もしも月白ふゆがベタベタな悪役令嬢を書いたら
はじめに
この作品は、「もしも月白ふゆが、何もひねらずにベタベタな悪役令嬢ものを書いたら」というネタ企画です。
いじめ、断罪、婚約破棄、追放、田舎暮らし、隣国の王子、ざまぁまでを、できるだけ王道かつ素直に並べています。
本文中の「※【作者】」以下の文章は、元の文章を作者が実際に書き直した場合、おそらくこうなるだろうなぁ、という想定による改変です。
元の文章は消さず、その直下に改変した文章を併記しています。
なお、元の王道展開には、元の王道展開ならではの速度と気持ちよさがあります。
どちらが正しいという比較ではなく、作者が手を出すと何が増えるのかをご覧ください。
実際の執筆時に考えていた内容や没案ではなく、作者自身の作風をネタにしたセルフパロディとしてお楽しみください。
・断罪
王立学園の卒業記念パーティーは、華やかな音楽と笑い声に包まれていた。
きらびやかなシャンデリアの下には、国中の有力貴族の子女たちが集まっている。
その中央に立っていたのは、王太子アレクシスと、その婚約者である公爵令嬢エレナだった。
エレナは銀色の髪を美しく結い上げ、深い青色のドレスを身にまとっていた。
誰もが見惚れるほど美しい令嬢だったが、その表情はどこか冷たく、近寄りがたいものだった。
そんな彼女へ、アレクシスは厳しい声を向けた。
「エレナ・フォン・クラウゼン。今夜、この場をもって、君との婚約を破棄する」
会場が静まり返った。
───
※【作者】
「確認いたします」
エレナは、婚約破棄を告げられた令嬢としては、いささか場違いなほど落ち着いた声で尋ねた。
「これは殿下個人のお気持ちによる婚約解消でしょうか。それとも王家としての正式な決定でしょうか」
「どちらでも同じだろう」
「いいえ。前者でしたら王太子殿下による婚約契約の不履行、後者でしたら王家による外交方針の変更です。公爵家へ持ち帰る文書が変わります」
「今、そのような話をしているのではない!」
「では、どのような話をなさっているのでしょう」
今度こそ、会場が静まり返った。
───
音楽が止まり、誰もが二人を見つめる。
アレクシスの隣には、一人の少女が立っていた。
淡い桃色の髪をした、男爵令嬢リリアである。
リリアは聖なる力に目覚めた聖女として、王国中から注目を集めていた。
「殿下……」
リリアは怯えるようにアレクシスの腕へすがった。
その目には大粒の涙が浮かんでいる。
「もう恐れる必要はない。私が君を守る」
───
※【作者】
「守るとは、具体的に何からでしょうか」
エレナが尋ねると、アレクシスは眉をひそめた。
「君からに決まっている」
「現在、わたくしはリリア様へ接触しておりません」
「そういう意味ではない」
「今後の接触禁止をお求めでしたら、対象となる場所、期間、連絡手段を明示してくださいませ。学園内での接触を禁じるのか、王宮や神殿を含むのかによっても対応が変わります」
「そういう冷たい言い方が、彼女を苦しめているのだ」
「条件を明確にすることと、人を苦しめることは別ですわ」
───
アレクシスはリリアの肩を抱き、エレナを睨みつけた。
「君がリリアにしてきたことは、すべて明らかになっている。教科書を隠し、階段から突き落とし、ドレスにワインをかけた。さらには、聖女である彼女を学園から追い出そうとしたそうだな」
「わたくしは、そのようなことをしておりません」
エレナは静かに答えた。
しかし、アレクシスは聞く耳を持たなかった。
「言い逃れは見苦しいぞ」
───
※【作者】
「では、一件ずつ確認いたしましょう」
エレナは会場の壁際に控えていた学園の記録係へ視線を向けた。
「教科書がなくなった日時、保管場所、最後に確認した人物。階段から落ちた日時、場所、目撃者、診察記録。ドレスへワインがかかった際の会場、給仕担当者、出席者名簿をお願いいたします」
