41 抱き合って眠る
これが夢だということはすぐにわかりました。すべてに色が付いていましたから。
目の前に雪深い景色が広がっています。
わたくしの記憶にはほとんど馴染みが無いものです。辺境の、獣人族の村でしょうか。
朝陽。青空。見慣れない緑の針葉樹と雪、水路のきらめく流れ、こじんまりとした家々。透明なつらら。
美しい光景でした。
後ろから微かな足音。雪を踏みしめる音です。
振り向くと狼耳の少女がいました。
マノリア様です。
が、今より少し若くてあどけなくて――おまけにわたくしに笑みを向けてくれました。
わたくしが見たことのある、控えめな笑みとは全く違う朗らかな笑み。寒さのせいで頬が朱に染まっているのが愛らしい。
胸が締め付けられるのを感じます。
切ない。この笑顔をもっと見ていたくて――。
「後ろからなのによくわかったね、――――」
笑顔のマノリア様が「わたしの」名前を呼びました。「わたくし」のではなく。
「あの、」
どきりとしながら思わず手を伸ばしてしまいました。
視界に映る自分の手の違和感。わたくしは自分の姿を見下ろします。暖かそうな服装で、腰には飾りのついた細剣を差していました。
胸元にはペンダント。冒険者証が入る形の。
この姿は“リベラ”のものではありません。
呆然と見下ろしていると、少女のマノリア様のきょとんとした表情が視界に入ります。
わたしの顔を覗き込んで。その紫の瞳には何の曇りもありません。
「どうかしたの?」
ゆっくりと白い息を吐いて、また吸って。
数度繰り返して頭の奥を冷やしていきます。
「大丈夫です」
声もわたくしのものではありません。
「? 口調が変だよ。もう、久しぶりだからって――」
マノリア様が数歩遠ざかります。そのあどけない笑顔をもっと見ていたいという欲求を抑え、わたしは――いえ、わたくしは目覚める準備をしなければいけない。
宙空から不吉な囁き声のようなものを感じました。これは「わたし」が聞いているもの。
青空の一端が赤黒く裂けました。白い雪にもどす黒い血の紅が広がります。
夢は急速に悪夢に変わろうとしています。
虫のようなものがわたしの心を蝕み、齧り、咀嚼している。
雪の村の風景は赤黒く濁り、また緑青に腐って輝き、囁き声が強く語りかけてきます。
そして目が――。
目が、目が。
目、目、目、目、目、目、目、目、目が、青空のあちこちに浮かび見下ろし、樹から水路から雪の中から覗いてわたしを見張っています。
ゆっくり息を吸って、白く吐いて。
手が静かに動きます。
なぜか細剣の柄に向かっている。緑青が細剣の鞘からわずかに漏れ出して。
ゆっくり息を吸って、白く吐いて。
背を向けて歩き出したマノリア様。後ろ姿。無防備な。
顔だけ軽く振り向いて、口を開けます。
多分名前を呼ぼうとしている。
――わたしの。――わたくしの。
左手が細剣の柄を撫で、右手が音も無く鞘を握ります。
「……!」
目眩。暗転する景色。
「…………ッ」
落下する感覚。もがいて、大量の目から逃れて。やり過ごして、通り過ぎて。
なんとか既知の場所へ――。
「……ラ、……リベラ?」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
まず喘鳴のような声が聞こえ、騒がしいと思いました。しかしそれは自分自身の喉の音でした。
「大丈夫? うなされてたから……」
目の前にはわたくしが知っている、いつものマノリア様がいました。夢で見た姿から数年ほど経って少しだけ大人びた雰囲気で――あまり笑わない人。
紫の瞳は澄んでいるけど伏せがちで。
「汗もすごい……。どこか痛む?」
マノリア様が額の汗を拭いてくれました。
薄暗い部屋。雰囲気で神殿の客室のような場所だと気づきます。わたくしはベッドに寝ていて、マノリア様が付き添ってくれているようです。
自分の手を見ます。確かにわたくしの手です。色のない視界もまた。
