60. 家族(後日談②)
さらに後日談です。これで完結になります。
お付き合いいただきありがとうございました!
エストと結婚して、もう3年が経つ。
この世界に来てからは、4年近いだろうか。
国中を回っているお陰か、エマはそれなりに、こちらの世界に馴染んでいる。生活文化にも慣れたし、文字も、みみずがのたうち回っているようなものからみみずが優雅に散歩しているくらいには進化した。
エストが精力的に取り組んでいる、精霊塔の改革や貧富の差の改善は、少しずつだけれど進んでいる。精霊士ほどではなくとも霊力をうまく使える人は増えているし、貧しさにあえぐような地域も、減っていると思う。
ダスティンは税収が増えたと言っていたし、産業や農業も盛んになっているようだ。
異世界生活は極めて順調と言える。そのはずなのに、恵麻には最近、誰にも言えない悩みがあった。
「ふぅ…」
エストが直接地方の視察に行くことも、最近は減ってきた。そのためここ1ヶ月ほどは、恵麻もエストも王都の屋敷で過ごしている。
だから体力的に疲れるようなことはあまりないはずなのに、最近、どうにも疲れやすい。
体調も良いとは言えない。食欲もあまりないし、寝付きも悪い。
「エマ様、どうかされましたか?」
今日はエストとは別行動で視察に出ていたため、護衛についてくれていたカミルが声をかけてくれた。
3年前の前大士との戦いのときの縁で、カミルはアーテナルド家、というより恵麻の護衛騎士となっている。
「ちょっと疲れただけ。すみません、心配掛けちゃって」
「いえ、それなら良いのですが…。お部屋までお送りします」
「すみません」
心配そうなカミルに部屋まで送ってもらい、キーラに着替えを手伝ってもらったあと、恵麻はベッドへとダイブした。
体調の変化は、2週間くらい前から薄々感じてはいたけれど、ここ数日特に酷い。
(…何かの病気…?)
恵麻は数年の経験で、治癒術に関してはそれなりの技術を持っている。
だから、多少の病気にも対応はできる。でも、自分の体を調べてみても、何か悪いところは見つかっていない。
元々、異世界で過ごしているのだから、未知の病気にかかる可能性は、大いにあった。だからちょっとした変化には気をつけていたつもりだったけれど、今回は原因不明だし、日に日に悪化している。
(…エストには、言えない)
エストは以前と変わらず、いや、むしろ年々加速する勢いで、恵麻を大事にしてくれている。
もはやそれはエストと恵麻を知るものなら誰でも知っているというくらい、有名なほどだ。
恵麻本人ももはや謙遜できないレベルで、エストは恵麻を溺愛している。
だから仮に恵麻が体調が悪いなんて知れたら、多分彼は全てを犠牲にして恵麻のことに心血を注ぐだろう。
でも、エストは今や国を支える柱のひとつなのだ。彼に公務をほっぽりださせるわけにはいかない。
「…自分で解決しないと」
うっかり恵麻が死んだりしたら、エストは後を追いかねない。何としても元気にならないと。
とにかく寝るにしても、支度をしなければ。
そう思い身体を起こした瞬間、ぐらりと目眩がして、恵麻はベッドからずり落ちそうになった。
「エマ!!!」
頭から落ちそうになっていたエマをギリギリでキャッチしたのは、エストだった。
どうやら今帰宅したらしい。
いつもなら素直に嬉しいと思うのに、今日はまずいところを見られた、という思いが強い。
「…エスト、ありがとう。おかえりなさい」
「ただいま…ってそれどころじゃないよ。エマ、顔色が悪い。どうしたの?」
「ちょっと疲れてて、目眩がしちゃっただけだよ」
「ちょっと疲れてるって顔じゃないよ。とにかく横になって」
「…ありがとう」
エマは大人しくベッドに収まった。
こうなったらお風呂は後回しにして、少し眠ろう。
