46 世界から浮いても
「できましたよ」
櫛を通して艶が出た尻尾を手から離します。そうするとやっと背中からの拘束が解けて立ち上がることができました。
我ながら満足のいく毛並みになったと思います。連れ歩いて自慢したい、と思うのは邪念が強すぎるでしょうか。
振り返るとマノリア様が少しばつの悪そうな表情をしていました。
そんな顔をされると困ってしまいます。
わたくしだって膝に乗って重くなかったかどうか聞きたい気持ちやマノリア様だけ水浴びしていてずるいという気持ちがあり、落ち着きません。
「行きましょうか」
けれど何も聞かずにそれだけ言って部屋を出ます。
するとマノリア様がすぐに追いかけてきて手を握ってくれました。
「今日は浮かない?」
「平気です」
「わかった。でも病み上がりでふらつくかもしれないから」
このまま外を歩くのは少し照れてしまうのですが、つないだ手を離してくれる気はなさそうです。
さっきのばつの悪そうな表情と、今の真摯な表情の落差がまるで少年のようだと思いました。
公衆浴場までの道すがら、マノリア様がぴたりと横についてくれていました。病み上がりを心配する気持ちと、種族的な忠誠心の強さを感じます。
「大丈夫そうだね。よかった。でも念のため」
「はい」
静かな笑顔。目尻だけが優しく下がっています。
わたくしは、少し罪悪感を抱いています。
この方が忠誠心を寄せる相手が、本当にわたくしで良かったのかどうか。もっとふさわしい相手がいるかもしれないと――。
ちらりと横を見ます。
今は前を向いて。凛とした目鼻立ち。濃い黒のまつ毛。透明な色に濡れた瞳。
見目が麗しいことも罪悪感を強くします。連れ立って歩くことをどうしても嬉しく思ってしまうから。
本来は外見など気にするべきはありません。しかし惹かれてしまう。
「では、行ってまいりますね」
「わかった。外で待ってる」
そのうちに公衆浴場について、やっと手が離れました。獣人族には目立つ耳と尻尾があるせいで、公衆浴場では歓迎されません。
マノリア様から離れるとわたくしの世界からは色がなくなります。
彼女に出会うまで慣れ親しんできた視界。色褪せた世界が寂しいものだと思うようになってしまいました。
やはりわたくしのほうが体よくマノリア様を――。
「……」
肩にお湯をかけ、腕を伝っていくのを眺めました。灰色。石鹸と花びらが同じ色に見えます。
湯浴みの途中はあれこれと考え事をしてしまいます。
身を清めるひとつひとつの作業に集中して、考えすぎないように努力しました。
丁寧に時間をかけて洗って、頭のなかを空っぽに。今日の花の香りで満たして。
マノリア様の内心まで知ることはできません。ただ、わたくしがどこへ行くにもついてこようとして、今も待ってくれているという事実だけ――。
事実以外を考えるのは無意味なことです。
けれど湯浴みでほんのわずかな時間離れているだけなのに、胸の奥が甘酸っぱく締め付けられるのを感じます。まぶたの裏には色のついた彼女が。
どうせ外は暑いのだから、ヴェールを外していれば自然と乾くでしょう。髪を拭くのもいい加減にして、わたくしは浴場を後にしました。外に出るときはもうほとんど早足になって。
マノリア様を探すのは難しくありません。色の痕跡を探して、裏手の広場ですぐに見つけることができました。
「マノリア様――」
「あ……」
わたくしに向かって顔を上げましたが、ぼうっと立ったままで動こうとしません。
いつものようにすぐにそばへ来てくれるはずと考えていたので、少々違和感を覚えました。
わたくしから近づいて再度声をかけます。
「お待たせしました。……どうかしましたか」
「ううん。おかえり」
目元が少し潤んでいるように見えました。何かあったのだろうと思いましたが、想像がつきません。
多分聞いても話してくれないでしょう。かわりに自分が考えたことを話します。
「待っていてくれてよかったです」
「……?」
「湯浴みをしている間に、もしいなくなってしまったらと考えてしまって」
「そんなこと考えたんだ」
力のない笑み。さっきと違って目尻は下がっていません。
「いつものヴェールは?」
「荷物のなかに。ここは人気もありませんし」
「よかった。……可愛い」
「……」
手をつなぎました。細い指。桜色の爪。
握り返してくれるまで、きゅ、きゅ、と断続的に力を込めます。五回ほど繰り返してやっと返ってきました。
そのまま指を絡めます。