「今ここで調べる必要があるのか」
「今ここで断罪なさるのでしたら、今ここで必要です」
「君には反省というものがないのか」
「反省は、何をしたのか確定してから行うものですわ」
───
「そうですわ。わたくしも見ました」
取り巻きの侯爵令嬢が声を上げる。
「エレナ様が、リリア様を睨みつけておられました」
「僕も聞きました。リリア嬢に身分をわきまえろとおっしゃっていたそうです」
次々と証言が上がった。
会場の人々は、エレナへ冷たい視線を向ける。
───
※【作者】
「見たことと、聞いたことを分けてくださいませ」
エレナは最初に声を上げた侯爵令嬢へ向き直った。
「あなたが見たのは、わたくしがリリア様を見ていた場面ですね」
「睨みつけておられました」
「それは、あなたの解釈です」
「ですが、とても冷たい目で」
「わたくしは、以前からこの目ですわ」
続いて、男子生徒を見る。
「あなたは誰から聞きましたか」
「それは……友人から」
「その友人は、現場を見ていたのですか」
「別の者から聞いたと」
「では、それは証言ではなく噂です」
誰かが言った。
誰かから聞いた。
その誰かが誰なのかは、誰も知らなかった。
───
リリアは涙を流しながら首を横に振った。
「わたし、エレナ様を責めたいわけではありません。ただ、殿下のおそばにいることだけは、許していただきたかったのです」
「なんと健気なのだ」
アレクシスは感動したようにリリアを抱き寄せた。
「それに比べて、君は最後まで自分の罪を認めないのだな」
───
※【作者】
「責めたいわけではない方が、卒業記念パーティーの中央で罪を告発なさっているのですね」
エレナは皮肉ではなく、確認するように言った。
リリアの涙が一瞬だけ止まった。
「それから、殿下のおそばにいる許可を出す権限は、わたくしにはございません」
「あなたが婚約者だから……」
「殿下と個人的に親しくする許可を、殿下の婚約者へ求めていたのですか」
「わたしは、ただ……」
「聖女としての公的な面会を、わたくしが禁じた記録はございません。婚約者のいる男性へ私的に腕を絡める行為について注意したことはございます」
「それが、わたしには怖くて」
「注意の内容が正しかったかどうかと、あなたが怖かったかどうかは、分けて考えましょう」
───
そのとき、会場の奥から国王が姿を現した。
アレクシスから事情を聞いた国王は、険しい顔でエレナを見た。
「公爵令嬢でありながら聖女を害するとは、許しがたい」
「陛下。わたくしは何もしておりません」
「黙れ」
国王の声が響く。
「クラウゼン公爵家には、娘の監督責任を問う。爵位と領地の一部を没収する」
───
※【作者】
「どの領地を、どの法的根拠に基づいて没収なさいますか」
エレナの父であるクラウゼン公爵が、娘より先に口を開いた。
国王が目を見開く。
「娘の罪に対する処分だ」
「娘の罪状は、まだ立証されておりません」
「余の判断を疑うのか」
「判断の実行方法を確認しております」
公爵は深く頭を下げた。
「領地には領民がおります。管理主体を変更するのであれば、徴税、治安、備蓄、裁判権、灌漑設備の維持を引き継ぐ必要がございます」
「そのようなことは、後から決めればよい」
「後から決めるまでの間も、領民は生活しております」
王命を拒んではいない。
ただ、王命によって実際に何が起きるのかを、順番に並べているだけだった。
───
エレナの父である公爵は、青ざめながら頭を下げた。
「陛下のご裁定に従います」
父は娘をかばわなかった。
母も目を伏せたまま、何も言わなかった。
エレナは、すべてを理解した。
自分にはもう、帰る場所も味方もいない。
───
※【作者】
父は娘をかばわなかった。
正確には、かばえなかった。
クラウゼン公爵領では、前年の水害によって北部の堤防が損傷していた。
