第14章 【ラグラジアンの返歌】愛の法則を確信した直後、最愛の騎士クライヴはヒロインの『嫉妬』によって封印される
クライヴは、王子の監視下に置かれていることを逆手に取り、レナへの手紙を「ボルンラントの研究内容の確認」と偽り、王都の近衛騎士団の副官を介して極秘に辺境へ送り届けていた。
レナがその暗号を解読し、必ず返信を寄こすことを、彼は冷静に演算していた。
そして、クライヴが王子の誤解を利用し、レナへの軍事介入を阻止してから二週間後。
騎士団の宿舎にいるクライヴのもとへ、レナからの返信が届いた。
それは、近衛騎士団の副官には「ボルンラントの研究資料」としか見えないよう、レナの極秘の演算式によって厳重に偽装された羊皮紙だった。
クライヴは即座にその数式を解読した。
それは、彼が送った「愛しています」の返歌となる、レナの心からの法則だった。
「d/dt ( ∂L / ∂q̇ ) = ∂L / ∂q」
(これは...オイラー=ラグランジュ方程式!『最小作用の原理』を司る式!つまり、あなたの行動の軌跡は常に、私への献身という『作用』を最小(最善)にするように選ばれることを意味している!)
数式の行間から、レナの冷徹な分析と、深い信頼の感情が溢れ出す。
『あなたを信じています。どうか無事で。帰りを待っています。』
クライヴの胸に、熱狂的な歓喜が津波のように押し寄せた。
(やった!飛鳥先輩は、僕の愛を『法則』として認めてくれた!)
彼女が返してくれたのは、「愛してる」という感情的な言葉ではなかった。
その代わりに、オイラー=ラグランジュ方程式を使って、彼の忠誠を冷徹に分析し、証明したのだ。
「あなたの行動の軌跡は常に、私への献身という『作用』を最小(最善)にするように選ばれている」という、この式が意味するところは、誰よりも理性を信じるレナが、彼の愛を『世界で最も揺るぎない真理』として公式に受け入れたということだった。
最高の知性を持つ女王からの、最高の形で証明された愛の告白だった。
クライヴは羊皮紙を強く胸に抱きしめた。
佐伯亮としての至上の勝利と、絶対の幸福感が、彼の全身を焼き尽くしていた。
「クライヴ様、どうか私を見てください」
相変わらず、騎士団の宿舎にいるクライヴのもとへ、アイリス・ルクスブルクが連日訪れていた。
アイリスは以前にも増して熱烈だった。
彼女は、レナが辺境で死を回避し、公爵令嬢として返り咲いているという事実が、この『エタクロ』の設定が崩壊した証拠だと確信していた。
(悪役令嬢レナが生きている。なら、ヒロインが攻略できないはずの裏キャラ、クライヴも攻略できるはず!)
アイリスは、レナの存在を理由にクライヴへの執着を正当化した。
アイリスは、クライヴのレナへの忠誠が、この数日でさらに強固になったことを肌で感じていた。
レナからの手紙が、辺境から届いて以来、クライヴのアイリスへの拒絶は、以前にも増して冷徹になっていった。
(このままでは間に合わない。この男を引き戻すには、もう、この世界の法則を破るしかない!)
そして、ある日の夕暮れ。
他の騎士たちがいないのを見計らい、アイリスはクライヴの柔和な仮面を打ち砕く言葉を放った。
「クライヴ様。私、藤井愛理だったのよ」
クライヴのヘーゼルナッツ色の瞳に、心底からの嫌悪と驚愕が一瞬で広がった。
彼の柔和な仮面は崩れ去り、佐伯亮としての感情が露わになる。
「あなたこそが、飛鳥先輩を裏切り、傷つけた元凶だと…」
クライヴの声は低く、怒りに震えていた。
アイリスはクライヴの腕に縋りつくと、潤んだ瞳で訴えた。
「そうよ、私が愛理。あなたを攻略したかったからよ! あなたが亮君だった時も、今も! あなたは飛鳥ばかり見て、全然私を見てくれなかった! この世界でも、あなたは同じ過ちをするの!?」
アイリスは一歩踏み込み、より残酷な真実を突きつけた。
「いい? 飛鳥があんなに苦しんだのは、すべてあなたのせいよ、亮君! あなたが、武史という彼氏がいる飛鳥を愛し続けたから、私はその武史を奪った! 今世だってそう。レナがあの辺境で苦しんでいるのも、あなたが彼女に執着しているせいよ!」
「違う!」
クライヴは絶叫した。
「違わないわ。ねえ、取引しない?」
アイリスは甘く、そして冷たい声で囁いた。
