉団子などパックのフタを皿代わりにして取り分け、朋花に手渡す。口を挟む暇もないその手際に、朋花は礼を言うしかなかった。
そして、ひとりぼっちだなんて思った自分を叱咤する。まだ朋花には、栄がいるじゃないか。
共働きの両親を持った栄を、最初に家につれてきたのは母だった。
まだ栄が幼稚園に通う前で、預かってくれる場所もなく、だが仕事に行かなくてはならず困っていた穂高の小母さんに、おせっかいを焼いたのが最初。
うちなら常に誰かがいるし、栄は子どものくせにやたら聞き分けのいい子だったので、仕事の邪魔をすることもなく彼は【花崎】に馴染んだ。
朋花も、突然できた『血の繋がらない弟』を可愛がった。近所の人々の半数は、栄を本当に花崎の子どもだと思っていたくらいだ。
思春期に一時だけ、少年らしい照れなのか疎遠になったが、母が亡くなった事をきっかけに、もとの仲に戻った。
母の葬式の日、父に負けないくらい真っ赤な目をしていた『弟』。
父が倒れて以後は、朋花を気遣い、彼女と交代で店番をしたり、病院を訪れてくれていた。
栄にはすっかり世話になってしまった。今は自分よりも背丈の伸びた弟に、改めて視線を向けた。実質、ここ数年の朋花を支えていたのは、この十歳年下の青年だった。
「ともちゃん、ともちゃん」と雛のように後をついてくる幼い栄は可愛かった。
「ぼくもやる!」と小さな手で売れ残りの花に、縒れたリボンを不器用に結んでいた幼い少年が、立派な青年になったものだなぁ、と朋花はいささかオバサンめいた感慨を抱く。
「……朋花、やっぱり店閉めるつもりだったんだな」
ガランとした店内に、栄の静かな声が落とされる。朋花は気づかれていたことに一瞬目を見開き、苦笑した。
「うん、以前のようには、維持出来そうにないからね」
詳しい話はしてこなかった。だが、ずっと側にいた栄には、朋花の苦悩などお見通しだったのだろう。
栄にとっても、きっと【花崎】は大切な場所だった。それを考えると、申し訳なく情けない気持ちになるけれど。
何も言わず、栄は皆に捧げたグラスの一つを取った。天に向かって乾杯するように軽く押し出し、口をつける。そうしてしばらく二人で杯を空けていった。
「で、どうするの。これから」
「んー、とりあえずどこかでパートでもして、生活立て直した後、花屋の仕事探すよ」
結局のところ、自分は花に関わって生きていたいのだ。経験はたっぷりあるし、求人さえ見つければ何としてでも雇ってもらえる自信はある。
「いつになるかわからないけど、【花崎】を復活させるからさ」
そのときは、また、栄にもその場所を帰るところのひとつにでもしてほしい。
血の繋がりはないが、彼も朋花の家族だ。
自分はもう、家庭を持つことは諦めている。
数年前付き合っていた恋人と、いささか不愉快な別れ方をして、誰かを想う行為自体に疲れてしまったから。
いつか栄が可愛いお嫁さんと子どもを連れて、訪れてくれたら、姉として嬉しいと思う。
そこに一種の寂しさがないといえば、嘘になるけれど。
「――もっと、簡単な方法があるよ」
じわり、と何かが染み込んでくるような笑みで、栄が朋花を見つめた。
どことなく不穏な雰囲気を醸し出す弟に、朋花は眉を寄せて顎を引く。長い付き合いだ。にこにこしながら毒を吐く、この『弟』がそういう性格だと否応なく知っていた。
いつだったか朋花に絡んできた客を、可愛い笑顔を浮かべつつ抉るような言葉で追い詰めていたことを思い出し、僅かに身を震わせた。育て方をどこかで間違えたかと、何度も思ったものだ。
そう、件の恋人との別れ話の時も、結構な毒を吐いてくれた。あれはあれで、ちょっといい気味だったが。
父の病気が分かって、しばらくたった頃のこと。長く連絡がなかった恋人が、【花崎】にやって来た。
「君が、大変なときに、申し訳ないと思っている」
――やめてほしかった。
申し訳ない、本当にそう思うなら、会いになんて、来ないでほしかった。