春の雪解けまでに修復しなければ、三つの村と麦畑が水に沈む。
王家との対立が長引けば、すでに内定していた補助金が止まる可能性があった。
娘一人を守ること。
領民三万人の暮らしを守ること。
父がどちらを選んだのか、エレナには理解できた。
理解できることと、傷つかないことは別だった。
母は何も言わなかった。
正確には、言葉を発するたびに隣に立つ近衛騎士が一歩前へ出たため、三度目には口を閉じた。
それもまた、エレナには見えていた。
見えてしまうことと、許せることも別だった。
───
・追放
「エレナ。君には王都から出ていってもらう」
アレクシスが言った。
「二度と私とリリアの前に姿を現すな」
「承知いたしました」
エレナはゆっくりと頭を下げた。
涙は見せなかった。
背筋を伸ばしたまま会場を去る彼女の後ろ姿を、誰も引き止めなかった。
───
※【作者】
「行き先はどちらでしょうか」
エレナは退場する前に尋ねた。
「どこでもいい。王都から出ていけ」
「王都からの退去命令でしょうか。国外追放でしょうか」
「同じようなものだろう」
「異なります。国外追放でしたら、隣国との入国協議が必要です。王都からの退去でしたら、王都外にある公爵家の所領へ移動できます」
「公爵家の庇護を受けるつもりか」
「先ほど没収なさるのは領地の一部とおっしゃいました。残る領地への居住は禁止されておりません」
「細かいことばかりを……」
「人を追放するときに、行き先を細かいこととして扱わないでくださいませ」
結局、その場では国外追放を決定するための文書も、受け入れ先も、国境通過許可も用意されていなかった。
───
その三日後、エレナは王都を出た。
持たされたのは、わずかな衣服と少しの金貨だけだった。
彼女が向かったのは、王国の端にある小さな村だった。
山と森に囲まれたその土地には、古びた小屋が一軒だけ残されていた。
かつて公爵家が所有していた別荘だという。
───
※【作者】
王都からの退去期限は、三日後と定められた。
持ち出しを認められたのは、本人所有と確認できた衣服、書籍、装身具、金貨三十枚である。
王家から贈られた装身具については所有権が争われたため、持ち出さず、公爵家の金庫へ封印した。
エレナが向かったのは、王国北西部にあるクラウゼン公爵領の小さな村だった。
かつて公爵家が所有していた別荘だという説明だったが、登記記録には、現在も公爵家名義で残っていた。
管理を任されていた村長は、王都から届いた退去命令書を三度読み返した。
「罪人を、公爵家の建物へ住ませてもよいのでしょうか」
「命令書には、王都から退去せよとしか書かれておりません」
「では、問題はありませんな」
村長はそう判断し、後日、念のため書面にも残した。
───
・田舎暮らし
屋根には穴が空き、庭は雑草だらけだった。
王都での暮らししか知らないエレナにとって、田舎での生活は苦労の連続だった。
井戸から水をくみ、薪を割り、自分で食事を作らなければならない。
最初に焼いたパンは黒く焦げた。
畑へ植えた野菜も、半分は枯れてしまった。
それでもエレナは諦めなかった。
───
※【作者】
最初に焼いたパンは黒く焦げた。
畑へ植えた野菜も、半分は枯れた。
当然だった。
公爵令嬢教育の中に、石窯の温度管理も、この地方の土に適した播種時期も含まれていない。
努力が足りないのではない。
知識と経験がなかった。
エレナは、失敗した作業を一つずつ帳面へ記録した。
生地の分量。
発酵時間。
薪の量。
焼き上がり。
畑の日照時間。
土の湿り気。
種をまいた日。
芽が出た割合。
三度目のパンは、焦げていない部分なら食べられた。
五度目には、村人へ出しても顔をしかめられなかった。
二度目の畑では七割が育った。
失敗しても笑ってやり直せるというのは、何も考えなくてよいという意味ではない。
