序章 悪役令嬢レナ、光速演算(チート)で断罪される
「レナ・フォン・ヘルメス!貴様との婚約を、この場で破棄する!」
第一王子エドワードの、響き渡る声が夜会の大広間を静まり返らせた。
レナは膝をつき、銀色の長い髪を夜会の照明に煌めかせている。
彼女の顔立ちは帝国一の美貌と称されるが、感情の抜け落ちた翠色の瞳は、この狂言を冷徹に見つめていた。
その魂は、前世、一ノ瀬 飛鳥という名の優秀な理論物理研究員だった。
恋人による裏切りと酷い言葉に遭い、人間への不信を抱いたまま、乙女ゲーム『エターナル・クロニクル(エタクロ)』の悪役令嬢として転生した。
王子の隣には、アイリス・リンドールが寄り添っていた。
アイリスは、綿菓子のように淡いピンク色の髪と、純粋無垢な青い瞳を持つ、『エタクロ』のヒロインだ。
彼女は王子に腕を絡ませ、レナを見下ろす。その眼差しは、か弱さの仮面の下で、冷たい優越感に満ちていた。
エドワードは王族特有の傲慢さを隠そうともせず、レナを見下ろして言う。
「貴様は魔法の才能が低すぎる!王妃としてもふさわしくない!そして、無能を自覚せず、アイリスをいじめた罪は重い!」
(魔法の才能が低い? 今更? この私を娶ろうと熱烈に求婚してきたくせに。そんなこと、はじめから知っていたでしょ…)
転生後のレナは、物理学者としての合理性から、「感情的な不快な行動は、自身の演算と生存に非合理的なリスクを生む」と結論付け、悪役令嬢の運命に抗おうとアイリスへの接触すら避けていた。
しかし、『エタクロ』の法則は、主人公と悪役令嬢の対立を不可避とした。
ヒロインと出会った王子は、レナへの熱烈な愛を瞬時に捨て去った。
(男とは、結局、か弱く、素直に甘えてくれる猫を被った女に夢中になる。愛されるという虚構は、いつも最も残酷な形で、知性ある女を裏切るのだ)
王子は、顔色一つ変えず淡々と話を聞くレナを見て、苛立ったように言葉を継いだ。
「それに、貴様は可愛げのない女だ!」
王子の腕に抱きつくアイリスの姿が、レナの脳裏で、前世の恋人・武史と抱き合う浮気相手と重なる。
「飛鳥、お前は可愛げがないんだよ。彼女は俺に何も言わずに甘えてくれる、素直で可愛い女だ」
王子は、広間にいるすべての人々が見守る前で、レナの前に近づいた。
そして、跪いているレナの、美しい銀髪を一房掴み、乱暴に引き上げた。
「いいか、レナ!お前のその頭でっかちな『知性』は、結局、何の役にも立たない!この世界で強いのは、私の絶対的な愛と、アイリスの可愛らしさだけだ!お前は、愛も、女としての魅力も、何もかもがアイリスに負けたんだ!」
王子は、レナの顔を覗き込み、心底軽蔑したように唾棄する。
「純真無垢でか弱いアイリスをいじめるとは許せない!今すぐアイリスに謝罪するんだ!頭を床にこすりつけて、許してくださいと言え!」
アイリスは、わずかに顔を強張らせながらも、すぐに「か弱きヒロイン」の仮面を被り直す。
彼女はレナを見下ろし、涙ぐんだ声で訴える。
「レナ様……わ、私、怖いんです。お願い、わたくしに、ごめんなさいと言ってください……!」
レナは奥歯を噛みしめた。
虚ろだった理性が火花を散らして焼き切る。
肉体的な屈辱、知性の否定、そして……『アイリスへの屈服』。
その強制が、彼女の魂の奥底で、まるで核融合のように膨大なエネルギーに変換された。
(――殺してやりたい。前世の私だったら、物理学の知識で、この愚かな奴らの頭上に、強力な電磁パルスでできた雷でも落としてやるのに!)
レナの脳裏に、電磁気学と粒子物理学の理論が、光速で駆け巡った。
その思考が完了するよりも早く――
ズドオォォン!!!
純粋な光の柱が、轟音と共に王子の足元の床を打ち抜いた。
それは従来の魔法とは全く異質なもの。
床の一点が一瞬で蒸発し、すべてが光と熱のエネルギーに変換されたかのようだ。
強烈な閃光と熱波が広間に広がり、焦げた床からは、辺りにあるはずのない強烈なオゾンの匂いが立ち込める。
誰もが悲鳴を上げ、会場は騒然となった。
レナは困惑した。
あれは私の『願望』を、この世界の物理法則にねじ込んで具現化した、私の前世の理論……!
王子は腰が抜けた状態で、その場で尻もちをついている。
そして、彼のそばにいたアイリスは、恐怖に顔を歪ませ、すぐに王子の背後に隠れた。
彼女の目には、か弱さとは裏腹の、レナに対する強烈な怯えと憎悪が宿っていた。
「魔法が使えないお前がどうして?謀反か?余を殺そうとしたのか!」
「そんなことしません」
レナは静かにそう答え、ゆっくりと立ち上がった。
その手には、震え一つなかった。
しかし、彼女の周囲を、王子の指示に従った騎士たちが囲み始める。
レナが静かに連行される一部始終を、広間の柱の影からただ一人、冷静な騎士が見つめていた。
クライヴ・イグニス。
彼は、柔和な面立ちと優しげな雰囲気を持つ、王子の護衛騎士である。
聖剣の使い手として最強の力を秘めたヘーゼルナッツ色の瞳は、周囲の悲鳴と騒乱から隔絶されたように、ただ痛みを堪えるような表情を浮かべていた。
彼は、常識ではありえない事態(光の柱)に驚愕しながらも、すべてを諦めたように静かに歩き出すレナの背中から、目を離すことができなかった。
(あの光は、魔法ではない。純粋なエネルギー変換か……?)
クライヴは、レナの連行を阻止できない己の立場と、レナの痛ましいまでの孤独に、ただただ痛みを堪えるような表情を浮かべるしかなかった。