26 ふたりの空気
リベラが髪を梳かしてくれるから、おとなしく従う。
ついでに尻尾の毛並みも梳かしてくれるらしい。
朝、支度を済ませてから出発までの僅かな時間の間、私はリベラに従ってしまうことにした。
「では、マノリア様」
「うん……。どうぞ」
この時間の間はリベラが私の主人だと思うことにする。
そのほうが気持ちが楽だから。そう思わないと他人に髪の毛を梳かしてもらうのを受け入れがたい気がするんだけど、リベラはどう考えてるんだろう。
リベラの前で足を崩して座って、櫛を入れてもらう。そのときの絶妙な抵抗感が心地良い。
私の髪の毛は艶があって乾いてはいないし、かといって湿気で重たいわけでもないと思う。人の手で梳かされていると微妙な重量のなかに空気が入ってくるのを感じた。
私たちは空気をまとっているし、空気を食べている。
衣服を着ているけれど実際には肌と布の間にある空気をまとっている。おいしい食事のときも、盛り付けられた空気を食べているときがおいしいんだと思う。
「だって、軍の保存食だと中身が詰まり過ぎてておいしくない。それは空気がないからってことでしょ」
「そうかもしれませんね」
私が力説するとリベラが笑ってくれた。
感心したというよりは面白がってるふうな笑みなのがちょっとだけ不満だけど。
左手で後ろ髪をもたれて、右手で梳かしてもらって。空気が入って心地良い。
「リベラの神様は風の神様だから、わかってくれると思ったのに」
「ええ。わかっています」
「うそ」
軽く答えられてちょっとむくれてしまう。
なんとかして、この気持ちを本当にわかってもらう方法はないものかと考える。
この気持ち、とやらがどんな気持ちなのかは、私にも説明しづらいけど。
後ろ髪が終わって、頭頂から横の髪。耳の上から下まで櫛が入っていく。
「…………」
何だかもどかしくて。
手から与えてもらう感触は心地よくて。
もどかしさと心地よさの間についてわかってほしい。そこには空気があると思うのが私の考え方だ。
さっきは右だったから今度は左。
「……気持ちいい」
「それは良かったです」
やっぱりわかってくれてないと思う。なんとなく。
まだ朝の早い時間だけど、日は十分に高くなっている。そろそろ出かけたほうが良い。だけどこの時間は何ものにも代えがたい。
「リベラにはしなくていい?」
「大丈夫です」
そう、と答えて櫛が前髪に入るのを感じた。確かに私じゃやり方はわからない。
でも私も何かしたい。
「前を下ろすと目の上に来て邪魔になりそうですね。少し横に流しますか」
「そうして」
櫛と一緒にリベラの細い指も感じた。横に流されていく。指先の硬さと柔らかさの中間の感触と、微妙な暖かさ。
「リベラ」
「はい」
まだ起きてあまり時間は経っていないのに眠くなってくる。髪を梳かされているだけで、何もしていないのに安心してしまう。
それとなぜか唐突に、世界はどうしてこういうふうにできているのかな、みたいな支離滅裂な考えが頭のなかに突然浮かぶ。
「……これ私だめかも」
「あら」
頭をリベラの胸元に押し付けてしまった。髪を梳かされているだけなのに体を起こすことができない。
くぅ、と喉の奥から声が漏れた。
私は自分で思ってるよりもずっと甘えたい気分になってしまっているらしい。
「なにがだめなのですか」
「あまり楽しくないほうがいいのに」
「……?」
「全部おきかわる時がくるから。楽しければ楽しいほど」
正面にいるリベラを見上げる。
目の前、すごく手前で自分の髪の毛の動き。その向こう側にヴェール。そしてリベラの顔。
「肩、さわっていい?」
「ええ。どうぞ」
リベラの肩に両手を置いて遠ざけた。
「これ以上はいい」
「そうですか?」
「うん。尻尾も。後にしよう。寝る前とか。とにかく今は大丈夫」
「わかりました」
櫛が私の髪から離れた。傍らに置かれたそれを眺めながらため息を吐く。
このわずかな時間の間くらい、別にされるがままになっていても良いはずなのに。従うって決めたのに。髪の毛くらいなんでもないのに。どうして難しく感じるんだろう。
「しまって。そろそろ行こう」
櫛を見ながら言った。
「わかりました」
立ち上がりながら自分の髪の毛に指を入れてみる。いつもよりさらりとして向きが揃っていて心地良い。
「櫛は嫌いですか」
「そういうわけじゃないよ」
……答えるのが早すぎて言葉をかぶせた感じになってしまった。まるで怒ってるみたいだ。全然そんなつもりじゃなくて、櫛を入れてもらうこと自体は好きなのに。
「……やっぱりだめ」
「またそれを。だめとは、何のことでしょう」
「この時間の間だけ、リベラの言う通りにしようと思ってた。髪の毛を触られるのに慣れてないから、ちゃんと言う通りにして、おとなしくしたくて」
「――ええ」
きょとんとした顔を見ていると理不尽に切ない気持ちがわきあがってくる。どうして朝から。全然そんなつもりじゃなかったのに。
「……長くひとりで居たせいかもしれない」
「そうなのですね」
わかったような、わかっていないような口調。
「ふれられると嬉しい」
「……はい」
「リベラがふれるのが好き」
それでよくわからなくなって、というようなことを口走ったかもしれない。あるいはそれ以上は何も言わなかったかもしれない。
とにかくリベラが櫛を荷物のなかにしまうのを待った。
「嬉しくて、私も触れたくなる。そういうことだと思う」
リベラが微笑んだ。今度は優しい笑い方だった。
「……わかる?」
「ええ、わかります」
言って、手を広げてくれた。
今度はもう何も言わずにリベラの肩と腰を抱く。
わかってくれたけど、きっと何もわかってない。
少し寂しい。
私は、やっと、誰かと一緒にいるときの気持ちを思い出していた。