「…最近、エマ、無理してない?あまり元気がないよね?」
「そんなことないよ。今日はたまたま、ほんとに疲れてただけだよ」
「そうは見えないよ。一度医者に診せたほうがいいと思う」
「大げさだよぉ、エスト。今日ゆっくり寝れば治るって」
「だめだよ、今医者を呼んでくる」
「大丈夫だってば!!」
自分でも驚くほど大きな声が出て、恵麻は青褪めた。
次いでなぜだか涙が溢れてくる。ポロポロと涙を流す恵麻を見て、エストはぎょっとした顔で駆け寄ってきた。
「え、エマ…!?どうしたの!?どこか痛い?」
「ち、違うの、ごめん、ごめんなさい、ううう」
恵麻はどうしたら良いのか分からなくなった。
最近、情緒も不安定なのだ。なんだか急に不安になったり、寂しくなったり、イライラしたりしてしまう。
「もうやだあ…」
「エマ…」
自分が情けなくて仕方ない。こんな姿を見せていたら、エストが余計に心配してしまう。
「…シェド」
咄嗟に、恵麻は旧知の仲の大精霊を呼んでしまった。
次の瞬間、ふわりと風が吹き、恵麻とエストの横にはシェドが立っていた。
「呼んだか?エマ」
「シェド、どこか、連れてって。静かなところ」
涙でぐずぐずになりながらそう言うと、シェドは心得たという表情でぱちんと指を鳴らした。
「エマ!!」
エストが悲痛な声で呼びかけてくるが、その次の瞬間には、恵麻はシェドと共に湖の畔にいた。
すでに日が落ち始めているが、周囲にある光る木と月明かり、それに光を放つシェドがいるので、暗くはない。
静かに輝く湖面はとても綺麗だ。
「…ここ、どこ?」
「王都の裏手の森だ」
「こんなきれいなところ、あったんだ。ありがとう…シェド」
勢いで大精霊のシェドを呼び、こんなところに来てしまった。自分の行動が自分でも理解できない。
それでも、穏やかな自然に囲まれて、少しずつ心が落ち着いてくる気がした。
「それで、どうした?エマ」
「最近…身体が変なの。体調が悪くて。でも、どこが悪いのかわからなくて...私は異世界人でしょ。だから、身体に抗体のない病気とかに罹っているのかもしれない。エストにはそんなこと、言えなくて…」
「ふむ」
シェドが恵麻に近付き、肩に触れた。そこからゆっくりと霊力を巡らせているのを感じる。
「…なんだ、病ではないぞ」
「えっ…本当!?」
「生命力を二人分感じる。そのせいだろう」
「え?」
シェドは何ということもないという顔をして恵麻の肩から手を離すと、珍しく恵麻の横にごろんところがった。
シェドは浮いていることが多いから、本当に珍しい。
「あの…?ごめん、どういう意味?」
「そのままの意味だ。エマの身体にもう一人いる」
「??」
「人は繁殖する時、子を胎内に宿すだろう?」
「繁殖…?」
恵麻はシェドの言葉をゆっくり、噛み砕いて理解しようとした。
身体に二人分の命。繁殖。胎内に、子を宿す。
「…え」
理解した恵麻の顔を見て、シェドはこれまた珍しく、ふっと笑った。
「父親にも知らせてやれ」
ああ、なんだ、そういうことか。
止まっていた恵麻の涙が、またもや溢れてくる。次から次へと、止む気配がない。
結婚して3年以上。当然、夫婦だから、夫婦生活はあった。それも多分、頻繁に。
それでも、二人に子供ができる気配はなかった。恵麻に原因があるのか、エストに原因があるのか、そもそも恵麻は異世界から来た人間だから、そういう理由でできないのか。
こちらの医療技術は、元の世界ほど進んでいない。だから、子供ができるかどうかに対して、治療法はなかった。
エストは、恵麻がいてくれればいいと、何度も言ってくれていた。エストが本心でそう言っているのは分かっていたし、恵麻も、夫婦二人でもいいと、納得していた。
でも、そうか。
ここに、いるのか。