「でも、ケジメをつけておかないと、朋花も俺に気兼ねするだろう? だから、」
ただ“別れよう”と言うだけのことに、彼は何故こんなに言葉を費やしているのだろう。
「俺も就職したばかりで、君を気遣えないし、君のこの状況で、結婚なんて無理だろうし――」
チラリチラリとガラス窓の向こう、こちらを気にして花の間から覗き込む女の子。成人はしているだろう、綺麗な茶色の長い髪を巻いて、ヒラヒラと風に揺れるチュニックワンピースがよく似合う、華やかな印象の女が、きっと彼の新しい恋人。
対してこちらは仕事中だということもあり、着古したジーンズに長袖Tシャツを腕まくり、伸ばしっぱなしの髪は無造作にくくっただけで。
対称的な自分と彼女の姿に、ふと、まるで陳列された花のようだと朋花は下らないことを考えた。
姿形よく整えられ、咲く時を、誰かの手に取られる時を今か今かと待ち構えている、彼女と。
いつの間にか開ききってしまい、色褪せて残るしかない私と。
なんだか、虚しかった。
――彼はこんなに不実なひとだった?
――彼はこんなに誠のない言葉を紡ぐひとだった?
私の好きだったひとはどこに行ってしまったんだろう――
母がいて、父も健康だったあの頃。ほんのりと、夢見ていたのは好きな人と結婚して、【花崎】を継ぐことだった。
朋花の失望には気づかず、男は上っ面だけの誠実さを唇に乗せる。
「一度、離れて将来を考えたほうがいいと思うんだ」
どんな、将来を?
少なくとももう、彼の描く未来に朋花の姿がないことはわかった。
朋花自身も、この、見覚えがあるだけの他人になってしまった男が、自分の傍らにいる明日は、想像できないことに気づいてしまった。
一緒にいて、幸せだったときは確かにあったのに……。
「いらっしゃいませー! そんなところでウロウロしてないでどうぞ中でご覧になって下さいよ。お店で使う花ですか? よろしければお届けしますよ、オ・ネ・エ・サ・ン!」
重苦しい空気を振り払うかのように、飛び込んできたヤケに明るい声に瞬く。
顔を上げると、学校帰りの栄が、制服姿のまま表から入って来て、こともあろうに彼女を店内に押し込んでいたのだ。
「え、ちょ、ちょっとアタシ客じゃな……」
「そうですねー、今日の売りはフリージアなんですけど、やっぱりお店に持っていくならカサブランカですかね? 香りがありますけど、オネーサンも負けないくらい匂うから大丈夫でしょー」
ニコニコニコと笑顔のまま、実は失礼なことを言っているのがよくわかる栄のセリフに、戸惑っていた彼女の顔が、怪訝なものから憤るものへと変わる。
「なんなのよ! だいたい店ってなによ!」
「アレ? 未成年の僕がとてもじゃないけど入れないお店で働くオネーサンじゃなかったんですか、そりゃ失礼しました、だってケバい、いえ派手、う〜ん、カビ? だったから、勘違いしましたスミマセン。客じゃないのにうちを窺うって不審者ですかー、それなりに見られる女性の姿してらっしゃるのに、残念ですねー」
「……栄……」
頭痛を感じて朋花は額に手を当てた。またこの子は笑顔で喧嘩を売って、と呆れた。
しかし、唖然としている男の顔と、口をパクパクして栄のマシンガントークに対してだろうか、言葉も出てこない様子の女を見ていると、何故か笑いが込み上げてきて――朋花は吹き出してしまった。
パッと種類の違う笑顔になった栄が、朋花に勢いよく抱きついてくる。
「ただいまっ、朋花!」
「お、おかえり栄……店から入っちゃダメっていつも言ってるでしょ?」
最近ぐんと身長が伸びた少年にのし掛かられバランスを崩しかけたところを、抱きついた栄に腰を支えられて、本末転倒だなと苦笑した。
「だってさー、見るからに変なヤツがいるし、朋花を守んなきゃって。おじさんにも頼まれてるしねっ」
朋花の注意に拗ねた素振りを見せた栄は、甘えるように彼女に体を擦り付けた。
本人は子どもの頃と同じ態度をとっているのだろうが、成長著しい彼にぎゅうぎゅう締めつけられ、朋花は呻いた。
