第10章 無意識の愛の証明?フワフワを触った直後、悪役令嬢は騎士を王都へ送還する
レナは領主館の研究室で、大気組成の調整に必要なマナ制御の最終計算を行っていた。
その隣にはクライヴがいる。
彼は佐伯 亮としてレナの質問に答え、物理学的な知識でレナの研究をサポートしていた。
レナはふとクライヴを見た。
(佐伯君の忠誠は、前世の「後悔」という名の情熱に基づいている。この非合理的な献身が、武史のような裏切りに繋がる法則上の欠陥を持っていないか、私は解析しなければならないわ)
彼女の心は、温かい信頼と、冷たい分析欲求の間で複雑に揺れていた。
レナは計算式を書き終えた羊皮紙を、うっかり机の下に滑り落としてしまった。
「あっ!」
すると、クライヴはすぐに気づき、身を屈めてそれを拾い上げようとする。
その瞬間、レナの視界には、彼の柔らかな茶色のフワフワした髪が広がった。
(フワフワだわ……)
レナの理性が一瞬停止した。
次の瞬間、彼女は「計算」ではなく「衝動」に従い、彼の髪にそっと触れてしまった。
彼の髪を撫でる指先は、まるで未知の法則を観察するように、微かな熱を帯びていた。
「飛鳥先輩?」
クライヴは、驚きと期待が入り混じった瞳で、レナを見上げる。
その瞳には、騎士の仮面ではなく、佐伯 亮としての熱烈な愛が宿っていた。
「……っ、疲労物質の分解と、思考の加速を演算するわ」
レナはすぐに手を離したが、クライヴはその一瞬の接触に、満たされた感謝の笑みを浮かべた。
「はい、飛鳥先輩。あなたの合理的な投資に報いるため、最大限に集中します」
(彼女は、僕を必要とし、僕に触れてくれた。この法則こそが、僕の生きる唯一の真実だ)
クライヴの心は、確かな幸福感に満たされていた。
「佐伯君」
レナは静かに尋ねた。
クライヴはすぐに姿勢を正した。
「以前、私があなたのことを『トイプーみたい』と言ったとき、あなたは、『その愛犬の存在に少しでも近づけるのなら、これ以上の喜びはないと』言ったでしょう?」
レナは、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
彼女の瞳には、単なる疑問ではなく、整合性の検証を求める分析的な光が宿っている。
「前世、私が落ち込んでいるとき、つい、『佐伯君は、幼少期に飼っていたマロンに似てるの』と、一度だけあなたに言ったことがあったわ。もしかして、その時の言葉を覚えていてくれたの?」
クライヴの頬が、わずかに朱に染まった。
彼は、その質問が、レナが自分の愛の真実を最終的に認めるための最後の変数だと理解した。
「……あの時は、不覚にも真実が漏れてしまいました」
クライヴは苦渋の笑みを浮かべた。
「僕は、あなたが僕をマロンに例えてくれたことが、誰からの褒め言葉よりも嬉しかった。
なぜなら、僕がマロンと同じようにあなたから愛される存在になれるかもしれない、と思ったからです。
だから、あなたが再びその話題を出したとき、思わず感情が理性を超えて、喜びを口にしてしまった」
「……そう。あなたは、私が犬に例えても喜ぶほど、私に献身的だというわけね。
あなたの行動原理は、私の演算から見ても非合理的で、理解できない。けれど……最も安定した真実だわ」
レナの瞳に、懐かしさと、クライヴへの確かな信頼が混ざり合った。
彼女の心の中で、一人の男の変わらぬ献身が、新たな法則として確立された。
「今も昔も、あなたは私にとって一番信頼できる観測対象というわけね」
レナは、クライヴの非合理的な愛を、彼女自身の安全を保証する「究極の安定法則」として演算に組み込んだ。
彼女の瞳に熱は消え、再び冷徹な『演算モード』に切り替わった。
「佐伯君。昨日提示した大気分子の再構成モデル、安定性は99.9%よ。問題はないわね」
「はい、飛鳥先輩。ただし、外部からのマナ干渉が少しでも生じれば、熱暴走の危険があります。ボルンラントの魔力回路が、誰にも触れられない絶対的な領域である必要があります」
その時、館の敷地内に、不協和音のような魔力の変動が起こった。
「侵入者だ!」
クライヴは即座に立ち上がり、聖剣の柄に手をかけた。
領主館の扉を叩いたのは、王都の近衛騎士団の副官をリーダーとする調査団だった。
彼らはクライヴを包囲するように威圧的に立ち、レナを一瞥もせずに命令を下した。
「クライヴ・イグニス騎士団長。貴殿は国王陛下の命により、直ちに王都へ帰還せよ。近衛騎士団長たる者が、辺境の追放貴族の護衛を続けることは、騎士道に反する!」
クライヴの表情が硬直する。
彼の「騎士の義務」と「レナへの絶対的な誓い」が、真正面から衝突したのだ。
レナは椅子に深く座ったまま、その光景を冷徹な目で見つめていた。
(王都の武力介入は、私の研究を全て破壊する。クライヴが王都のルールに従うことが、この地を絶対領域にするための、唯一の最善の道……)
クライヴは、レナの背後を一歩も動かず、副官に告げた。
「お断りします。私の忠誠は、すでにレナ・フォン・ヘルメス様に捧げられています」
「貴様、反逆か!」
「違います。私はただ、この方がこの世界の未来を護るために必要だと、合理的に判断しただけです」
その時、調査団の一人の女性が、一歩前に出た。
セーラ・アルバーン。
王族付のマナ学者である彼女は、レナの研究の痕跡が残る大地を、熱心に観察していた。
「レナ様。あなたが創り出したこの豊穣の真実は、まさに革命的です。
しかし、その成果を護るには、政治というルールに従う必要があります。
クライヴ騎士を一旦王都に戻し、彼の名誉を回復させることが、この領地を護る最適な解決策です。
この地で進められているあなたの研究に、私も協力させてください。
私はあなたの計算を、最も合理的に理解できる唯一の協力者になれます。
あなたの発見した『大気組成の再構成モデル』は、この世界のマナ工学の法則を根底から覆す、世紀の大発見です。
私には、その検証を側で見届ける、学術的な責務があります」
レナは初めて、セーラの目を見た。
彼女の言葉には、感情的な思惑はなく、純粋な功利性と探究心だけがあった。
(この女性の言う通りだ。クライヴが王都のルールに従うことが、ボルンラントを絶対領域にするための最速の解決策……)
レナは静かに頷いた。
「分かったわ、クライヴ。王都に戻りなさい」
クライヴは言葉を失った。彼の佐伯亮としての心が激しく動揺する。
(行きたくない。しかし、ここで拒否すれば、王都は武力で飛鳥先輩の研究を破壊するだろう……)
「レナ様……私は」
「これは命令よ」
レナは、冷酷な女王の顔に戻っていた。
クライヴは、その命令が、レナの安全と研究成果を守るという絶対的な戦略に基づいていることを悟った。
彼は深々と頭を下げた。
「御意のままに。必ず、レナ様の元に帰還します」
クライヴはそのまま調査団と共に王都へ向けて旅立った。
クライヴを失ったレナは、初めて経験する心臓の欠落感に戸惑いながらも、セーラに向き直った。
「ようこそ、セーラ。あなたは、私の研究の共同検証者よ。まずは、大気組成の最適化から始めましょう。クライヴが戻るまでに、この領地を誰にも手出しできない絶対領域にするわ」
レナの冷徹な瞳の奥で、「観測対象の忠誠を護る」という、嫉妬にも似た、新たな計算が開始されていた。




