第5章 【真理の豊穣チート】「邪魔だけはしないこと」。土壌を原子結合から再構築し、愛犬(マロン)を傍に置く
激戦の翌日、レナは館の一室でクライヴと向かい合っていた。
レナは既に、魔物の再発防止と防壁の再構築の演算を終えている。
「王都へ戻りなさい、クライヴ。あなたの護衛の職務は、もうこの領地では無価値よ。昨日、証明されたでしょう?」
レナは、テーブルに広げた土壌分析の羊皮紙から目を離さずに言った。
クライヴは床に跪いたまま、微動だにしない。
「恐れながら、お受けできません、レナ様」
「なぜよ?あなたのロジックは、私がこの領地の絶対法則となった今、あなた個人の生存確率を著しく低下させている。それは合理的な選択ではないわ」
レナは、彼の献身が「設定」に基づいていると信じ込んでいる。
クライヴは、静かに顔を上げた。
彼の瞳は、レナの冷たい理性を前に、潤んだヘーゼルナッツ色をしていた。
「僕の職務は、レナ様を護り抜くことです。この領地が安全になったとしても、レナ様の心と孤独を護るという職務は、まだ終わっていません」
レナの思考の演算が一瞬、停止する。
(何よ、その目……)
彼の潤んだ瞳の深さと、柔らかな茶色のフワフワした髪が、レナの過去の記憶と重なる。
孤独な子供時代に、かまってやらない時、寂しげな瞳で見上げていた愛犬『マロン』の姿だ。
レナは動揺を悟られまいと、すぐに口を開いた。
「…あなたのその目は…まるで私が子どもの頃に飼っていたトイプーみたい…従順で、無条件に私の存在を肯定してくる」
レナはすこし戸惑いながら言った。
彼女は、彼の献身を貶めることで、自分に向けられた感情を否定しようとしたのだ。
クライヴは、レナの言葉に一瞬だけはにかみ、頬を微かに染めた。
「それは、光栄でございます」
クライヴは顔を伏せ、静かに言った。
「その愛犬は、レナ様にとって最も大切な存在だったとお見受けします。僕がその愛犬に少しでも近づけるのなら、騎士としてこれ以上の喜びはありません」
レナは、その予想外の応答に、再び思考を停止させられた。
彼の誠実な受け止め方は、レナの計算を完全に無効化した。
「……勝手にしなさい。あなたの職務の定義は、私の演算の対象外よ。ただし、私が効率を重視する限り、私の作業の邪魔だけはしないこと。あなたをそこに置いておくのは、私の気まぐれよ」
レナの言葉は冷徹だったが、その裏には、微かな情が隠されていた。
◇ ◇ ◇
レナが土壌の化学合成に着手してから三日後。
レナは再び、館の最も古く太い魔力導線が通る柱に触れた。
「さあ、化学合成の時間よ。この腐った領地を、豊穣な研究室に変えてあげるわ」
荒涼としたボルンラントの地表が、今、レナの超破壊的な演算によって、根本から組み替えられようとしていた。
レナは柱から手を離さず、深呼吸をした。
土壌の分子構造を原子レベルで組み替えるこの演算は、降雨や魔物討伐よりも緻密な制御が必要だ。
(地球科学、核物理、量子化学。必要なプロセスはすべて光速で演算済み。あとは、マナを「意図した法則」に正確に変換するだけ)
レナの目には、土壌に含まれるケイ素、アルミニウム、そして生命に必須の窒素原子の結合が見えていた。
「分子間結合の再構成。全原子、位置エネルギーの最適化」
彼女の脳内で最後の確認が終わると、レナは宣言した。
「――この世界の法則を破壊する。偽りの貧困の法則に代わり、真理の豊穣の法則を強制実行するわ!」
「――事象の再定義。法則、収束せよ」
ドクン。
館全体が、一瞬だけ低い唸りを上げた。
柱からレナの指先を通じて緑色の光が溢れ出し、地中の魔力導線を辿って、ボルンラント領の大地全体へと流れ出した。
ただ、静かに、確実に、世界の法則が書き換えられていく音だけが、クライヴには聞こえた気がした。
クライヴは、窓から庭を見る。
すると目の前の光景に息を飲んだ。
荒れた庭の土が、色を変えていく。
カサついた茶色の土は、一瞬で水を多く含んだ、濃い黒土へと変貌した。
土の表面から湯気のように水蒸気が立ち上り、一瞬で領地全体に広がっていく。
クライヴは、地表の変化を信じられない思いで見つめた。
通常の魔法や何十年もの開拓でも不可能な化学的変化が、レナの数分間の演算で実現したのだ。
「レナ様……」
クライヴはレナの力を、「破壊者」としてではなく、「創造主」として捉え直した。
しばらくして、レナは柱から手を離した。
疲労の色は、ない。
「完了よ」レナは満足そうに呟いた。
「これで、どんな作物でも、理論上は育つ。次は、種まきよ。クライヴ、あなたは領民を動員し、今日中に全ての黒土に種を蒔かせなさい。作業速度の最適化は、私が演算でサポートする」
レナはすでに、次の演算に取り掛かろうとしている。
クライヴは深々と頭を下げた。
「御意のままに。必ず、レナ様の演算の成果を、この大地に結実させてみせます」
彼の返事は、忠実な騎士というより、レナの科学的な偉業を支える助手のものだった。
ボルンラント領は、レナの超破壊的な力によって、飢餓と貧困の運命から解放されようとしていた。
しかし、この異様なスピードと異常な豊穣は、遠からず王都の注目を集めることになるだろう――。