失敗の理由を責めるのではなく、次に使える形で残せるという意味だった。
───
村人たちは、そんな彼女を少しずつ助けてくれた。
年老いた農夫が畑の耕し方を教え、宿屋の女将がパンの焼き方を教えた。
森には薬草が多く生えていた。
エレナは学園で学んだ知識を生かし、傷薬や熱冷ましを作るようになった。
薬はよく効き、村人たちは彼女を頼るようになった。
───
※【作者】
薬草の知識があることと、薬を自由に作って配れることは別だった。
分量を誤れば毒になる。
既存の薬師を通さずに薬を配れば、飲み合わせや持病を確認できない。
無料で薬を渡し続ければ、村で長年暮らしてきた薬師の仕事も奪う。
エレナは、まず村の薬師を訪ねた。
学園で学んだ内容と、自分で作った調合記録をすべて見せた。
薬師は三日かけて内容を確認した。
「傷薬は使える」
「ありがとうございます」
「熱冷ましは濃すぎる。大人には効いても、子どもと妊婦には使えない」
「では、分量を変えます」
「変えたものを、もう一度持ってこい」
それ以降、エレナの作った薬は、薬師が確認してから村人へ渡すことになった。
薬草の採取場所も、採り尽くさないように区画を分けた。
よく効く薬を作るだけでは、村の医療は続かなかった。
───
「エレナ様のお薬のおかげで、息子が助かりました」
「本当にありがとうございます」
感謝されるたび、エレナの凍っていた心は少しずつ溶けていった。
王都にいた頃、彼女はいつも完璧であることを求められていた。
失敗することも、弱音を吐くことも許されなかった。
けれどこの村では、失敗しても笑ってやり直せた。
泥だらけの手で畑を耕し、自分で焼いたパンを食べる暮らしを、エレナはいつしか心から愛するようになっていた。
───
※【作者】
村人たちはエレナへ感謝した。
ただし、全員がすぐに彼女を受け入れたわけではなかった。
王都を追放された公爵令嬢。
その肩書を警戒する者もいた。
薬を受け取らない家もあった。
見張られているようで落ち着かないと、村長へ訴えた者もいた。
エレナは、感謝しない者を恩知らずとは呼ばなかった。
自分を信用するかどうかは、村人が決めることだった。
信頼は、薬を一度渡したから得られるものではない。
井戸の掃除に参加し、共有林の規則を守り、借りた道具を返し、失敗したときには謝る。
その積み重ねの後で、ようやくエレナを名前で呼ぶ者が増えていった。
───
・隣国の王子
そんなある日、一人の旅人が村を訪れた。
金色の髪と青い瞳を持つ、美しい青年だった。
青年は森で魔物に襲われ、腕に傷を負っていた。
エレナは彼を小屋へ運び、薬を塗った。
「助かった。ありがとう」
「困っている方を放っておけなかっただけです」
青年はカイルと名乗った。
───
※【作者】
青年はカイルと名乗った。
姓は言わなかった。
護衛も従者も連れず、身分証も持っていない。
仕立てのよい衣服を着ているが、旅人だと言う。
エレナは村長を呼び、青年の負傷と滞在を記録した。
「信用していないのか」
カイルが尋ねた。
「信用の有無ではありません」
エレナは薬を塗った布を巻きながら答えた。
「身元不明の男性を一人で泊めた事実が、後から別の意味を持たないようにしております」
「徹底しているな」
「一度、事実の意味を他人に変えられましたので」
カイルは、それ以上何も言わなかった。
───
数日間村に滞在したカイルは、エレナと共に畑を耕し、薪を割った。
身分を尋ねても、ただの旅人だと笑うだけだった。
「君は、不思議な人だ」
「何がですか」
「こんな辺境にいるのに、誰よりも気高い」
エレナは微笑んだ。
「気高さでは、お腹は満たせませんわ」
カイルは声を上げて笑った。
───
※【作者】
数日間村に滞在したカイルは、エレナと共に畑を耕し、薪を割った。
ただし、最初の一日は鍬の持ち方すら知らなかった。