恵麻はまだぺたんこのお腹にそっと触れる。先程までは気付いてもいなかったくせに、途端にそこに何かを感じる気がして、恵麻は愛おしさでいっぱいになった。
「…エストに…エストに言わなきゃ!!それに謝らないと…ごめん、シェド、元の場所に戻してもらってもいいかな」
「心配するな。もう来るぞ」
「え」
すると目の前の空気が揺れる気配がして、エストがふっと現れた。肩で息を切らし、顔色は青白く、額には汗が浮かんでいる。
相当無理をしてきたようだ。
「エスト!?」
「エ、マ」
「エスト、お前、エマへの執着ぶりに拍車がかかっているな。人の転移術だけでここまで来るとは、相当肝が座っている」
「転移術で来たの…!?」
普通、人が操れる転移術は数十メートル、長くて数百メートルといったところだ。
恵麻の家からここまで、恐らくだが数キロはある。エストは相当、無理をして恵麻を追いかけてきたのだ。
「エスト、大丈夫…!?」
「エマ…、エマ、私から逃げられると思った?…無駄だよ」
「もはや人ではないな」
シェドが本気で引いている。が、この事態を引き起こしたのは恵麻だ。恵麻は慌ててエストを座らせると、背中を擦りながら平謝りした。
「エスト、ごめんなさい。さっきは本当に、どうにかしてた。本当に、ごめんね」
「いいんだ。それより、どうしたの?何があったの?どこか、悪いの…?」
エストは震える声で問いかける。
恵麻はぎゅっとエストに抱きついた。
「ごめんね。実はここ最近ずっと、体調が悪かったの。疲れやすくて、食欲もないし、さっき急に泣き出したみたいに、気持ちも落ち着かなくて…」
「…エマに元気がないことは、気付いてたよ。少し痩せた。だから実は昨日、高名な医師を手配したんだ。明日診てもらえるはずだったんだけど、辛いよね?すぐにでも診てもらおう」
「違うの、エスト」
「まだ無理するつもり?」
「違うの。あのね、子どもが出来たの」
「………………え?」
「あの、私、妊娠してるんだって。さっき、シェドに言われて、分かったの。体調が悪いのも、そのせいだった」
エストは固まったまま、動かない。
あまりに動かないから、不安になった恵麻が思わず頬をペチペチと叩くと、エストはゆるゆると恵麻と目を合わせて、呆けたまま呟いた。
「…子ども?私と、エマの?」
「そうだよ」
「エマの、身体の中に、いるの?」
「いるんだって。ここに」
恵麻はエストの大きな手を、そっと自身のお腹に当てた。
膨らみもないし、当然動きもしないから、触ってもらってもわからないと思うけれど、何となくそうしてほしかったのだ。
「…っ」
エストは唇を震わせると、ゆっくり、壊れ物に触るように優しく恵麻を抱きしめた。こめかみや頬に何度も何度もキスしながら、震える声で囁く。エストは泣いていた。
「本当に?本当に、私達に子どもができたの?」
「うん。まだお医者様にも分からないほど初期だと思うけど、シェドが言うから、間違いないと思う」
「…ありがとう、エマ。ありがとう…」
「…赤ちゃん、来てくれたんだね…」
「うん…。ああ、こんな、こんな幸せなことって…」
しばらく恵麻とエストは泣きながら抱き合った。
が、エストは急に顔をあげると、焦ったように恵麻を抱え上げた。
「うわっ!?え、エスト!?」
「しまった、こんな地べたにエマを座らせるわけにいかない。すぐに戻って、横になろう。一応医者にも見せて、体に良い食事を用意して…あと…」
「え、エスト落ち着いて」
「いや、私は落ち着いているよ。とにかくエマの身体が第一だ。よく分かってる」
「いや、あの」
「シェドバーン様、申し訳ないのですが私ではエマを抱えた状態で屋敷に戻れませんので、戻していただけませんでしょうか}
「エスト!?」
エストはシェドにお願いをしたことはない。シェドが祝福を与えたのはあくまで恵麻なので、エストとは立場が違うのだと常々言っていたのだ。