「んっ……、ちょっ、もう、栄っ」
ペチリと肩を叩くと、ちぇっとつまらなさそうに体を離す。解放されて深呼吸する朋花をよそに、くるりと振り返って首を傾ける。綺麗な笑顔のまま。
「で、客じゃないオネーサンと、どっかで見たことあるようなないような記憶から抹消予定のオニーサンは、【花崎】に一体何のご用でいらっしゃいますか?」
そういえば居たんだった、と朋花も彼らに目を向けた。
恋人だった男の、困惑と気まずさが入り交じった表情と、不機嫌を隠さない女を見て、思ったことは、『どうでもいい』だった。
――そう、どうでもいい。【花崎】に、朋花には、必要のない人物。それに気づくのに、ずいぶんな時間がたってしまった。
「俺は、その……朋花と、」
「わざわざ訪ねてきてくださってありがとうございました、先輩。この通り、私には頼りになる子もいますしご心配なさらずとも結構です。どうぞ、オシアワセに」
栄にならって朋花も彼に笑顔で向き直った。最後に付け足した言葉はイヤミだったかしらと思いつつ。
男は、もごもごと何事か口の中で呟いたあと、君も元気で、とだけ言って、忌々しそうな顔の女に引っ張られて店を出て行く――ふと朋花から離れた栄が、ひょいと小型のアジサイを一輪取り上げ簡単に包んでから、男に近づき耳打ちした。戸惑いから固く表情を変えた彼に、花を手渡し笑みを見せ、追いやるように手を振って戻ってくる。
無断拝借しちゃった、とアジサイ一本分の小銭を朋花に渡して、またキュッと抱きつく栄に、眉をしかめた。
「……なに言ったの」
「んー? 『別れ話にオンナ連れてくるなんて男としての程度が知れるよな、二度と顔見せんじゃねーよ』なんて言ってないよー?」
キラキラした笑顔の分、質が悪い。しょうがない子ね、と厳しい顔をしてたしなめてから、朋花はまた笑った。
恋人と付き合い始めた頃、一緒のときに、偶然、栄に会ったことがある。まだ小学生だったのに、栄は彼を覚えていたのか。移り気なんて花言葉のあるアジサイを選び、わざわざ渡したのは、皮肉のつもり?
弟として、姉を気遣ってくれたのだろう栄に、ありがとうと囁いて頭を撫でた。子ども扱いが不満だったのか、そのあと少しふくれていたけれど。
今度は何を企んでいるのだ、と朋花は栄を疑わし気に見つめた。
そんな朋花の視線をやんわり受け流して、栄は脇に置いていた鞄を引き寄せる。クリアファイルから一枚の紙を取り出して、彼女の手に渡した。
「これにサインすれば、花崎を僕が朋花にあげる」
ご近所の老若女々を虜にしている甘い笑顔で、栄は続けて朋花にボールペンを握らせた。今すぐ書けとでも言うような、押しの強さで。
「……は?」
「他は埋めてあるからね、朋花の名前を書くだけでいいんだよ」
は? と、もう一度朋花は間の抜けた声を出す。書きやすいようにか下敷きに乗せられた薄い紙切れは、朋花の目がおかしくなければ――婚姻届と記されていた。
栄の名前が記入済みの。配偶者の欄のみが空白の。保証人には栄の親と、何故か花崎の債権者である来嶋の名前が記入してある。
「………………は?」
「簡単でしょ? ここに、花・崎・朋・花って書けばいいだけ」
一連の行動が理解出来ず固まっていた朋花は、ボールペンを握った彼女の手を上から包んで、署名させようとした栄に、待て! と叫んだ。
「いやいやいやいや、ない! これはないでしょ、なに考えてんの栄っ」
書面にあてられたボールペンを離そうとするも、背後から被さるように彼女の身体を包み込んだ栄が、それを阻む。
首を回したその先に、冗談ではない真剣なまなざしを見つけて、朋花は息を飲んだ。
――僕が考えてるのは、と。
「どうしたら、朋花が素直に僕のものになるかなってことだけだよ」
聞いたこともないような、男の声で、栄が告げた。
――何言ってるの。
――悪ふざけはいいから、こんなの片付けて。
――もしかして、路頭に迷いそうな姉を心配して、こんな馬鹿なこと考えたの?
