第9章 「効率化のため、触れて?」悪役令嬢、合理性の法則を逆手に取った年下騎士に赤面する
レナとクライヴが領主館に戻った時、夜は明け始めていた。
クライヴの告白により、彼らの関係は主従から、運命共同体の盟友へと一変していた。
「……飛鳥先輩」
レナが書斎で資料を広げようとした瞬間、背後から、かつての佐伯 亮の控えめな声がした。
レナが振り返ると、クライヴは柔和な笑みを浮かべ、少しだけ肩を落としている。
「昨夜は聖剣の力を使いすぎました。先輩を守るため、意識を最大限に集中させていたので、少しマナ回路が疲労しています。……効率を優先するなら、回復をお願いできませんか」
クライヴは、レナが彼の疲労回復を「演算の効率化」として行うことを知っていた。
彼は、レナの「合理性」という法則を逆手に取り、「触れてほしい」という要求を、最も論理的な「効率化の提案」として伝えてきたのだ。
彼の明るい色の瞳は、レナの反応を上目遣いに伺っている。
(この男は、本当に私の弱点(法則)を知っている。私が拒否できない対価を、最も効率的な言葉で要求する)
レナの頬に、計算外の、無視できない熱が走った。
しかし、すぐに冷徹な理性が上回る。
「仕方ないわね。私の演算の絶対変数がすぐに倒れてしまっては、効率が悪いから」
レナは立ち上がると、無言で彼の前に歩み寄った。
騎士服の上から、彼の胸にそっと手を触れる。
触れた瞬間、クライヴの体温がレナの指先に伝わり、昨夜の彼の命懸けの咆哮が蘇る。
「これは、昨夜の労働の対価よ。疲労物質の分解と、マナ回路の回復。今後の私の計画の、効率を最大化するための、合理的な投資だと理解しなさい」
レナの手のひらから、微かな光がクライヴの体に吸い込まれていく。
クライヴは、レナの手が触れる騎士服の布地をきつく握りしめた
「ありがとうございます……飛鳥先輩」
クライヴの声は、騎士の礼儀ではなく、心からの感謝と、レナへの揺るぎない献身を帯びていた。
レナは彼に背を向けた後、彼の胸元に触れた手のひらに、計算外の余熱が残っているのを感じた。
「佐伯君、昨夜のゼフィールよ。彼の力は、私の電磁気学や熱力学の演算を通り抜けた。つまり、彼は物質ではない。彼の言った通り、『感情、記憶、呪い』といった、この世界のマナが歪んだ概念そのものが、具現化した存在ね」
「物理法則が通用しない…」
クライヴは硬い表情で頷いた。
「彼の狙いは、飛鳥先輩を自分の世界に引き込み、そして法則を書き換える共同作業です」
「ええ。孤独につけ込むのは気に入らないけれど、彼の知識は必要よ」
レナの瞳に、再び科学者の狂気的な探求心が灯る。
「彼の存在は、私の知らない高次の法則を解明する鍵になる。利用させてもらうわ」
「彼を信じられるのですか?」
クライヴは警戒を緩めない。
佐伯亮としての理性と、クライヴの騎士としての本能が、ゼフィールを拒絶していた。
「信じるのではない、利用するのよ。彼の要求は、私への執着。私の要求は、法則外の解析。利害は一致する」
レナは、テーブルに広げたゼフィールの残滓のデータに目を落とし、組んだ両手から人差し指を抜き出し、静かにクルクルと回し始めた。
その動作は、彼女の頭の中で膨大な情報が光速で収束していることを示していた。
クライヴは、その癖を見て、柔和な瞳に再び強い決意を宿した。
「飛鳥先輩、その癖が出ているということは、難解な演算の最中ですね」
クライヴは静かに言った。
「僕が、あなたの思考(演算)の邪魔になるようなノイズは、決して発しません。ただ、あなたの法則を完成させるために、そばいます」
レナはクルクル回していた指を止め、クライヴを一瞬見つめて言う。
「その法則(忠誠)を、私は信じるわ」
レナの冷徹な理性が、彼の「知性に基づいた献身」という新たな法則を、自分の演算に組み込むことを決めた。
