第13章 【ゼータ関数の告白】「愛しています」〜悪役令嬢、数式に暗号化された『永遠の定義式』で孤独の法則を破壊する〜
クライヴが王都へ向かってから二週間、ボルンラント領は、レナの予測通り誰にも手出しできない絶対領域へと着実に姿を変えていた。
セーラの合理的かつ献身的な協力の下、レナは最も複雑な演算である大気組成の最適化の最終段階に入っていた。
「これで、この地の作物の収穫量は、理論上、王都のそれの五倍となるわ。セーラ、あなたの献身は評価するわ」
レナが告げると、セーラは冷静に答える。
「レナ様の叡智の成果を、最適な形で結実させるのが私の責務です。レナ様、この地はもはや、王都のルールが通用しない新しい法則の領域となりました」
レナはセーラの言葉に満足しながらも、ふと窓の外を見た。
領主館のそばには、領民の中から志願した男たちが建設したばかりの簡素な兵舎が建っている。
彼らはレナを女神のように慕い、「ボルンラントに何かあれば、自分たちがレナ様を守る」と誓ってくれていた。
老執事のヘンリーや、共同検証者のセーラ、そしてこの領民たち。
(私は、孤独ではない……?)
前世では、恋人の武史に裏切られ、その上で周囲に嘲笑された。
現世では、王子とアイリスに、地位と名誉を奪われようと落とし入れられた。
レナは常に「誰にも頼らない、孤独な絶対者」であろうとしてきた。
しかし、今のレナにはクライヴがいる。
そして、そのクライヴが整えてくれた生活基盤の上で、彼女の法則を信じてくれる人々がいる。
その事実に気づき始めたレナの心は、遠く王都へ行ったクライヴの安否を案じる焦燥感と、夜ごと訪れるゼフィールとの知的な誘惑への探求心との間で複雑に揺れていた。
その夜、レナがゼフィールとの一時間のため研究室の照明を落とそうとした時、ヘンリーが静かに部屋に入ってきた。
「レナ様、王都からクライヴ様のお手紙が届きました。近衛騎士団の副官を通じて、厳重に運ばれてきたものです」
「手紙?」
レナは訝しんだ。
クライヴが王子の監視下にあることは明らかであり、個人的な手紙を送れるはずがない。
しかし、羊皮紙には、レナの常識を覆すものが書き連ねられていた。
それは、難解な理論物理学の数式群だった。
王子の近衛騎士団の副官には、クライヴは「レナが研究しているボルンラントの計算結果の確認」とでも説明したのだろう。
レナは震える指先で、その数式を解読し始めた。
彼女の目の前に書かれていたのは、ガンマ積分とゼータ関数を結びつける、高次の法則の定義式だった。
「∫^∞_0 [ x^(n-1) / (e^x - 1) ] dx = Γ(n) ζ(n)」
レナの演算(理性)は、まずその客観的な物理構造を看破した。
(ゼータ関数 (ζ) とガンマ関数 (Γ) の積が、無限大 (∞) への積分によって一つの真理に収束している……これは、二つの法則が合わさる『永遠の定義式』※だわ)
すると、その論理的な構造が、レナの奥底に眠っていた前世の記憶を呼び覚ます。
(この式は……佐伯君が、僕の「お気に入りの式」としてよく冗談で使っていたものだわ。彼は、この数式を見るたびにこう強引にこじつけて言っていた……)
「飛鳥先輩、この式は、永遠の定義式※です。永遠に収束するという意味で、愛の告白に使えるんですよ。さらに、ゼータ関数の『ぜ』は『ぜったい』の『ぜ』の音ですよ。そして、ガンマ関数の『ガ』は……『愛』の『ア』の音に、無理やりだけど!そうすると『ぜったいの愛』が一つに合わさるという意味で使えます」
そういって笑っていた、あの時の彼の言葉が、今、レナの脳裏に光速で収束した。
『愛しています、飛鳥先輩。』
レナの手が止まった。
その言葉は、レナの法則を崩壊させる、最も計算外の熱を持っていた。
彼女の冷徹な分析眼が、制御不能な熱で一瞬だけ潤んだ。
さらに解読を進める。
『戻れるように最善を尽くしています。王子の監視下にありますが、僕の忠誠は揺るがない。待っててください。佐伯亮より』
レナは、手に持っていた羊皮紙を強く握りしめた。
彼の愛は、王都の権威という外部要因によっても崩壊しない、揺るぎない絶対の法則として、レナの目の前に証明された。
(佐伯君……)
その瞬間、研究室の闇が揺らぎ、ゼフィールが姿を現した。
彼はレナの手に握られた羊皮紙を一瞥し、魅惑的な笑みを浮かべた。
「面白い。君の愛犬は、こんな原始的な方法で、自身の存在を証明したのか。だが、その愛の法則とやらが、この一時間の真理の誘惑に、どこまで耐えられるか見ものだ」
レナは、クライヴからの「愛の法則」を胸に、ゼフィールの「法則外の真理」へと、冷徹な分析眼を向けた。
※永遠の定義式は実際には存在しないそうです。
今回、登場したクライヴの「ゼータ関数とガンマ関数の積」の定義式ですが、システム上の制約(私が表示方法を知らないだけだったら申し訳ありません)により作中では一行でしか表記できませんでした。
クライヴは、この式で「二つの異なる法則(愛と理性)が、無限の作用によって一つの真理(永遠の定義式)に収束する」と言ってますが、永遠の定義式は実際には存在しないそうです。
あくまでファンタジー設定としての暗号ですので、彼の一途な愛の証明としてお楽しみいただければ幸いです。