――弟に先のこと心配されるほど、落ちぶれちゃいないわ、
そう、言おうとして開けた唇が塞がれた。
幼いときに、受けていた親愛のキスではなく、もっと、別の――色めいた、くちづけ。
呆然と目を見開く朋花に、唇を離した栄が笑う。
「悪いけど。僕は朋花のこと、姉だなんて一度も思ったことないよ。ま、朋花が僕を弟扱いすることを、利用させてもらった部分はあるけど」
抱きついたり。一緒に寝たり。触れるキスをしたり。朋花に付きそうな虫を駆除したり―― 一匹、退治し損ねて悔しい思いをしたときもあったな。
抱きついたまま、クスクス笑う栄に、朋花はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
姉だと思ったことはない、家族なんかじゃないと言われたことにショックを受けてもいいだろう。――でも。
身体に回された腕が、強く朋花を捕まえる。
逃げは許さないというように。
「……っ気の、」
「迷いなんかじゃないよ、十六年の片想いナメないでよね」
十六年てそれはちょっと早熟とか物好きですまされる問題ではないのでは、
「ど、」
「同情とかされるほど朋花は可哀想じゃないでしょ、ヤキモキするくらいたくましいし、頑固だし、ちょっとはこっちを頼ってくれてもいいのにさ」
否定の言葉も先回りして遮られ、朋花は黙り込む。
弟だ家族だと言っておきながら、確かに【花崎】を閉めると相談もせずに決めたのは、自分だけれど。それも気遣ってくれる皆が――栄がいてくれたからこそ、決断できたことで。
「……頼ってるよ」
「足りない。弟なんかじゃなくて、男として、頼って欲しいんだ」
だって。朋花はもう三十歳で。栄はまだ二十歳で。結婚なんて、そんな。それに。
朋花はハッと身を固くした。まさかのプロポーズに動揺してしまったが、年齢差や今までの関係、そういうことは置いておいて、栄と結婚するわけにはいかなかった。
「ダメ! 無理! 栄に迷惑かけられないよっ」
負債があるのだ、自分には。まかり間違って結婚などして、栄にまで返済責務を負わせられない。栄にとっては、それを狙っての申し出かもしれないが。
先のある青年に、自分のようなお荷物を抱えさせたくはない。
向き合った栄の胸を拒むように手のひらで押し返し、朋花は首を振った。
栄の目が、何かを探るように細められ――唇が弧を描く。
「……ねえ朋花。ダメって、無理って言ってるけど、それってさ。『僕』が『ダメで無理』って意味じゃないよね。ちゃんと、対象として見てくれてるんだ?」
甘えた声じゃない、何かの熱を感じる声音で問われ、肩を震わせる。
正直、しまったと思った。
弟としてしか見ることができない、とだから結婚なんて無理、と言えばよかったのに。今さら、そう言い返しても聞かないことは見えている。
「朋花、ねぇ、任せてよ全部。ぜったい、幸せにするからさ……?」
急に男になったかと思えば、弟に戻って甘えてくる。普段は聞き分けのよい良い子の栄の、たまの我が儘に、花崎家の人々は皆弱かった。朋花も、例に漏れず。
だがしかし、事は栄の一生に関わる問題だ。ほだされて負けるわけにはいかなかった。
「栄の、気持ちは、嬉しいよ。本当に、そんなこと思ってもなかったし、ビックリした。嘘じゃないってことも、わかる。でも、」
「でも、何がダメなの」
また先回り。朋花が栄を理解しているように、栄も朋花を理解している。朋花は淡く微笑んで、もう一度首を振った。
「歳が違いすぎるよ……、今はよくても、いずれ、無理は来るから」
十年、だ。
