56. 飼い猫は妻になりました
エストと恵麻の結婚式は、ごく小規模にひっそりと行われた。
この国は精霊信仰なので、教会のようなものは存在しない。結婚式というより披露宴に近く、関係者を集めて夫婦になることを宣言して、楽しく飲み食いするだけだ。王族や貴族だと、本当はもっと色々しきたりや行事があるらしいが、エストは伯爵位を持っているにしても恐らく一代限りで、爵位の放棄が決定している書類上の両親とも付き合いがない。平民みたいなものだからと煩わしいところは全てカットしたらしい。
恵麻に至っては天涯孤独の身だ。
恐らくエストは恵麻の心情を慮って、親しい者だけを招待した式にしてくれたのだと思う。彼の気遣いは、とても有り難かった。
式は公爵邸の大広間を借りて行われた。
公爵家の面々と、エストの仕事仲間が数人。恵麻は表向き、異国から来た娘ということになっているが、恐らく精霊の加護持ちということもあるのだろうけれど、皆恵麻の存在を笑顔で受け入れてくれた。きっとそういう人しか、エストが招待しなかったのだと思うけれど。
さらに精霊が会場内をふわふわと漂い、最後はシェドまで顔を出して、何とも楽しい式となった。
まさか異世界で結婚することになるとは、人生なんてどうなるかわからないものだ。
「よし、これでおしまいかな」
「やっと…つ、疲れたーー!」
式から数日かけて、エストは恵麻との結婚の書類、恵麻の身分に関する書類、精霊塔に所属してエストと共に諸国行脚の旅に出るための諸々の手続き…等々、全てを揃え、恵麻はそれを一生懸命読んだりサインしたりしていた。
なにせ恵麻は文字をほぼマスターしたとは言え、難しい書類は読み込むのが難しいし時間もかかる。エストにだいぶ助けられて、何とか処理を終えたのだった。
エストは書類をトントンと揃えると、一枚の紙を大事そうに額縁に入れ始めた。
「エスト、それは?」
「結婚証明書だよ。ほら」
そこにはエスト・アーテナルド、エマ・アーテナルドと名が書かれており、エストの美しいサインと、恵麻のぎこちないサインがされていた。
「…これ、飾るの?サイン下手で、恥ずかしいんだけど…」
「飾るよ。エマのサイン、可愛らしくて私は好きだよ」
「子供の字みたいってことでしょ、それ」
こちらの文字はどうにも書くのが難しく、みみずがのたうち回ったみたいな恵麻のサインはどう考えても飾って良い代物ではない。
でも、エストがとてもうれしそうに眺めているので、恵麻はそれ以上何も言えなかった。
「…アーテナルドの名には思い入れも何もなかったけれど、こうなると、良いね。すごく大事な名前になったよ」
「ふふ。それなら良かった」
「…エマの名前、元はハヅキエマっていうんだよね?」
「そうだよ。っていうか、よく覚えてたね…名字まで名乗ったの、一度だけだったと思うのに」
「エマに関することは忘れないよ。…ねえ、エマ。エマの元の世界の文字で、ここにサイン、入れてくれないかな」
「え、ここに?そんなことしていいの?」
エストが指さしたのは、ミミズがのたうち回っている署名欄の横だ。大事な書類に書き込んで、良いのだろうか。
「これはもう、私達で保管するものだから、大丈夫。エマはこの国の文字を、覚えてくれたでしょう?せめてエマの名前くらい、私も覚えたくて」
「え…いいの?」
「もちろん」
日本語を書くのは、とても久しぶりだ。
恵麻は少し緊張しながらも、結婚証明書にもう一つ、名前を書き入れた。
『葉月恵麻』と。
「すごくきれいな文字だね。まるで芸術みたいだ」
「えへへ。そうかな?私も自分の名前は気に入っているんだ。両親がくれた贈り物だし、字面が良い」
「そうだよね。…そういえば、ラナ、はどう書くの?」
「え…、ラナかあ。漢字は変だし…カタカナでこう、かな?」
恵麻は捨てる予定の紙を拾い、そこに『ラナ』と書き入れた。
「…全然違う文字だね」
「こっちは漢字、これはカタカナっていうの。あとひらがなもある」
「一つの言語に三種類も文字があるの?」
「そうなの。結構難解な言語かもね」
「これは大変だな…もし私がエマの世界に行ったら、まず言葉で苦戦するな」
「私もなぜか口語は通じたから何とかなってるだけだよ…。それにもしエストが私の世界にきたら、きっとすぐモデルとか芸能人になってバリバリ生きていけちゃうと思うよ」
「モデル?ゲイノウジン?」
「えーと、こっちでいう劇団の目玉俳優さんみたいな」
「私が?はは、無理だよ!向いてない」
「向いてる向いてないと言うより、顔面国宝だからな…」
「なにそれ?」
「ううん、何でも無い」
ふと窓の外を見ると、もう暗くなり始めている。
「今日の夕食は、部屋でとろうか」
「良いの?」
「お願いすれば大丈夫だよ。休みもあと2日しか無いんだ。ようやく手続き関連も全部終わったし、私はここから全力でエマを堪能したい」
「堪能って」
エストは結婚のため、忙しいにも関わらず1週間の休みをもぎ取ってくれた。
結婚式から今日まで、何だかんだとやることが多く、確かにのんびりは出来ていない。
「休みが明けたら、本格的に旅することになるわけだし。二人きりの時間を堪能したいって思うのは、私だけ?」
「それはもちろん…エストだけじゃないよ」
恵麻が答えると、エストは嬉しそうに破顔して恵麻を膝に乗せた。
エストと想いを通じ合わせてから、実感したことがある。
エストはいつもニコニコというか、穏やかな表情をしている。常に口角が上がっている感じだ。
でも、恵麻といる時に見せる笑顔とは全然違う。前からそんな気はしていたけど、最近は特にそれが顕著だ。
そしてその笑顔を向けられるのが自分だけだという状況を、ひどく気に入っている自分がいる。
(私も大概、面倒な女なのかも)
恵麻はエストの笑顔を至近距離で見つめた。
作り物のように完璧なこのご尊顔も、笑えば目尻に皺がよる。近くで見ないとわからないから、多分、それを知っているのは恵麻だけ。
「…どうしたの?エマ」
「ふふ。何でも無い」
一人ニヤニヤする恵麻を、エストは不思議そうに見つめている。うん、こういう顔も可愛い。
いちゃつく二人を察しているので、屋敷の者は誰も、二人の部屋には近づかない。
二人の夜は静かに、ゆっくりと更けていった。
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