「畑仕事をなさったことがありませんね」
「旅人にも、得手不得手はある」
「薪を割ったことも」
「都会育ちの旅人なのだ」
「身分を隠すのでしたら、設定をもう少し詰めてからお越しくださいませ」
エレナは笑わなかった。
カイルは笑った。
村人たちは、二人が並ぶ姿を温かく見守った。
同時に、村長は宿泊日数と食費を記録し、宿屋の女将は若い男女を二人きりにしないよう、毎晩夕食を届けた。
───
やがて傷が治り、彼は村を去った。
「また会えるだろうか」
「旅人なら、いつか再び同じ道を通ることもあるでしょう」
「ああ。必ず戻ってくる」
その言葉どおり、カイルは一か月後に戻ってきた。
今度は豪華な馬車と、多くの騎士を連れていた。
彼の正体は、隣国の第二王子だった。
───
※【作者】
「先日は身分を偽っていたのですね」
豪華な馬車を前にしても、エレナの第一声はそれだった。
「偽ったつもりはない。姓を名乗らなかっただけだ」
「身分を尋ねた際、ただの旅人とお答えになりました」
「旅をしていたのだから、旅人ではある」
「王族がそれをなさると、外交問題になります」
同行していた隣国の外務官が、静かに目を閉じた。
「殿下には、我々からも同じことを申し上げました」
「少し身分を離れて、人として接してもらいたかっただけだ」
「そのために、相手へ身分を隠すかどうかを決める権限は、殿下にしかないのですね」
カイルは答えなかった。
エレナは怒鳴らなかった。
ただ、次に会うときは、本人確認のできる書類を持参するよう求めた。
───
カイルは村人たちの前で、エレナの手を取った。
「エレナ。私と共に隣国へ来てほしい」
「わたくしは、罪人として追放された身です」
「君に罪がないことは調べさせた」
カイルはまっすぐに彼女を見つめた。
「君を陥れた者たちの嘘も、すべて明らかになっている」
───
※【作者】
「どの権限で、他国の公爵令嬢に関する調査をなさいましたか」
カイルの隣に立つ外務官が、一歩前へ出た。
「我が国へ亡命、または婚姻による移住を希望される可能性があるため、王家の許可を得て、公開情報と関係者証言を確認いたしました」
「祖国への正式な照会は」
「三週間前に送付済みです。回答はありません」
「では、まだすべて明らかになったのではなく、隣国側の調査結果が出た段階ですわね」
「君は本当に細かいな」
「他国の王子から、罪がないと一方的に認定された令嬢がそのまま隣国へ渡れば、祖国から引き抜かれたとも、亡命したとも受け取られます」
カイルは手を取ったまま固まった。
「それから、村人たちの前で手を取る前に、本人へ意思を確認してくださいませ」
「……私と共に来てくれるだろうか」
「まず、条件をお聞かせください」
───
・真相とざまぁ
その頃、王国では大きな混乱が起きていた。
聖女リリアには、実際には聖なる力などなかった。
彼女は王太子の寵愛を得るため、周囲の令嬢たちへ嘘をつかせていた。
エレナが行ったとされる嫌がらせも、すべて自作自演だった。
さらに、リリアが管理を任されていた神殿の資金が大量に消えていることも発覚した。
───
※【作者】
発端は、神殿の会計係が提出した一枚の照合表だった。
聖女リリアへ支給された衣装費と救護費の合計が、年度予算を上回っていた。
調査を進めると、存在しない孤児院への寄付、発注されていない薬品、同じ日に三か所で購入されたことになっている礼拝用品が見つかった。
さらに学園の備品記録からは、紛失したとされた教科書が、リリア本人の部屋から回収されていたことが判明した。
階段から落ちた日は、エレナが公爵領へ帰省していた。
ドレスへワインをかけたと証言した給仕は、その会場で勤務していなかった。
聖なる力がないことについても、突然判明したわけではなかった。
