第1章 【光速演算チート】「可愛げがない」と追放された悪役令嬢は、馬車の中で世界の法則に気づく
「お乗りください。レナ様」
柔和な声とともに、王子の護衛騎士、クライヴ・イグニスがレナに手を差し伸べた。
彼の柔らかな茶色の髪は、わずかな風にフワフワと揺れている。
そのヘーゼルナッツ色の瞳には、レナへの深い懸念と、どう接するべきか困惑する憂いが浮かんでいた。
彼は長身で騎士の制服がよく似合う美青年だ。
その優しげな雰囲気とは裏腹に、瞳の奥底には、誰にも理解できないほどの深い感情を押し込めているように見えた。
(私より年下かしら?整った顔立ちで、騎士としてはあまりに柔和。優しい顔をしているが、所詮は男。結局、騎士の義務に忠実なだけ。それ以上でも、以下でもない)
レナは彼の手を借りず、自力で馬車に乗り込んだ。
内装は固い木製で、以前乗っていた公爵家の馬車とは比べ物にならない。
クライヴはレナと向き合うことなく、馬車の戸口に寄りかかるように座り、護衛のため外を見つめている。
王都の光は遠ざかり、馬車がガタゴトと荒れた道を揺れるたび、貴族の娘だった記憶が剥がれ落ちていく。
辺境へ向かう道は舗装も不十分で、馬車は時折、車輪が深く地面にめり込むほど激しく揺れた。その移動速度はあまりにも非効率的で、レナの演算脳を苛立たせる。
レナは孤独を噛み締めた。
この世界に来てから、ずっと努力して築き上げてきた立場を失った。
――結局、あの時と何も変わらない。
私の築き上げたものは、いつだって、他人の都合で脆く崩れる。
前世の恋人、武史。
彼が私の才能に嫉妬していたのは薄々気づいていた。
しかし、ここ最近、研究所に入った若い事務員の女性、藤井愛理と浮気するとは。
(「愛理は、僕の研究を心から尊敬してくれる。お前と違ってな。お前みたいな、可愛げのない、傲慢な女には、誰の隣にも、永遠に居場所なんてないんだよ」)
裏切りは、私の存在意義さえ否定した。
そしてエドワード王子。
しつこく求婚してきたときのあの甘い笑みと、爽やかな容姿。
(「君こそ、未来の王妃にふさわしい。君がいれば、私の人生は光に満ちるだろう」)
レナは一瞬でも『この世界なら、今度こそ純粋な愛と居場所が手に入るかも』と愚かにも期待した自分を激しく糾弾した。
結果、彼が求めていたのは、私という道具だ。
美しい公爵令嬢という看板だけ。
アイリスという「かわいげのある女」が現れれば、彼女の立つ場所は塵一つ残さず消滅した。
(男の言う「愛」とは、結局、私を否定するための修飾語でしかなかった)
(でも、いい。これで私は完全に自由になった。邪魔をする者はもう、誰もいない)
レナは膝の上でそっと手を握りしめ、先ほどの夜会の出来事を頭の中で反芻した。
「ズドオォォン!!!」――あの、雷鳴のような轟音。
あれは、魔法ではなかった。
ただ、『電磁気学』の公式を強くイメージし、この世界のマナに命じただけだ。
(E=hν。プランク定数と振動数……光子のエネルギー。プラズマの発生、雷の放電現象。全ては、この世界の魔力で再現可能な計算値だわ)
レナは組んだ両手のうち、人差し指だけを抜き出し、静かにクルクルと回し始めた。
その指の動きは、彼女の頭の中で光速で進行している演算、すなわち「世界の法則を書き換えるためのプログラムの入力」をトレースするかのように、一定の律動を刻んでいた。
馬車の戸口に座っていたクライヴは、すぐに、その奇妙な動作に気づいた。
彼は驚きを押し殺すように、柔和な瞳をわずかに細めた。
レナはただ静かに座っているだけだ。
しかし、その指の動きは、まるで世界に一つしかない暗号を打ち込んでいるかのようだった。
(私は魔法が使えないんじゃない。この世界の魔法が、私の知る物理法則の劣化版だっただけだわ。そして、私はその法則を、光速で再構築できる)
レナの瞳に、絶望はなかった。あったのは、孤独を突き抜け、真理を手に入れた科学者の、狂気的なまでの悦びだ。
(この世界の魔力は、ただのエネルギー媒介。私はそれを、私が知る高次の物理法則のコードで書き換えることができる。これこそ、前世で達成できなかった理論の具現化だわ)
誰にも邪魔されず、誰にも理解されない、私だけの真実。
その時、馬車が激しく揺れ、レナの頭が窓枠にぶつかりそうになる。
ドン!
レナが痛みに顔を顰める前に、クライヴの左腕が電光石火の早さで伸び、硬い窓枠とレナの頭の間に滑り込んでいた。
「大丈夫ですか、レナ様」
彼はレナを心配そうに見つめ、すぐに腕を戻す。
「……ありがとうございます」
レナは小さく呟いた。
「職務ですので」
クライヴはそう答えたが、その声は感情を押し殺すようだった。
レナが彼を見ると、彼は子犬のような、不安に満ちた瞳で一瞬レナを見つめ、すぐに視線を外した。
彼の左腕が、僅かに小刻みに震えているのが見えた。
それは、物理的な衝撃による震えというより、内面的な強い動揺のように見えた。
(職務? まさか、私を本心から心配してる?)
レナは、この小さな献身を「計算外のノイズ」だと見なし、即座に「男の気まぐれ」だと判定した。
男は、所詮、自分の都合でしか動かないという法則が、彼女のすべてだった。
「これで、辺境で誰にも邪魔されないで生きていけるわ」
レナは決意を固めた。
孤独な真理の探求者として、誰にも期待せず、裏切りの法則から完全に自由になることを。
その馬車の中で、クライヴはただ外の景色を見つめていた。
彼の柔和な瞳の奥底で、誰にも読めない、静かで絶対的な誓いが燃えていた。
それは、彼が聖剣を握る理由と同じ、決して曲がらない『忠誠の法則』だった。
作中に登場する『法則』や『演算』は、現実の科学理論をベースにするようできるだけ努めていますが、あくまで物語を構成するためのファンタジー設定としてご容赦ください。