「…まあ、エマのためだからな。今回だけだ」
「感謝いたします」
シェドも何となく今日は慈悲深く、恵麻たちを屋敷に戻してくれた。
大精霊を完全な個人のあれこれに巻き込んでしまった。後日シェドにお詫びをしようと、恵麻は心に決めた。
そこからはもう、大騒ぎだった。
まだ妊娠初期だから、安静にしなければと屋敷中の者が右往左往し、恵麻はベッドに沈められた。さすがにやりすぎだと言ったのだが、間もなく強烈なつわりに襲われた恵麻は、本当にベッドから動けなくなった。
つわりに苦しむ恵麻を、エストはずっと付き添って支えた。時折情緒不安定になって泣いたり眠れなくなったりする恵麻を、エストは嫌な顔ひとつせず受け止めた。多分この間、大士は機能していなかったが、恵麻も咎める余裕がなかったので、誰も何も言えなかった。
つわりが落ち着いた頃には、今度はお腹が大きくなってきていて、恵麻が階段を降りればエストが飛んでくるし、少しは運動せねばと歩いただけでもカミルやキーラが心配してついて回る騒ぎだった。
異世界人のため妊娠経過は恵麻も心配だったが、恵麻とエストの子どもは強く、順調に育ち。
臨月になる頃には、大きく育ちすぎて動くのも一苦労なほどだった。
そして、現在。
「エマ、ただいま」
「おかーさま、ただいまぁ」
「おかえりなさい、エスト、ルカ」
無事生まれた子は男の子で、ルカと名付けられた。わんぱく盛りの3歳児だ。
ルカは外見はどちらかというと恵麻に似たが、もちろんエストの血も受け継いでいて、3歳児にしてすでに美男子の片鱗を見せている。親バカかもしれないが、成長したらエストを超える可能性があると恵麻は思っている。末恐ろしい。
エストは息子をそれはそれは可愛がっていて、ルカが歩けるようになってからは、庭や近くの森で全力で遊んでいる。時には泥だらけになって帰ってくることもあって、使用人泣かせな二人だ。
ルカを育てるにあたって、エストと恵麻は乳母を雇わなかった。そもそも恵麻には乳母というものに馴染みがないし、家事の類は使用人がやってくれるのだ。仕事をしばらく休めば育児に専念できる環境だったので、皆に助けられながらも、ルカは主に両親の手によって育てられている。
「お庭は楽しかった?」
「うん!あのねー、こんなおっきなむしさんがいたんだよ!」
「そうなのね。虫さんにはちゃんとバイバイできた?」
「うん!」
「よくできました。じゃあキッチンに行って、おやつを食べようか。手を洗っておいで」
「はーい!」
ルカは素直で優しく、穏やかな子だ。
恵麻がポテポテと歩く息子を微笑ましく見ていると、エストが後ろから抱きしめてきた。
「私のことは褒めてくれないの?」
「あはは!エストはちゃんと虫さんとバイバイできた?」
「もちろん、できたよ」
「よくできました」
振り向くとエストは恵麻にキスをして笑う。いつものことなので、ルカも両親がくっついていることには慣れっこだ。
恵麻はもう30歳を過ぎたし、子どもを産んで体型だって出会った頃のままとは言えない。子育てをすれば意見のすれ違いもあるから、喧嘩をするときだってある。
それでも、エストはずっと、恵麻を大事にしてくれている。それは結婚してから変わっていない。ルカのことも深く深く愛していると思うけれど、恵麻のことはやっぱり、ちょっと心配になるほど愛してくれている。
猫になってこの世界に落ちてきた時には、まさかここで家族を持つなんて、想像もしていなかった。
「おかーさま、おやつなに!?」
「今日はサンドイッチ。エストも食べる?」
「懐かしいね、いだだこうかな」
この数年後、成長したルカに猫になる能力が遺伝していることが判明し両親の度肝を抜くことになるのだが、それはまた別のお話。




