第8話
翌日、昼すぎに三宮でルカと合流し、センター街をゆっくりと歩いた。
「そっちから誘ってくれるの珍しくない?」
「そうだっけ……そうみたいだね」
僕は今さらながら、ろくに彼女を喜ばせるようなデートを提供したことがないと気付いた。ルカが握っている僕の手にぐっと圧力がかかった。彼女の着けている指輪があたり痛かった。
「何か欲しいものある? 買ってあげる」と僕は命乞いをするような気持ちで言った。
「何でもいいの? アキラが選んでくれたプレゼントが欲しいんだけど」
「それは……難しい注文だね。とにかく今日はルカが選んでくれないかな」と僕は言った。折れてくれと願った。ルカは、いいよ、と嬉しそうに言った。
それから、彼女はいつもの冷やかしではなく真剣に悩みながらいくつもの店を渡り歩いた。
紅茶専門店で試飲し、本屋の美術コーナーで大判の本をいくつも手に取り、あまり高くないジュエリーショップで指輪を眺めた。しかし、どの店でもやはり何も買わなかった。
午後三時をまわり、ついに彼女は決めた。ハンカチを買った。何か諦めたかのようにも見えたが、「すぐ使うんで、タグを切ってください」と店員にお願いしていたので、今すぐ使えるものが欲しかったのかもしれない。
「今日ハンカチ忘れたの?」と僕が聞くと、「そんなわけないでしょ。なんとなく欲しくなったの」とルカは答えながら、ほとんど黒に近いような濃紺のハンカチをしげしげと眺めていた。あまり可愛くなく、どちらかといえば男物のようなハンカチだった。
僕が「もういいの?」と聞くと「うん」とルカが言った。二人とも疲れていた。また少し歩いて、人気の少ないほうへ向かった。
二階にテラス席のあるカフェに入った。客は誰もいない。女性店員が暇そうに一人でテレビを見ていた。
「二階のテラス空いてますか?」と僕は聞いた。
「あ、いらっしゃいませ。はい、二階も空いてます。お好きな席にどうぞ」と店員は早口で言った。
僕らは二階に上がった。テラスには丸テーブルが三つあり、それぞれに椅子が二つずつセットされていた。一番左端にあるテーブル席に座った。
背の高い観葉植物がまわりを覆っていた。細い葉が作る櫛型の影がルカの目元にかかった。
コーヒーを飲んで、煙草を吸って、一時間ほど喋った。その間やはり他の客は来なかった。僕は頃合いだろうと思った。
「あのね、もうやめにしない?」と僕は言った。
「何を?」とルカは慎重な表情で言った。僕もさらに慎重な声音で、「この関係を」と伝えた。
ルカは吸いかけの煙草を灰皿に優しく置いた。一度僕の目を見て、すぐに伏せた。言葉が口から出ていくのをどうにかして防ごうとするように、彼女は口を引き絞ったまま下唇だけを微かに痙攣させていた。そして一つ二つ涙の粒を流した後で、ようやく「なんで?」とだけ言った。
「僕がダメになったんだ。いや、なったというか、最初からダメだった。ルカは何も悪くない」と言った。喉が張りついてところどころ声がかすれた。
「嫌だ……嫌だ……」と彼女は言った。語尾には子供のようなゆるさがあり、言葉は砕けていた。顔を取り繕うこともなく僕をまっすぐ睨みながら泣き続けていた。嫌だ、と繰り返していた。彼女は感情が高ぶると同じ言葉を何度も繰り返す癖がある。
「ごめん」と僕は呟いた。
「ごめんってなに? どういう意味なの? 何もわからない。何も私のこと考えてないよね?」
その通りだった。僕は彼女のことを何も考えていないし、ごめんという言葉に意味はなかった。
彼女の質問や妥協案をことごとくいなしていると、さらに一時間がたっていた。さすがに他の客も来たが、ルカの様子を見てテラス席を諦めて室内に戻っていった。よって、いまだにテラスには僕と彼女しかいなかった。泣き止んだ彼女を連れて店の外に出た。
ルカの家に向かってとぼとぼと二人して歩いた。黄昏に染まる街は静かだった。ルカは何度も僕の腕を引いて立ち止まり、まだ話すことがあると伝えてきた。僕にはもう何も話すことがなかった。
僕らにとって最後の一日が終わりかけていた。昼のなごりを残した黄色い光は、重たい青と熟れすぎた太陽に圧殺された。もう何も残っていなかった。
「これで終わりだからね。ルカの家に着いたら、そこでお別れになる」と僕はあらためて丁寧な態度で言った。もうすぐルカの家が見える位置まで来ていた。
「明日からどうするの?」とルカが聞いた。
「いままで通り、普通に接するよ」
「馬鹿じゃないの。アキラはおかしい。人間じゃないよ」と言いながらルカはまた泣き出した。あたりは暗く、その涙を見ることはできなかった。
「うん……人間じゃないね」と僕は言った。
胸のあたりの重力が増して、僕は地面にひれ伏しそうになった。耳の奥では、大量の血が抜けていくような音が鳴り響いてうるさかった。夜の闇に紛れて、僕の影が端から引きちぎられているような気がした。ちぎれるたびに、僕の存在が痛みに震えた。自動修復プログラムは起動せず沈黙していた。