信頼できる協力者を得た安堵が、彼女の瞳の奥に一瞬だけ揺らめいた。
レナは立ち上がった。
「佐伯君、あなたは領地警備の強化と、ゼフィールを誘い出すための準備を。私は彼の残滓から得たデータを元に、彼との交渉の糸口を探る」
「御意」
クライヴの忠誠は、単なる騎士の義務ではなく、佐伯亮としての絶対的な愛に基づいている。
◇ ◇ ◇
三日後の深夜。
レナは祠の「空間の歪み」が生じる地点で、ゼフィールを待っていた。
クライヴはレナの背後、祠の入り口を固めている。
「遅いぞ、孤独な女王」
闇が揺らぎ、ゼフィールが再び姿を現した。
彼はレナのそばにクライヴがいることに気づき、口元を歪めた。
「その犬を、まだそばに置いているのか。理解に苦しむな。その男では、君の演算の進歩は止められてしまうぞ」
「佐伯君は、私の法則の理解者であり、命の恩人よ」
レナは冷たく言い放った。
そして、手に持っていた一枚の紙を広げた。
「本題よ、ゼフィール。あなたの言う『魂の法則』。その一部を、私なりにマナのベクトルとして解析してみたわ」
レナが差し出した紙には、この世界の誰も見たことのない、幾何学的で複雑な数式が書き連ねられていた。
それは、ゼフィールが無意識に発動するマナの流れを、レナが物理学の視点からグラフ化したものだった。
ゼフィールの表情が、初めて驚きと知的好奇心に変わった。
その傍らで、クライヴはレナの数式を凝視し、小さく呟いた。
「...『場の歪み』を四元数で近似しているのか。これで、時空間のひずみも制御できる...」
(佐伯君……この数式の意味と、その応用可能性を、一瞬で理解した!?)
レナの胸が熱くなった。
孤独な演算は終わった。
彼女の隣には、法則を共有し、命を懸けられるパートナーがいる。
ゼフィールは、レナの知性と、その数式を即座に理解し、専門的な用語を発したクライヴを見て、初めて興味を覚えたように口角を上げた。
「面白い。君の従順な犬は、私の話についてこられるようだ。クライヴ...君の知性も、彼女の狂気を支えるにふさわしい」
彼は、レナに視線を戻した。
「あなたの『法則外の力』は、私の演算から見れば、単なる複雑な『場の歪み』よ。私はこれを解析したい。その対価として、あなたに孤独ではない『永遠の探求』を約束する」
レナはまっすぐゼフィールの瞳を見つめた。
「あなたの情報と協力の対価として、一つ条件を飲むわ」
ゼフィールはレナの瞳を覗き込み、魅惑的な笑みを浮かべた。
「よかろう。では、今後、君の演算と解析の時間が、一日につき必ず一時間は必要になる。その間は、そこの犬の警護を退け、私が直接、君の傍にいることだ」
「冗談じゃな――」
クライヴは怒りから反射的に剣の柄を握りしめたが、レナの言葉がそれを遮った。
「いいわ」
レナはゼフィールとクライヴを交互に一瞥し、冷たく言い放った。
「佐伯君、それがゼフィールとの契約の変数よ。受け入れなさい。私は、法則外の真理を、あなたの命懸けの法則さえも利用して優先する」
クライヴは、愛する女性の理性に叩き潰され、言葉を失った。
彼の瞳に、激しい屈辱と、ゼフィールへの制御不能な嫉妬が燃え盛った。
ゼフィールは、レナの圧倒的な知性と、クライヴの苦悩を同時に手に入れたことに満足したように、深く笑う。
「素晴らしい。孤独な天才は、結局、最も甘美な毒を選ぶ。ただし、その一時間は、君の法則が崩壊するほどの真理の誘惑の時間となるだろう」
ゼフィールは優雅に一礼し、闇の粒子となって消滅した。
(佐伯君、私を許して。あなたの法則は、私の演算において最も重要な『真実』よ。だからこそ、私は、この法則外の脅威を、あなたの献身の法則で座標を護られながら、解析する)
レナは、クライヴの献身の真実を信頼し、その法則(愛)を絶対的な変数として、次の演算へと意識を切り替えた。




