第11章 【家事チートの法則】天才学者の盲点。「効率的よ」と豪語した生活の安定は、年下騎士の愛だった
クライヴが王都へ旅立ってから、領主館にはセーラ・アルバーンが常駐するようになった。
セーラは、王族付の特級マナ学者であり、まだ二十代前半ながら、王都でも指折りの知性と実力を持つ女性だ。
艶やかな栗色の髪を理知的に結い上げ、知的な眼鏡の奥の瞳には、レナと同じく尽きない探求心が宿っている。
レナとは異なり、彼女は社交の場でも冷静に対応できる貴族としての規範も兼ね備えていた。
彼女がこの辺境の領地に留まることを許されたのは、レナの「大気組成の再構成モデル」が、王都にとって見過ごせないほど重大な発見であったためだ。
セーラは、レナの研究成果を公的に王室に報告し、その学術的検証と技術の保全を名目に、「共同検証者」としてレナの傍にいる権利を勝ち取った。
これは、王都の関心と権威を逆手に取り、レナの研究に政治的な盾を与えるための、セーラ自身の合理的な戦略でもあった。
セーラはレナの共同検証者として、大気組成の最適化演算を手伝う傍ら、領主館の異様な生活環境に驚愕していた。
「レナ様、失礼ですが、あなたはこの広大な館で、一体どうやって生活しているのですか? メイドは一人もおらず、この館にいるのは、あなたと、あの老執事の方だけでしょう?」
セーラは、領主館の図書室を一時的な研究室として整頓しながら尋ねた。
隣領の貴族であるセーラにとって、これは貴族社会のルールから逸脱した、信じられない光景だった。
レナは、難解な数式が並ぶ羊皮紙から目を離さない。
「生活に問題はないわ。食事は執事のヘンリーが用意してくれる。パンとシチュー、時々スープよ。彼の身体的な負担を考慮し、必要な栄養素とカロリーを全て計算したメニューで、調理の負荷を最小化している。効率としては、現状で最適解よ」
「効率の問題ではありません!」
セーラは強く言った。
「貴女は公爵令嬢でしょう。それに、ヘンリー様もご高齢です。彼に負担をかけるのは、長期的には館の安定性を損ないます」
レナは初めて手を止め、セーラを見た。
(ヘンリーの心身の負担が、館の生活基盤の崩壊に繋がる……それは、私の研究の絶対的な安定性を揺るがすリスクファクターだ)
レナの脳裏に、前世の記憶が蘇った。
武史が飛鳥を「家事もできない女」だと切り捨てた言葉。
そして、その武史とは違い、佐伯亮が、その生活の盲点を黙って埋めてくれていた事実。
前世でもそうだった…実験が長引き、徹夜が続いた朝。誰もいないはずの研究室で、淹れたての温かいコーヒーと、彼女の好きなバタークッキーが置かれていた。
武史とのことで憔悴していた飛鳥が、研究室のソファで眠ってしまった夜。
亮は彼女にそっと毛布をかけ、翌朝、誰にも見つからないように、何も言わずに片付けた。
そして、このボルンラントでも。彼は常に、レナの食事や部屋の温度、執事の負担まで、レナの演算が及ばない領域を、献身という名の法則で完璧に整えていた。
(私は、ヘンリーの負担を表面的な合理性で片付けていた。佐伯君は、もっと人間的な配慮という高度な演算で、私の生活を支えていたのね。…彼は、私の孤独な研究を、誰よりも理解して、裏で尽くしてくれていた)
セーラは、レナの表情に一瞬よぎった暗い影を見逃さなかった。
「レナ様。あなたの研究の継続を最優先するなら、生活の安定化は必須のプロセスです。彼らに心的な余裕を持たせることが、あなたの計算を邪魔させない唯一の合理的な道筋です」
セーラは、レナが理解できる合理性の言語で、ヘンリーの労力ではなく心身の安定という長期的な価値を訴えた。
レナはしばらく沈黙した後、小さく頷いた。
「...わかったわ。合理的ね。ヘンリーの負担軽減と、私の研究の安定性のために、あなたの提案を受け入れる。クライヴが戻るまでに、この館の生活基盤の安定化を。全て、あなたの裁量に任せるわ」
セーラは満足げに微笑むと、すぐに行動に移した。
その日から、領主館には数人の信頼できる使用人が加わり、レナの生活は一変した。
淹れたての美味しい紅茶、清潔なリネン、栄養バランスが完璧で温かい食事。
レナは、その合理的で快適な生活を享受するたびに、遠く王都へ行ったクライヴの存在を甘い感傷と共に思い出すようになっていた。
(なぜ、こんな簡単なことに、今まで気づかなかった? 佐伯君は、以前からヘンリーに代わって全てをやってくれていた……彼は、私の生活の盲点を、献身という名の愛の証明で密かに補い続けていたのね)
夜の帳が降りた頃、レナは一人、研究室の照明を落とした。
ゼフィールとの「一時間の協力」の時間が始まったのだ。
闇が揺らぎ、ゼフィールが姿を現した。
彼は、整頓された研究室を見て、皮肉な笑みを浮かべた。
「君の理屈は、外部の変数に容易に侵されるな。あの娘がもたらした『生活の安定』は、君の孤独を侵す最悪の毒だ」
「毒ではない、効率よ」
レナは即座に否定した。
「本当にそうか? 君の隣で、あの犬が献身という名の愛を黙々と証明していた時、君の心は揺れなかった。だが、今、君は彼の不在を意識している。愛とは、存在の欠落によって初めて認識される、非合理な渇望のことだ」
ゼフィールはレナの心の内を見透かすように、甘く囁いた。
「この一時間、君の脳を真理で満たそう。私はかつて、君と同じように孤独だった。世界という不完全な定数から、完全な真理を導き出そうとした。その代償として、この世界から人間としての実体を失った」
彼は自身の漆黒の闇を指し、優雅に口角を上げた。
「だから、私は知っている。君の探求の代償を。それが、君のあの犬への『欠落感』を埋める唯一の解決策だ。さあ、始めよう。君が愛に裏切られ、孤独に打ちひしがれる前に、永遠の真理へと昇華させる作業を」
レナは、ゼフィールの言葉が、クライヴへの焦燥感を的確に衝いていること、そして彼の過去が自身の未来の可能性を示唆していることに戦慄した。
(佐伯君……あなたはどうしている? あなたの忠誠という愛の証明は、武力や王都の権威という、より強い外部因子によって、本当にねじ曲げられていない?)
クライヴは、もう、王都の近衛騎士団に戻ったはずだ。
彼が孤独と屈辱に耐えながら、レナへの愛の誓いを護り続けていることが、レナの証明の唯一の頼みの綱だった。
レナの冷徹な瞳の奥で、今まで抱いたことのない新たな計算が、ゼフィールの法則外の知識と並行して開始されていた。