「クライヴ様、あなたが私を受け入れるなら、私はもうレナを苦しめない。あなたがこれ以上レナを苦しめたくないのなら、私の物になりなさい」
クライヴは、愛理が前世と今世にわたってレナ(飛鳥)の孤独の原因であり、今なおレナの安全を脅かす「法則を乱す変数」であることを確信する。
彼は、アイリスの腕を静かに、だが明確な拒絶の意図をもって振り払った。
「私の愛は、前世も今世も、飛鳥先輩というただ一つの法則によって定義されています。あなたは、私にとって、法則を乱すだけの、不必要な変数です。そして、飛鳥先輩の苦しみを、愛の対価になどするものか!」
クライヴの心からの嫌悪と、絶対的な拒絶を目の当たりにしたアイリスの瞳は、一瞬で潤みを失い、冷たい憎悪に満ちた。
彼女は、長年レナに抱いてきた嫉妬と、クライヴに拒絶された屈辱を、王子の権威を利用して晴らすことを決めた。
その夜遅く。アイリスはエドワード王子のもとへ駆け込み、嘘の告発をした。
「クライヴ騎士団長に、無理やり犯されそうになりました! 彼の忠誠心は、すでに私欲のために狂っています!」
王子の怒りは頂点に達した。
彼は、クライヴがレナの秘密を引き出すどころか、王子の婚約者に手を出そうとしたと誤解し、クライヴの騎士団長位を剥奪し、即座に拘束を命じた。
クライヴが衛兵に取り囲まれたとき、彼の前に静かに現れたのは、宮廷首席魔導士、ユーリウス・ヴァルザックだった。
ユーリウスは、まるで王都の最も冷たい石のように、無表情だった。
「ユーリウス首席魔導士殿。私を捕らえるのは衛兵で十分だろう。貴殿の手を煩わせるまでもない」
「必要だ、クライヴ騎士団長」
ユーリウスの声は静かで、感情の欠片もない。
「貴殿は聖剣の使い手。貴殿の力は、この世界の秩序を一時的に混乱させ得る。それは許されない」
クライヴは聖剣に魔力を込めようとした。
その瞬間に備え、全身の魔力回路を開放する。
しかし、その魔力が剣へと流れようとしたその刹那、ユーリウスが動いた。
彼は、指を立て、静かに空間に触れた。
彼の指先から、無数の微細な魔力光が放たれ、クライヴと聖剣の間の空間を、まるで透明な壁のように覆った。
それは、目に見える結界ではない。だが、クライヴには、聖剣へと向かう魔力の流れそのものが、完全に遮断されたのが分かった。
「な…!? 魔力が…途絶した!何をした!?」
「これは、『高次分離魔術』」
ユーリウスは、淡々と、講義をするように告げた。
「貴殿の体内の魔力回路と、聖剣の魔力伝導法則を、この空間から一時的に切り離した。その聖剣は今、ただの鉄の塊に過ぎない」
聖剣の力を失ったクライヴは、愕然とした。
魔導士が、空間の根本的なルールを書き換えることで、最強の力を無力化したのだ。
「貴殿の『忠誠』は、アイリス様の調和を乱す『法則の裏切り』と断定された。故に、貴殿の『力』は、魔導の理によって封印される」
クライヴは、感情(愛理の嫉妬)と理論(ユーリウスの魔術)という二重の理不尽によって、論理的に無力化され、屈辱的に鎖に繋がれた。
孤独な石の床に横たわりながら、クライヴは鎖に繋がれた手を見つめた。
(飛鳥先輩…忠誠を証明する最善の道筋を見つけようとしていたのに、まさか愛理の嫉妬という、計算外の最低な変数に邪魔されるとは…)
レナからの「愛の法則」を受け取ったばかりのクライヴは、今、レナへの愛を証明する機会と、レナの元へ帰る希望を、最も残酷な形で絶たれてしまった。
彼の心は、物理的な苦痛以上に、レナに会えない焦燥感に苛まれていた。
今回、レナがクライヴへ送った返歌の数式は、オイラー=ラグランジュ方程式です。
こちらもシステム上の制約により(私が表示方法を知らないだけだったら申し訳ありません)一行での表記となりましたが、この式は「最小作用の原理」を司るそうです。
これは、前章のクライヴの「永遠の定義式」と対をなす愛の法則としました。
クライヴの定義式が「二人の愛が永遠に収束する」ことを誓ったのに対し、レナのこの式は、「クライヴの行動の軌跡は常に、私への献身という『作用』を最小(最善)にするように選ばれている」という、彼の忠誠を物理学的な『法則』として認定したことを意味してみました。
あくまでもファンタジー設定ですので、ご容赦ください。お楽しみいただけたら幸いです。