栄が言ったように、彼の気持ちは年齢などで測れないのだろう。
だが、三十と二十、三十五と二十五、四十と三十 ――栄よりずっと早く老いる自分に、彼の隣が相応しいと思わなかった。今でさえ、十の差は厳しい。
弟というフィルターを外しても、栄は良い青年だ。
そんな彼に想われて、嬉しいのも、本当。
私も捨てたもんじゃないよね、と思う。幼い頃の刷り込みがあったとしても、長く女として見られていたことに、自信もつく。
でも。でも、だ。
もう、朋花の花の盛りは過ぎようとしている。
それに引きかえ、栄は開花したばかり。これからたくさんの花が、栄の側で咲き開くだろう。
いま、朋花を見てくれていても、少し先には、他の花に心奪われる栄がいるに決まっている。悲観でも、気持ちに対する疑いでも何でもなくて、そう確信する自分がいた。
あの時は、栄がいたから救われた。
だけど、次は、もう栄に頼れない。それは栄自身を失う時だから――
「朋花がこだわってるのはそんなこと?」
そんなことって。軽くかわされて、癪に障った朋花が言い返すより早く、栄は続けた。
「自分でもどうかと思うけど、朋花が五十でも六十でも、朋花が朋花なら、反応するし抱けるよ」
真顔で告げられた内容が内容だったので、朋花は聞こえなかったふりをした。内心は、(イヤアアア! 栄が! 可愛かった栄がああああ!)絶叫していたが。
「証拠を見せろって言われても今は出来ないけど、ずっと一緒にいて、証明することは出来るし」
「……な、なんで、そんな自信満々……」
「当然のことだから」
若い子怖い。栄を理解していると言った朋花だが、全くわからなくなってきた。やっぱり、育て方を間違えた……。
穂高家のご両親に申し訳が立たない、と詫びようとして、婚姻届にしっかり書かれた署名を思い出す。ええー。いくら放任だからって、そんな。了承してるだなんて、まさか。
朋花が婚姻届の記入欄をじっと見ていることに気づいたのか、栄が小首を傾げた。
「……両親のことなら、説得済みだから。てゆうか、僕、昔っから朋花のお婿さんになるって言ってたし。『厄介な子、押し付けてごめんなさいねぇ』だって。失礼だと思わない?」
栄母の苦笑いが目に浮かぶようだった。
いつも顔を会わせるたびに見ていたあの表情は、“自分のところの子どもがよそん家に取られちゃった苦笑い”ではなく、“物好きな息子に気に入られた朋花を気の毒に思う苦笑い”だったのか……。十数年目にして知った事実に、朋花は脱力のあまり床に膝を付きそうになる。
「想像してみて? 朋花の数年先も、十年先も、隣にいる、僕の姿」
ぐっと詰まる。おそろしいことに、幼い頃からずっと側に居た栄だから、そう言われて違和感がない。当たり前のように、一緒にいて――
朋花はぶるぶると頭を振る。
「やっぱダメ! 若いミソラで人生を棒に振っちゃいかん!」
「意固地だなぁ……。朋花がそんなだと、僕も最終手段を取るよ?」
突然記入済みの婚姻届をだしてサインを迫る、それ以上の最終手段があるのだろうかと朋花は警戒して身構えた。
先程と同じように、鞄の中から書類を取り出す栄。ヒラリと目の前に翳す。
「……え」
借用書、だった。
「来嶋のニィちゃんから、買い取らせてもらったの。今現在、朋花の債権者は、僕」
馬鹿みたいに口を開けて、朋花は栄と借用書を交互に見やる。
買い取ったって――どうやって。債権者が、栄? え、どういうこと。
目をキョロキョロさせて、混乱の直中にある朋花に、栄は勿体ぶることもなく種明かしする。