「……ありがとう存じます。痛みはありません」
「あ、無理して起きないで。寝てて」
「マノリア様のほうこそ、お体は」
「私は平気。治癒の奇跡で治る傷だけだったから」
ということは、今のわたくしの状態は外傷によるものではないということでしょう。
「グウェンが言ってた。無茶しすぎだって。体の内側で呪いの血が蝕んで……」
マノリア様がゆっくりと包むように、わたくしの肩に手をかけます。
「……死んでもおかしくなかったって」
ごくゆるく、優しく抱かれて。首に鼻梁が当たるのを感じながら目を閉じます。
わたくしの体はマノリア様の呪いを一時的にしか受け容れられなかったようです。
「そうですか」
「そんな、他人事みたいに言わないで」
「……ごめんなさい」
ただ、一時的になら受け容れられた理由はなんとなくわかっています。何度かのくちづけ。唾液の交換。
それで少しずつ混ざっていたからでしょう。
「皆さんは無事ですか」
「うん、ロアもクォンも平気。あの短剣ももう何もできないはず」
「良かった……」
受け答えしながら思考は夢の内容に向かっています。急速に実感や輪郭がおぼろげになりつつありますが、あれはわたくしのなかの呪いの残滓が見せたものなのでしょう。
他人が受けた呪いを引き受けることはやはり不可能なのでしょうか。
「マノリア様」
「うん」
「……少し、寒いです」
悔しいとも思いました。
「わかった。いま汗を拭くから。着替えも。水は飲める?」
「抱きしめてください」
「う……うん。……わかった。ふれていい?」
頷いて脱力しました。少しおかしかった。もうふれているのに。
マノリア様がわたくしの背中に手を入れて抱きかかえてくれました。
汗で冷えた場所にあたたかい肌が触れて心地良い。
「……冷えてる」
目を閉じて腕のなかでたゆたいます。
今、わたくしは優しくしてもらっています。わがままを聞いてもらっています。
それだけのことがどうしようもなく嬉しかったです。呪いがまだ心を蝕んでいるからでしょう。
呪いがこれほどに孤独感を強めるのなら、もしかするとわたくしは――マノリア様の繊細な場所をずっと。
「マノリア様……」
「……うん」
無意味に名前を呼びました。
そしてまた無意味に、脇腹に手を触れます。そこの傷口は塞がっていました。もちろんわたくしの手首の傷も。もう傷の色はわかりません。けれど胸が静かに高鳴ります。
「……もっと」
「もっと?」
「あたたかくしてください」
「わかった。ちょっと、ごめん」
思案する気配。そして一瞬体が離れます。
「――脱がすよ」
「え――」
「着替えなきゃ。汗で冷えてる」
「きゃ……」
抗う気力もなく、ただされるがままでしたが、声だけは出てしまいます。
「……、言ったよ。脱がすって」
「でも」
言いながらも寝衣を脱がされてほとんど裸になりました。
「でもじゃないの。……こうすると暖かいから」
衣擦れの音。ぼんやりと目が開けると、マノリア様が衣服から腕を抜くところでした。細くはあるものの女性らしい曲線。
眺めていられたのは一瞬です。すぐに裸の肩が覆いかぶさってきました。
「あ……」
肩。胸元。お腹。それから、背中に感じる腕。しなやかな脚も。
素肌と素肌で触れ合っているのがわかりました。つい今眺めた曲線の肢体に抱かれているという実感。
やわらかくてあたたかくて、さらりとしています。
それからひとつの毛布で包まれて。
「あたたかいです」
汗で冷えた寝衣との落差で驚くほど暖かく感じます。
「ちゃんとあたたまったら、汗も拭き直そう。水も飲んで」
「……飲ませてくれますか?」
「もう」
裸で抱き合って、心地良い体温と繊細な肌に包まれて尻尾で撫でられて、わたくしの意識は蕩けていきました。
その安楽には、あるいは微かな呪いも含まれていたかもしれません。毒も馴染むと甘いことをわたくしはもう知っています。




