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35. 元の世界





元の世界に、帰りたいか。



弾んでいた会話が急に止まり、風が庭に咲き乱れる花をサワサワと撫でる音が鮮明に聞こえた。




元の世界のこと。

何となく、避けていた話題だったと思う。





エストは真剣な顔でこちらを見ている。

恵麻はまだ手元に残っていたサンドイッチに視線を落とした。



「…うん、それもあるよ。代替わりが終わったら、私自身がどうなるのか、教えてもらってないから。普通に考えると、そのためにこちらに呼ばれたわけだし、目的を達成したら、帰ることになるのかなぁとは、思ってるけど…」

「…ラナは、帰りたい?」



エストが絞り出すように聞いてくる。

恵麻は心臓が掴まれたように痛む気がして、面白くもないサンドイッチの具に焦点を合わせた。



「…そうだね。この世界のことは、好きだよ。でもやっぱり、帰るべきだと思う。あそこは私の生まれた場所だし…、代替わりが終わったら、私はこの世界で何者でもなくなっちゃうから」



そこまで言うと、エストがそっと、恵麻の手に彼の手を重ねてきた。



「私はラナに、ここにいて欲しい」

「エスト」

「勝手なことを言っているのは分かってる。でも、いてほしいんだ」




恵麻は別に才女でも何でも無いが、もう大人だ。特別鈍感なわけでもない、それなりに色々と経験を重ねてきた、立派な大人。

だから、エストが特別、恵麻を大事にしてくれていることは、ちゃんと分かっている。



女性として愛されているとか、そういうことなのかは、正直わからない。だってずっと、恵麻は猫だった。エストが恵麻を特別扱いしてくれているのは、なにも人間に戻ってから始まったことではない。猫の時からずっと、エストは恵麻を大事にしてくれていた。



だから彼の思いを、恋愛感情だとか、そういう括りにして良いのかは分からない。

それに、エストに比べ、恵麻は見た目も中身も非凡というわけではないのだ。恵麻とエストは出会いからして特殊だし、エストは相棒という言葉をよく口にするから、恋愛とかではないパートナーという意味合いな気もしている。




いずれにせよ、エストが恵麻を大事に思ってくれているならば尚更、恵麻はハッキリと伝えるべきだと思った。



「エスト、ごめんね。帰る方法があるなら、私は帰りたい」

「ラナ」

「エストがそう言ってくれるのは嬉しい。本当だよ。エストのことは本当に本当に、大事に思ってる。この国の風景も、町並みも、料理も、可愛い精霊も、好き。シェドはちょっとよくわからないけど、不思議な存在と共存しているこの国は素晴らしいと思う。でもね、やっぱり私はどうしても、異分子なんだよ」

「異分子?」

「情けないけど、私、結構弱い人間なんだ」


恵麻はエストの手をそっと握り返しながら言う。


「元の世界ではね、私、両親を早くに亡くして、親戚のところで育ったの。本当の子供じゃないから、捨てられないよう必死だった。生きていく地盤が欲しくて、周りの期待に応えられるように、そればっかり考えてた。好きでもないこと必死にやって、本当に息苦しい生活だったなぁ」


恵麻は苦笑した。振り返ると本当に、なんとつまらない人生だったのだろうか。


「こっちに来て、人どころか猫になっちゃって、でも何にも縛られない自由な生活して、エストと出会って…大変だったけど、本当に楽しかった。もちろん、今もね。不可抗力だったけど、ここに来てよかったって思ってる」

「…それでも、ラナは元の世界に帰りたいの?」



エストの手が冷えていく。

彼を傷つけたいわけではない。断じて無いのだ。でも、恵麻はもう大人で、だからこそ、怖い。



「言ったでしょう、私は情けない人間なんだって。ずっと自分の足場が欲しくて必死こいてた人生だったから、住む場所も、お金も仕事も、友達も、社会保障も、戸籍さえ…何も無いっていうのは、やっぱり怖い。私はここだと、顔立ちも違うし、文字は読めないし、常識も感覚も違う、異分子なんだ。元の世界での生活は大変だったけど、でも、私なりに頑張って得たものがたくさんあって…だから、それを捨てる勇気がないんだよ。ごめん」



これは本心だった。

もしこちらで生きていくことを選んだら、恵麻が向こうの世界で築いていたものを失うことになる。

後悔もあるし、充実した毎日を送っていたわけじゃない。仕事だって、帰れたら転職しようと思っているくらいだし。

でも、だからといって何も持たない、縁もゆかりもない異世界での人生を選ぶ勇気は、恵麻にはなかった。

若くて健康なら何とかなるかもしれない。でも、怪我や病気をしたら?何かあるたびに、エストを頼って生きていくのか?



恵麻はエストを大事に思っている。だからこそ、彼の負担になりたくない。頼らなければ生きていけないなんて、フェアじゃないのだ。





しばらくの沈黙の後、エストはそっと恵麻の手を離した。

それを寂しく思う資格は、恵麻にはない。



「分かった」

「えっ」

「それは、そうだよね。国どころか、世界が変わるんだから…そう簡単に決められないよね。困らせてごめん」

「う、ううん。私こそ、ごめん」

「ラナが謝ることじゃないよ。シェドバーン様に会ったら、ちゃんと聞こう」

「…うん。これで帰れませーん、なんて言われたら、どうしようって感じよね」

「その時は私がなんとかするから、ラナは安心してていいよ」



エストはすっかりいつもの調子でニコニコと笑っている。

てっきりもっと悲しそうな顔をされるかと思っていたので、少し拍子抜けをしつつも、恵麻は安堵した。



(そうだよね、エストもいい大人だもん。きっと理解してくれたんだ)



「あ、でも、一つだけ聞いていいかな」

「うん、何?」

「ラナは元の世界に、恋人がいた?」

「えっ?恋人?」

「そう。帰りたい理由に、それもあるのかなって」


エストは相変わらず笑顔だが、なんだかいつもよりも迫力を感じる。

恵麻は知らず、ごくりと喉を鳴らした。


「いない、よ。帰りたい理由は、それじゃない」

「そっか」


恵麻は何故か冷や汗をかきながら、残っていたサンドイッチを口に入れた。

時間の経ったそれはパサパサで、お世辞にも美味しいとは思えなかった。





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