「そばに置いてください」
「……うん。大丈夫。そばにいるよ」
ぼんやりと不安定な声。ですがやっと少しずつ指に力がこもってきました。
広場には物干し竿がたくさん設えられていて、ちょっとした林のようになっています。白いリネンの。
そよ風が吹いて白が揺れます。洗濯の湿気を含んだ空気が癖っ毛を揺らして。色のついた、彼女のまとう空気。
「白は、白という色ですね」
「……?」
「マノリア様といなければ、わたくしにはそれがわかりません」
「そっか……リベラは」
指を絡めたままの右手。左手もマノリア様に向かって伸ばします。今度はすぐに握ってもらえました。
「私が必要なんだね」
頷くかわりに指に一本ずつ動かして肌を撫でました。
両手とも胸元まで持ち上げて、指を絡め直します。
「――お祈りを」
「何の?」
「わたくしたちのためのお祈りです」
お互いの手を合わせて指を組んで、対の祈る手を形作りました。
正面で向かい合って立って。僅かな身長差とマノリア様の上目遣いを意識します。
「――狭き門から入ります。あなたと」
お祈りの言葉はそれだけです。
マノリア様を見つめて、言葉がこだまするのを待ちました。
「狭き門から入ります。あなたと――」
リネンの林を風が吹き抜けていきます。
ばたばたとうるさいほどにはためかせて。わたくしたちの前髪を揺らします。
ああ――わたくしが信奉するのは旅と風の神です。
マノリア様とのちっぽけな一言だけの祈りを気にかけるなど、偉大な神にはまったく不釣り合いなことだと思っていましたが――。
風は止みません。
周囲のリネンと洗った髪の水気が急速に飛んでいくのがわかります。
左に右に、風は複数の方向に踊るように荒れ、白い布が祈る手を囲むようにはためき続けます。風と大きな布がときどきは、太陽からわたくしたちを隠してくれました。
「祝福を」
「あ……うん」
マノリア様に更に一歩近づきました。胸とお腹、衣服越しの体温を感じながら密着し――顔を近づけて。
わたくしは微かにあごを引き、マノリア様はおとがいを持ち上げます。
そして――唇に唇を重ねました。
いちばんやわらかい場所で触れ合って。
――気持ちいい。
言葉にしたつもりはありませんでしたが、伝わってしまったのでしょうか。マノリア様が小さく頷きました。
風が少しずつ収まっていきます。わたくしの中にある祝福を彼女のなかに注ぎ――、また、僅かな呪いを受け取りました。
「ん……」
漏れた吐息を聞きながら、お互いの魂に呪いと祝福が混ざるのを感じます。
さて、神はわたくしたちの何を気にかけて、ここに風を踊らせたのでしょう。
人間には測り知ることのできないこと、神にしかわからないこと、つまり無意味なことだと思いますが――。
「あなたを祝福しました」
唇を離して囁きます。
「……ありがとう」
「幸多からんことを」
上目遣い。まつ毛同士が当たりそうな距離。
「次は、祝福ではなく――無意味なものです」
「……?」
また徐々に顔を近づけて。
お互いにまぶたを閉じて。
もう一度唇を重ねました。
「ん……」
ふしだらなことと知りながら、重ねた唇の形を舌でなぞります。
「あ……」
「……受け取ってください」
囁いて、次は上唇をなぞりました。
もう一度。下唇。
もう一度。上唇。
ちろちろと舐めて、舌先でやわらかさを十分確かめました。
「……くすぐったい」
「あと少し。がまんして」
「ん……」
上唇。
味はしないはず。下唇。けれど微かに甘い。上。やわらかさを甘く感じるのかもしれません。下。唇、くちびる。
ぬめる感覚は思ったよりずっと心地良いものでした。
あと一回。もう一回だけ。上だけ。下だけ。
そう思いながら――つないだ手が汗ばむくらい繰り返して。
「はぁ、はぁ……」
いつの間にか息をするのも忘れていました。
自分から求めたのに、酸欠で崩れ落ちそうになったところをマノリア様が支えてくれます。
「……ありがとう存じます」
組んだ手をほどいて抱きしめて。
「……リベラは、わるいよ」
「はい。その通りです」
風が完全に収まってしまうまで、わたくしたちは白い林のなかで抱き合っていました。
たったひとりのあなたを希って。
あなたのためにわたくしを役立たせてください。
愛されるよりも、愛することを。
慰められるよりも、慰めることを。
自ら祝福を与え、自ら呪いを受け、許すことによって赦され、無意味な命を受けられますように。
第一部 おわり




