59. エストの愛猫(後日談①)
間が空いてしまいましたが後日談です。ただの小話です。あと一話投稿します。
私はしがない男爵家の末娘です。
数日前から、大士様のお屋敷で使用人としてお勤めさせていただくことになりました。
大士様のお屋敷は、実は私のような働き口を求める貴族の娘には大層人気の職場です。
まず主人であるご夫妻のお人柄が穏やかですし、基本的にご自分のことはご自分でなさる方のため、仕事量が多いということもない。給料や休日などの待遇もかなり恵まれています。私にはよくわかりませんが、奥様が「職場はホワイトであるべき」という信条を掲げていらっしゃるとか。
しかしながらご夫妻の方針で使用人はごく少数しか雇われておらず、それも料理人や庭師などの専門職がほとんど。求人が出されることが少ないので、出た際には熾烈な争いが繰り広げられます。
私は貴族でも末端、ほぼ平民のようなものですので、まさかこんな高倍率の職場で雇っていただけるとは思いませんでした。
あまりの幸運に、未だに信じられない気持ちです。
しかし浮かれてはいられません。先輩侍女のキーラ様に仕事を教えていただきつつ、日々精進するのみ、です。
なのですが…
「エマ?どこにいるの?」
今日、旦那様と奥様は午前中は陛下との謁見のお仕事があったそうで、お昼すぎに屋敷に帰ってこられました。
ご夫妻はとても仲が良く、お二人を見ていると、私も年頃の娘としてはついつい結婚に憧れを抱いてしまいます。
そんなお二人ですが、今日は帰宅してすぐ、旦那様がお屋敷中を歩き回り、奥様を探しておられるのです。
確かに広いお屋敷、奥様の姿が見られない時もあるかとは思いますが…
「エマ?隠れてないで、出てきて?」
そう言いながら旦那様が探されているのは、先程からずっと、クローゼットの中やベッドの下、或いは浴室の棚の上など…。
凡そ人が隠れているような場所ではありません。
「エマ、ごめんね。反省してるから、顔を見せて。寂しい」
ついに旦那様は玄関ホールの真ん中に佇み、誰もいない空間に向かって寂しそうに語りかけてしまいました。
「…あの、キーラ様」
「なぁに?」
先輩のキーラ様は旦那様の姿を見ても特に何の反応も示さず、奥様の着替えを整理されています。
「旦那様は、奥様を探していらっしゃるんですよね…?」
「…ああ!」
私が恐る恐る質問すると、まるで今思い出したと言わんばかりの表情で、キーラ様は私を見ました。
「そうよね、貴方は最近来たばかりだものね」
「は、はい」
「ふふ。まあ、大丈夫よ。見ていれば分かるわ」
「はあ…?」
キーラ様は楽しそうに笑うと、また作業に戻られてしまいます。
見ていれば分かるとは、どういうことなのでしょうか。
私はひたすら困惑しながら、とりあえず掃除の仕事に戻るしかありませんでした。
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(…やってしまった)
私は少々気落ちしながら、愛する妻であるエマを探している。
事の発端は、今朝行われた陛下との謁見だ。内容自体は特に問題があるようなものでもなく、一通り仕事の話を終えると、陛下は時間があるなら昼食でも一緒に、と私達を誘った。
昼食の場には、国王夫妻に王太子、宰相夫妻が同席した。それと護衛の騎士が数人部屋に控えている状態だ。
エマはこういう場が苦手らしい。「ただの平社員が取締役会に同席させられている気分」と言っていたが、私にはちょっとよく分からない例えだ。でも、国の上層部と一緒に昼食をとるなんて、確かに楽しい場ではないだろう。
それでも、そつなく会話もこなし。
デザートも終わり、食後のお茶が出て、そろそろお開きという頃、私はエマの唇に、ほんの少しだがクリームがついていることに気付いた。
だから私はそれを自分の指で拭い、ついでに彼女にキスをした。唇に触れたことで、したくなったからだ。
その瞬間、エマの顔から首までが真っ赤になった。唇をわなわなと震わせ、目が潤む。そんな顔も可愛いなぁと思っていた私は、彼女を呑気に見つめていた。
「本当に仲が良いですな、ご夫妻は」
宰相夫妻にそう言われ、ハッと周囲を見廻したエマは、「お恥ずかしいです…」と蚊の鳴くような声で言ったあと、口を噤んだ。
そして、屋敷に帰るため馬車に乗り込もうとしたところ。通りがかった貴族の男女、恐らく兄妹だと思われるが、その二人が会話をしているのが聞こえた。
「お、大士夫妻だぞ。今日もご夫婦でご一緒なのだな」
「奥様もお仕事してらっしゃるから。でも、本当に仲良しよね」
「ああ。王宮では…というより、もう国中で有名だよな。お二人の仲の良さは。この前なんか王都で…」
決してからかうような口調ではなく、好意的なもの、または単純に事実を述べただけの口調だった。それに小声で、たまたま風向きで私達に聞こえただけだった。
が、そこで、エマが限界を迎えた。
「…もう、無理」
「え?」
「穴があったら入りたい!!」
馬車に座っていたエマの姿が、次の瞬間、不意に消える。正確には、彼女の着ていた衣服を残して。
「エマ!!」
猫の姿になったエマは脱兎のごとく(猫だが)駆け出して行ってしまった。
そして現在。私は猫になって隠れているエマを探している。