神殿の治療記録を調べると、リリアが治癒したとされた患者の多くは、もともと軽症だった。
重症患者には、別の神官が治癒魔法を使っていた。
嘘が一度に明らかになったのではない。
記録同士を突き合わせた結果、一つずつ成立しなくなった。
───
アレクシスは国民からの信頼を失い、王太子の地位を剥奪された。
リリアは罪人として投獄された。
公爵家の爵位と領地も返還されることになったが、エレナは王都へ戻ろうとはしなかった。
───
※【作者】
アレクシスは、王太子の地位を剥奪された。
ただし、それは聖女に騙されたことだけが理由ではなかった。
正式な調査を行わず、公開の場で婚約者を断罪したこと。
国王の許可を得る前に、王家の婚姻を破棄すると宣言したこと。
根拠の確認されていない罪を理由に、公爵家の領地を没収しようとしたこと。
それらを総合して、後継者としての判断能力を欠くと認定された。
リリアは投獄された。
彼女へ嘘の証言を頼まれた者たちも、全員が同じ罪には問われなかった。
金銭を受け取った者。
王太子からの圧力を恐れた者。
噂を事実だと思い込んだ者。
それぞれの行為と責任が調べられた。
公爵家の爵位と領地を返還するという通知も届いた。
だが、失われた一年分の税収、離職した役人、滞った堤防工事までは戻らなかった。
名誉回復の文書には国王の署名があった。
それでも、断罪の夜に居合わせた者全員へ訂正文が届くことはなかった。
誤った裁定は一晩で下せても、損なわれたものを戻すには、それより長い時間が必要だった。
───
やがて、元王太子となったアレクシスが村を訪れた。
かつての華やかな姿はなく、やつれた顔でエレナの前にひざまずく。
「私が間違っていた」
アレクシスは地面へ額をつけた。
「どうか王都へ戻ってきてくれ。もう一度、私の婚約者になってほしい」
───
※【作者】
「婚約者へ戻ってほしい理由を、お聞かせください」
エレナは、彼を立たせることもなく尋ねた。
「私は君を愛していた。失って初めて分かった」
「王太子へ戻るために、公爵家の支持が必要だからではなく?」
アレクシスは答えられなかった。
「違う。私は本当に君を」
「わたくし個人へ謝罪なさることと、以前の関係へ戻ることは別です」
「ならば、どうすれば許してくれる」
「許しを得るために謝罪なさっているのですか」
アレクシスが顔を上げた。
「謝罪は、相手から望む反応を引き出すための手段ではありません」
「私は、どうすればいい」
「まず、わたくし以外の方々へも謝罪してくださいませ」
証言を強要された生徒。
処分を受けた公爵家の役人。
工事の遅れによって不安を抱えた領民。
あの夜の判断で傷ついたのは、エレナ一人ではなかった。
───
エレナはしばらく彼を見つめていた。
かつては、その言葉をどれほど待ち望んだことだろう。
けれど今の彼女には、もう必要なかった。
「殿下」
「その呼び方はやめてくれ。私はもう王太子ではない」
「そうでしたわね」
エレナは穏やかに微笑んだ。
「ですが、わたくしも、もうあなたの婚約者ではありません」
「エレナ……」
「すべて、もう遅いのです」
───
※【作者】
「遅いのではありません」
エレナは静かに首を振った。
「謝罪を受けることはできます。名誉回復へ協力していただくこともできます。今後、別の誰かを同じ方法で断罪しないための制度を作ることもできるでしょう」
アレクシスが顔を上げた。
「ならば、やり直せるのか」
「婚約はやり直しません」
「なぜだ」
「関係の修復が可能であることと、元の形へ戻すことは同じではないからです」
「私は、一生許されないのか」
「許されることと、わたくしの夫になることも別ですわ」
エレナは、彼を憎んでいるから断ったのではなかった。
謝罪を認めないからでもない。
ただ、別れた相手を許すために、もう一度その相手を選ぶ必要はなかった。
───
・その後