「ちょっと、貯めていたお金と個人的に稼いだお金、友人に出資してもらった分とを合わせてね、朋花の借金支払ってきた。ついでにニィちゃんにも証人になってもらったから」
謎がひとつ解けた。
いや、そうではない――次から次へ寄越される衝撃に倒れ込みそうになるのを堪えて、朋花は体勢を立て直す。まだ学生の栄が、そんな大金をどうやって用意したのかとか気になることは、多々あるけれど、それよりも。
「……栄は、【花崎】を――私を、どうしたいの」
腕を組んで、仁王立ち。弟の、いや弟じゃないと宣言されたけど、……栄のペースに巻き込まれてはなるものか。気合いを入れて、睨み付けた。
栄は栄で余裕の笑みを崩さず、朋花に再度ボールペンを手渡す。
「今すぐ全額返済するか、これにサインをするか。二択だからね」
予想していたとはいえ、結局そこに行き着くのかと、肩が落ちる。
どうして、ここまでして。
ペンを握りしめたまま、途方にくれて朋花は栄を見る。
サインするしか仕方のない状況に朋花を追い込んだ栄は、いつものように笑顔でいるかと思いきや――じっと、彼女に真摯なまなざしを向けていて。
「好きなんだ、朋花」
彼の方が、ずっと切羽詰まった瞳をしていた。
「ズルいことをしてるってわかってる。でも、こうでもしなきゃ、朋花は僕を、相手として見てくれないでしょ? 十も、年下だし……弟だからって、もう、言われたくなかった」
ぎゅう、と心臓が痛んだ気がした。
ずっと、栄が朋花を想っていた年月。朋花が栄を弟扱いしてきた年月。同じように、痛みを与えてきたことに、今さら気づく。
栄と自分が結婚だなんて、考えられない。
栄がずっと、自分を女として見ていてくれるなんて、本当にはわからない。
でも。
栄と、朋花が、【花崎】で共に働いている姿は、いつだって想像できるのだ。
それが答えだと、知っている。
意図せず、拗ねたような呟きが漏れた。
「……だって、もう、私三十なんだもん」
これが、二十九歳だったなら、素直に栄の想いを受け取ることが出来たかもしれない。二と三の間には、それだけ気持ちの上で隔たりがある。
「肌も身体も若くないし、なのに栄はムカつくくらいピチピチだし、」
言いがかりのような朋花の文句に、栄が困った顔になった。それでも構わないと、栄が思っているのは聞いたし、たぶん、気にもしないのだろう。でも、
「私が、イヤなの。私が、ダメなの。栄より先に枯れちゃうんだから、そんな自分が栄と一緒にいるなんて、無理、なの」
くだらない、プライドだ。歳を取った自分の隣に、まだ若い栄がいて。売れ残りが、捨てられたくなくてしがみついているような、そんなみっともない真似をしたくない、なんて。
花はまだ開く前のものがいい。できれば蕾。咲き始め。目を奪われるのは、咲き開いたものだけれど、長く添わせるのはそちらの方がいい。
「……朋花がそこにこだわるのは、あの野郎のせいだよね。六年も付き合っておいて、ケバい女に乗り替えたヤツ。僕が、アイツみたいにいつか心変わりするって思ってる?」
苦々しい声で、ため息を吐きながらの栄の指摘に、朋花は黙り込む。
だって、やっぱり、綺麗で新しいほうがいいでしょう――? 自分が情けなくて、何も言えなかった。
やっぱり殴るぐらいしておけばよかった、と吐き捨てながら、栄は朋花を引き寄せる。抱き締められて、跳ねる鼓動。
「だから、十六年をナメるなっての。今さら他に目移りするわけないだろ。三十三十って朋花は自分の数ばかり気にしてるけど、僕だって、心配なんだから。朋花に、見るからに頼りになって、安心して甘えられる大人の男が、現れたらどうしようって――」