エマが屋敷に帰ってきていることは分かっている。彼女には追跡の精霊術をかけているからだ。ちなみにこれは彼女の了承済みだ。国を回る際、護身用として必要だったのだ。
それとは別に私の精神の安寧のためにも必要だったのだが。
でも、正確な位置までは分からないので、私は目ぼしい場所を探して回る。
クローゼット、棚の上、ベッドの下。
「エマ、ごめんね。反省してるから、顔を見せて。寂しい」
今日のエマはなかなかに気配を消すのが上手い。探し回っても見つけられなかった私は、仕方がないので情に訴える。
そういえば以前猫になったエマは庭の木の上にいたことがあったので、そちらかもしれない。
私が庭に出ると、エマはすぐに見つかった。まさかの芝生の上で堂々と寝ていた。
彼女いわく猫になると、耐え難いほど眠くなることがあるらしい。今回もきっとそうなのだろう。しかし、無防備である。
エマが猫になれることは、一部の親しい者と屋敷の者しか知らない。なので猫のエマを攫うような輩はいないと思いたいが、それでも心配だ。
「エマ」
声をかけてもエマは起きない。今日は暖かいので、芝生の上はさぞ居心地が良いだろう。
仕方がないのでエマを抱き上げ、私は私室へと向かった。
「旦那様、エマ様は見つかりましたか?」
「うん、今日は芝生で寝ていたよ」
「まぁ。庭師が芝生の触り心地に拘っていたので、その甲斐がありましたね。喜びます」
「庭師の力の入れ方がおかしい気がするね」
屋敷に入るとエマの侍女であるキーラが声をかけてきた。
猫のエマはそれはそれは可愛いので、屋敷の者は猫の姿のエマを大層可愛がっている。エマが猫になることはそれほど多くはないが、その時のためにと食事メニューを開発したり、専用のブラシや寝床を用意したり、うっかり誤飲しないようにと猫に害のある植物を撤去したり。
猫の姿でも中身はエマなのだから誤飲などないとエマが主張しても、使用人たちの態度は変わらなかった。
猫のエマを抱いてキーラと言葉を交わしていると、先日新しく雇った使用人が何か異質なものを見るような目でこちらを見ていた。
そうか、彼女はまだエマが猫になることを知らないのだろう。あとでキーラが説明してくれるに違いない。
私は私室に入ると、エマを膝に乗せた状態でベッドに腰掛けた。しばらく彼女を撫でていると、ピクリと髭が動き、彼女が目を覚ます。
「…ふにゃ」
「起きた?エマ」
エマはパチパチと目を瞬くと、驚いた様子で膝から逃れようとした。私はそれを抱きとめて、やんわりと阻止する。
「猫になってもいいけど、急に飛び出さないで。馬車に轢かれたらどうするの?」
「…ごめんなさい」
エマはしょんぼりと項垂れる。その姿がまた、可愛い。
「私もごめんね。エマが恥ずかしがることは分かってたのに、つい癖で」
「うん…」
私は確かにスキンシップが多めだし、自他共に認めるほどエマを溺愛している。だが、非常識なほどベタベタしているわけではない。
この国では夫婦や恋人なら外でも軽くキスをすることはあるし、抱きしめたり愛の言葉を言うのも変なことではない。
だから私も、まぁ多少やり過ぎな面はあるかもしれないが、外や人前でも愛情表現はしたいときにしていいと思っている。
だが、エマの故郷では、人前でキスなどしないらしい。抱き締めることも、あまりないと。外でできるのは、手をつなぐくらい。
エマと価値観の違いで揉めたことは意外なことに少ないのだが、これに関してはかなりすり合わせが必要だった。
人前でなければ問題ない。抱き締めてもキスしてもそれ以上をしても、エマが嫌がったことはほとんどない。
でも人前ではだめらしい。最近ようやく屋敷の者の前では過度でなければ良いと許可が下りたが、仕事関係者は特に恥ずかしいらしく、こうしたやり取りは何度かしている。
まぁ、私としてもエマのあの甘やかな顔は他人に見せたくはないが。でも可愛い、愛してると思えばつい衝動で動いてしまうのだ。
「この国ではエストの方がスタンダードって、分かってるんだけど。20年以上持ってきた価値観はなかなか変えられなくて…」
「うん、そうだよね」
「せめて、王宮ではやめて欲しい。恥ずかしすぎていたたまれない」
「善処するよ」
私はエマの額にキスを落とす。猫のエマは毛並みが良くて肌触りが抜群だ。
でも、今は人間のエマに触れたい。
「ね、エマ。ここでは二人きりだよ。キスしたいから、そろそろ人間に戻ってほしいな」
「…そうだね、じゃあ、着替えもあるからちょっと待ってて」
「ここで戻ればいいよ」
「良くないでしょ。今戻ったら全裸だし」
「うーん、いいんじゃないかな。手間が省けるし」
今日の予定はもう終わりだ。このあとは夫婦でゆっくり過ごしても、バチは当たらないだろう。
「…すけべ」
「すけ、何?」
「何でもない!」
エマはヒョイッと私の膝から飛び降りると、こちらを振り向く。
「着替えてくるから待ってて!」
「ふふ、分かったよ」
エマはトコトコと隣の部屋へ着替えをすべく歩いていった。
後日、新人の使用人がやたらと熱心に棚の上やクローゼットの床部分を掃除していたので、私は不思議に思い大掃除なのかと声をかけた。
「エマ様が汚れてしまっては大変なので」
いたって真面目な顔でそう言われてしまい、私は苦笑するしかなかった。