ルカが「もういい」と言ってマンションの入口へ消えていった。僕は何も言い返せなかった。もはやルカのことは頭から消えかけていたが、まるで僕のほうが彼女に捨てられたかのように、いつまでもマンションの入口で佇んでいた。
地面から足を引き離し駅へ向かった。駅についたものの、どこへ向かえばいいのかわからなくなっていた。ただ家に帰ればいいはずだが、体がそれを拒絶するように動かなくなり、ただ切り替わる電光掲示板を眺めて続けた。
いつしか人も少なくなり、やがて終電が近いことを伝えるアナウンスが流れ始めた。僕はようやく改札を抜け電車に乗りこんだ。
このころになると、胸の重みは消え、無重力状態になっていた。
それは心地よいものではなくただの空洞で、修復が必要だった。空洞の端のほうでじわじわという音と共に血が流れている感覚があった。触ることも拭うこともできずもどかしいものではあるが、放っておけばかさぶたになるという確信があったのでそのままにした。
空洞の真ん中には、もやもやとした気体が集まり始めていた。色のついた霞のようなものだった。目を離すとそのまま消えてしまうような不確かさを感じた。このまま電車にゆられて家にたどり着いてしまうと、この霞が消えてしまうと思った。それはいけない。恐ろしくなり、急いで途中下車した。舞子駅だった。
駅近くにある舞子公園に入り、暗がりを歩いた。
街灯はあるものの足元はおぼつかない。少し風があり、波の音が聞こえる。
公園のどこからでも明石海峡大橋が見えた。巨大すぎて現実感がなく、だまし絵のようにも見えた。ライトアップされた二本の主塔は、照明と月光と海の色が混じり、薄暗い緑色に見えた。主塔の頂上から垂れ下がるケーブルにも光は宿っており、空に続く道をのぼる自動車が渋滞をおこしているようだった。
海と橋を見渡せる大きな階段に僕は腰を下ろした。風も階段もやや冷たく、しめっていた。
ルカのことはもういいだろう。彼女の中でいつ区切りがつくのかはわからないが、僕の中からは既に彼女の体温は失われてしまったというのが事実だった。明日からも「普通に接する」とは言ったものの、もう学校に行くつもりもなかった。音楽の道を進むというのも自動人形が判断した結果であり、人間としての僕はまた別の道を選ぶだろう。
これまでに自動人形が選択した正解は、すべて手放すことにした。音楽をやめるなら学校もやめる。明日中には、親にも学校側へもその意思を伝えるつもりだった。
やめた後は、ただ生きるためだけに生きようと思った。
一人で生きる。もう誰の影響も受けたくなかった。家も出て一人になる。どうしてもお金は必要になってくるので働かなければならない。専門的なことはなにもできないが、なんでもいい。とにかく食べていければいい。働いて、食べて、寝る。それを繰り返す。ただ生きるだけの、何か、人間以前の状態になる。獣のような存在になる。
一匹の、ただ生きるだけの獣になる。
これから数年ほど獣として生き、その後にようやく人間となるのだ。その時、僕はもう自動人形ではない。生身の人間だ。
僕は目を閉じた。胸の空洞に集まり何かしらの形をつくりかけている霞が消えてしまわないように監視し続けた。それに触ることはできないが、見つめることだけはできた。自動人形には持ちえない何かが形成されかけているのを理解した。
あまりにも深く見つめていたせいか、いつしか僕自身が霞の森に迷いこんでいた。森の中は、どこを見てもねじ曲がった黒い木が生えていて、ただよう霞のせいで数メートル先も見えなかった。これ以上踏みこむと戻れなくなるのではないかと恐怖した。
その時、一滴の水が僕を貫いた。痛いほど冷たい雨滴が、僕を森の外へと導き出した。
目を開けると世界が青かった。海はまだ緑と黒のまだらにうねっていた。空は青と黒のまだらに流れていた。空と海の間は、その二つを隔てる秩序が破壊されたかのように混沌とした青い霞に満たされていた。
夜が明ける気配がした。いつの間にか雨が降っていた。
僕はきしむ足をいたわりながら立ち上がった。立ち上がる時に、胸の空洞がため息のような物悲しい音をたてた。その音がもたらした虚しさに支配されかけたが、「僕はもう自動人形ではない」と強く意識して振り払った。
現時点では、いまだ形を持たない霞が、この空洞にあるだけだ。霞はまだ何も答えを出さない。好き嫌いすらわからない。何もない空虚に等しかった。
それはそうだろう。僕はまだ人間以前の獣になったばかりなのだから。僕は人間になれるのだろうか。欲望もなく、好き嫌いもなく、そもそも生きるエネルギーがほとんどない。
この獣はただ死なないために生きるだけの出来損ないで、永遠に地を這い続けることになるのかもしれない。
それでも、自動人形としての機構が破壊されたことだけは確かだった。
この獣が人間になるには、いったい何年かかるのか検討もつかなかった……。
次第に強くなってきた雨に濡れ、髪も服も重さを増していた。遠く、空と海の間には青い霞が消えることなく満ちていた。
これにて完結です。
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