初めは強引だったくせに、だんだん弱気になる声に、昔の面影が過る。しがみつくような腕の強さに、ときめく自分がいて、また戸惑う。
栄なのに。弟みたいだった栄なのに。そう、“みたい”だ。弟じゃない――
「枯らせないよ。僕がずっと朋花を咲かせ続ける」
これでも、僕も【花崎】の一員だったんだからね、と。
「朋花が萎れそうになったら、忘れずに水をあげるし、欠かさず手入れして、見つめて、いくらでも気持ちを伝えるよ。僕の気持ちは全部、朋花が育てて、朋花に教えられたものなんだから」
――花の様子をよく見てね。水は、やり過ぎてもあげなさ過ぎてもダメよ。
――摘んだら、水揚げは面倒でも、ちゃんとして。気をかけるだけ、長く綺麗に咲いてくれるから。
――育てるなら、愛の言葉を。
それは、【花崎】の教え。
「僕の花は朋花だけ」
――お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが亡くなって。お母さんも、お父さんも、彼も、誰もがいなくなっても、どんな形でも、栄は私の側にいてくれること、信じても、いいのだろうか――。
「僕に、朋花と、【花崎】を守らせて。じいちゃんやばあちゃん、おばさんや、おじさんたちみたいに、二人で【花崎】を続けよう」
栄の小さな手は、朋花の手を包み込んで余るほど、大きくなった。
水仕事で荒れた手に愛しそうに口付ける、男の子。
あれはいつだったか。ネイルカラーも鮮やかな、傷なんかひとつもない綺麗な手をした女性に、大きな花束を渡したあと。じっと、自分の手を見つめてた私に、栄がハンドクリームを塗ってくれた。
淡く薔薇の香りがするそれは、私には似合わないと思ったけれど、栄は誰よりも相応しいと、まだ子どものくせに気障なセリフを口にした。
――こんなに綺麗に花を咲かせることができる、花を愛してる、朋花の手、好きだよ。
花屋は扱っているものがものだから、華やかでお洒落だと思われがち。これでいて、けっこう体力勝負で、身なりなんかには構っていられない。それを、嫌だと思ったことなんて、ないけれど。
ときどき、ふっと、しんどくなることもあって。そんなとき、どうしてか栄が来て、嬉しくなる言葉をかけてくれる。
――朋花が萎れそうになったら、忘れずに水をあげるし、欠かさず手入れして、見つめて、いくらでも気持ちを伝えるよ――
気づかなかっただけで、もうすでに実行されているなんて、そんなの。
急に抱き締められていることが恥ずかしくなって、朋花は身動いだ。逃げようとしたわけではなかったが、栄はそう思ったのか、焦ったように、回した腕に力を込める。
頬を擦り寄せて、ねだるように名前を呼んで囁いて。甘えるしぐさは無意識だから、やっぱり質が悪い、と真っ赤になった顔と煩い心臓を持て余しながら、朋花はますます暴れた。
「朋花、お願いだから――」
「わ、わかったからっ、離……!」
ぴたりと栄の動きが止まる。肩を掴まれ、かぶりつくように顔を覗き込まれて、朋花は狼狽えた。自分がいま、どんな表情をしているのか――栄の、驚きから嬉しそうに溶けたまなざしで、自覚する。
「朋花」
触れる唇。そっと離れて、また重ねられて。
好き、と伝えるキスを、受け入れて、返した。
心をこめて。
愛をささやいて。
触れる指先で、慈しんで。
想いは、花開く。
いつまでも、君の手で、咲き続ける――
end.
脱稿;2011.04.15 改稿;2013.1.1(c)Mitsukisiki/moonrest