アレクシスは泣き崩れた。
エレナは振り返らず、カイルのもとへ歩いていった。
その後、エレナは隣国へ渡り、カイルと結婚した。
彼女は王子妃となってからも、薬草園を作り、貧しい人々へ薬を配った。
国民から愛され、夫からも大切にされ、二人は多くの子どもに恵まれた。
───
※【作者】
エレナが隣国へ渡るまでには、八か月を要した。
祖国側での名誉回復。
爵位と財産の整理。
隣国側での身分確認。
婚姻契約。
宗教上の手続き。
カイルが第二王子として何を担い、エレナが王子妃としてどの権限と責任を持つのかについても話し合われた。
「愛している。だから何も心配しなくていい」
カイルは最初、そう言った。
「何も心配しなくてよい状態にするために、今、話し合っております」
エレナは答えた。
薬草園は、王子妃個人の慈善事業にはしなかった。
既存の薬師組合、神殿、地方診療所と協議し、薬草の栽培、加工、価格、配布対象を定めた。
無料で配る薬には上限を設けた。
無制限に無料化すれば、薬師の生活が成り立たなくなるからだった。
カイルは彼女を大切にした。
ただし、すべての判断をエレナへ委ねることはしなかった。
王子として負うべき責任は自分で負い、意見が異なるときには話し合った。
二人の間には子どもが生まれた。
人数は「多く」とまとめず、王家の公式記録へ一人ずつ名前と生年月日が記載された。
───
一方、祖国の王国は長い混乱から立ち直れず、かつての繁栄を失っていった。
───
※【作者】
祖国は滅びなかった。
王太子の廃嫡によって混乱はしたが、官僚も地方領主も商人も農民も残っていた。
国は王太子一人だけで動いていたわけではない。
新たな王太子が選ばれた。
神殿の会計制度は改められた。
公開の場で処分を決める際には、証拠記録を先に確認する規則が作られた。
王族の婚約を解消する際には、当事者だけでなく、王家と相手方の家が書面で合意することも定められた。
立ち直るまでに時間はかかった。
以前と同じ繁栄には戻らなかった。
それでも人々は畑を耕し、店を開き、子どもを育てた。
エレナを傷つけた国だからといって、そこで暮らすすべての人間まで不幸になる必要はなかった。
───
エレナは二度と祖国へ戻ることはなかった。
田舎の小さな小屋で始まった新しい人生を忘れず、愛する人々に囲まれながら、末永く幸せに暮らしたのだった。
───
※【作者】
エレナは、その後も何度か祖国を訪れた。
クラウゼン公爵家の娘としてではなく、隣国の王子妃として。
父とは、以前と同じ親子には戻らなかった。
それでも二人で堤防工事の記録を確認した。
父が領民を選んだことを、エレナは理解していた。
父は、理解してもらえたから許されたとは考えなかった。
母とは一度だけ、あの夜に何も言えなかった理由を話した。
母は泣いた。
エレナは泣かなかった。
すべてが許されたわけではない。
すべてが元に戻ったわけでもない。
ただ、断罪の夜に決められた形だけが、その後の人生のすべてではなくなった。
エレナとカイルは、末永く幸せに暮らした。
幸福が、何も問題の起きない状態ではなく、問題が起きたときに二人で話し合える状態を指すのなら。
───
作者パートを読まなければ、驚くほどありきたりな悪役令嬢ものです。
いじめられ、断罪され、婚約を破棄され、田舎へ追放される。
そこで暮らしを立て直し、身分を隠した隣国の王子と出会い、最後には冤罪が明らかになって幸せになる。
たぶん、上の文章だけなら三千字ほどで無事に終われました。
ところが作者が手を入れると、証拠の確認が始まり、追放先の法的根拠を問い、堤防の予算を気にし、薬師の仕事を守り、外交照会を行い、婚姻契約を詰め、最後には国の再建まで始まります。
ベタベタな悪役令嬢ものを書いたつもりでした。
書けてはいます。
作者パートを読まなければ。




