第3章 【化学チート&ノイズ】土壌改良は元素レベル。悪役令嬢の計算外のスキンシップに年下騎士が悶絶
朝が来た。
レナはわずかな睡眠の後、領主館の一室で目覚めた。
昨日までの乾燥した空気ではなく、窓からは水を含んだ涼しい風が入ってきている。
昨夜の豪雨は、確実に領地の状況を一変させていた。
「レナ様、よろしいでしょうか」
扉をノックしたのは、クライヴだった。
彼は服を着替えており、騎士服ではあるが、軽装の仕立ての簡素なものになっていた。
朝日に透ける柔らかな茶色の髪は、その整った顔立ちと柔和な雰囲気を際立たせている。
その表情は冷静を装っているが、瞳の奥には、レナへの深い懸念が隠れていた。
「昨夜の件について、領地の住民は非常に動揺しております。しかし、私はレナ様の命に従い、水と熱源の確保が最優先であることを周知いたしました」
すると、クライヴは地形図と魔力回路図に加え、新たな土壌データを提出した。
その有能さには、レナも認めざるを得ない。
(この男の行動力と情報処理能力は、前世の優秀な研究員にも匹敵する。彼のリソースは、私の理論構築に不可欠な変数だ)
「気が利くわね。その通りよ。次は、土壌改良をするわ」
レナは土壌データに目を通す。
この地の土はミネラルが偏り、作物が育つには化学組成が絶望的に不足していた。
「水だけでは生きていけないわ。食料が必要。地表から掘り出せる資源がないのなら、地表の土を化学的に作り変えるしかない」
レナは再び、テーブルの上の紙に新たな数式を書き始めた。
それは、分子構造の再結合を可能にする、より複雑な概念を具現化する計算だった。
(土に含まれるケイ素やアルミニウムの原子構造にマナを作用させ、植物の成長に必要な窒素固定とミネラルの均一化を光速で行う。地球化学と核物理の理論を、この世界の法則で強制実行する応用ね)
クライヴは、レナが書き連ねる複雑な数式群を、一瞬、真剣な面持ちで見つめた。
彼の表情には、数式の意味を本能的に理解しようと試みる、貪欲な探究心が宿っていた。
(彼女は、この世界のエネルギーを、根源から書き換えている。誰も到達し得ない、恐ろしいまでの理だ……)
クライヴはすぐに表情を騎士の仮面に戻したが、レナは彼の極めて迅速な思考と、わずかな動揺を見逃さなかった。
レナは立ち上がり、クライヴに目を向けた。
「クライヴ、あなたの働きは評価するわ。そして、私は利用した労力には対価を支払う主義よ」
レナは彼の前に歩み寄ると、「法則の検証のため、少し失礼するわ」と静かに断り、騎士服の上から、鍛え抜かれた彼の胸にそっと手を触れた。
「データ収集に長時間走り回ったでしょう。あなたの身体のエネルギー効率を最大化するため、疲労物質の分解と、筋繊維の回復を演算する。これは、私の研究の手伝いに対する計算通りの対価(報酬)よ」
レナの手のひらから、緑色の光がクライヴの体に吸い込まれていく。
「レナ様、これは……」
クライヴの声に、初めて動揺と戸惑いの色が混じった。
彼は、突然のレナの接近と、胸に触れられたことに対して、見る間に耳まで真っ赤になった。
その柔らかな茶色の髪の下で、彼の明るい色の瞳が大きく見開かれている。
(やっぱり、マロンみたい……)
レナはすぐにその感情を理性で打ち消した。
「感謝はいらないわ」
レナは顔色一つ変えずに答えた。
彼女にとって、それは単なる計算通りの対価であり、個人的な感情は含まれない。
クライヴは、真っ赤だった顔色を一瞬で引き締め、騎士としての完璧な表情に戻した。
クライヴは、レナの冷たい合理性と、その超常的な力を目の当たりにし、硬く拳を握った。
(彼女は僕を、愛情や好意ではなく、効率を追求する演算の一部として扱っている。それは分かっている。だが……長年秘めてきたこの献身が、いつか彼女の心に届くと信じる。彼女を護れるならば、彼女の演算の道具として存在することこそ、僕の真理だ)
クライヴは深く頭を下げた。
「レナ様の御心のままに。次の演算の準備が整い次第、いつでもお供いたします」
彼の瞳は、もはや護衛騎士の忠誠を超え、絶対的な献身という『法則』を宿していた。