2. 目が覚めたら、猫でした
どれくらい気を失っていたのだろうか。
恵麻は意識が浮上するのを感じ、ゆっくりと目を開けた。
横を向いている体勢で倒れていたのか、草や木の生い茂る森が視界に映る。
(私、確か、山道を滑落したんだ…)
結構長い時間転がっていた気がするし、コースをかなり外れてしまっただろうか。
携帯は圏外だったし、平日の昼間で周囲には人気もなかった。
学生時代の友人には今日山に行くことを雑談ついでに伝えていたが、毎日連絡を取るわけでもない彼女が恵麻が帰らないことに気付く可能性は低い。
(…とにかく、自分でコースに戻らないと)
恵麻は痛むはずの体を起こす。が、不思議と痛みは感じない。
その代わり、体に違和感を感じた。
何というか、上手く立ち上がれないのだ。
(まさか、打ちどころが悪くて、下半身が動かない…?!)
恵麻は慌てて足に目を向けた。
幸い足に力を入れると動くので、立ち上がれないのは何か足に不調があるためでは無さそうだ。
(………は?)
それよりも何よりも衝撃的な光景が、恵麻の目に映る。
自分の足だと認識しているそれは、どう見ても、白い毛がふわふわに生えた、動物のものだったからだ。
恵麻は何度も瞬きをした。何度も、何度も。でも目の前の光景は変わらない。
恵麻は更に目を擦ろうと、腕を上げる。
そしてその腕も同じように、柔らかそうな白い毛に覆われた、動物のものだと気付いた。
「……………………」
どれくらい固まっていたのか分からないが、とにかく恵麻は長い間フリーズしていた。
(…………は?!?!)
恵麻は事態を飲み込めないまま、慌てて全身を見回す。
そしてその全てが白い毛に覆われた、動物になっていることに気付いた。
手だと思っているものには肉球が付いており、恵麻の知る限り、それは猫のものにそっくりであった。
鏡がないので分からないが、顔に手を当てると同じようにもふもふの感触。耳は顔の横ではなく上に。鼻は湿っていて、口を開けると牙が2本、生えている。
(…………きゃーーーーっ!!)
「……………ふみゃーーーーっ!」
恵麻は絶叫したが、口から出たのはどう聞いても動物、中でも猫に酷似した鳴き声だった。
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恵麻が謎の現象に見舞われてから、恐らく一週間ほどが過ぎた。
あの後恵麻はパニックになり、ほぼ半日森の中を駆け回った。
驚いたのはその体力と、運動神経だ。少し休憩すれば長時間動き回れたし、あり得ないほどの高さまで跳躍できるし、足も速い。
そうしてしばらく森を彷徨い、恵麻はついに川を見つけた。喉が渇いて限界だったので駆け寄り、そこで恵麻は現実を見た。
水面に映る自分は、どう見ても、猫だった。
真っ白く、長さは長毛種と短毛種の間くらいのもふもふの毛。
瞳はまん丸。柄はなく、なかなかの美猫だ。
「…ふみゃみゃ」
声を出すと、可愛らしい鳴き声が出る。
何が起きたのか、全く、わからない。
分かっていることは、恵麻は山道を滑落し、恐らく頭を打って気絶し、目が覚めたら猫になっていたということだ。
恵麻はその後長い時間をかけて、自分は夢を見ているのだと結論付けた。
喉も乾くしお腹も空くし、痛みも感じるが、きっと夢だ。でなければおかしい。こんなこと現実に起きるはずがない。
というわけで、目が覚めるまで、恵麻は猫として森で生きることになった。
差し当たっての問題は食料だった。
水は川を見つけたので何とかなっている。しかし水だけでは、さすがにお腹が空く。
恵麻は今、猫だ。
だがしかし、どうしても生き物を狩ってそれを生で食す勇気がわかず、恵麻は結局木の実や果物で生き長らえることを選んだ。
猫になった影響か、嗅覚がかなり洗練されており、匂いを嗅げば有害かそうでないかの判断がある程度ついたのは、かなり有り難かった。多少失敗して、胃が痛くもなったりしたが、それで済んだのだから幸運だろう。
次の問題は、ここはどこなのか、である。
恵麻は確かに山にいた。しかし歩き回るうち、恵麻が今いるこの森が、恵麻がいた山と同一とは、どうしても思えなかった。
まず、どう見ても森の様子が変だ。
変、と言っても不気味だとかそういうことはなく、むしろこの森は美しい。
木々はどちらかと言うと白や薄緑っぽい、色素が薄いものが多く、そこに鮮やかな赤や黄色の木の実が実っている姿はとても幻想的だ。
中には夜になると光る木なんかもあり、はじめは驚いたが今では夜間の光源として有り難く使わせてもらっている。
その他生えている花や草にも、見たこともないようなものが多い。恵麻は別に植物に詳しいわけではないが、それでもどう考えても違和感を抱く程度には、この森はおかしかった。
そしてもっと驚いたのは、見たことのない生き物がいることだ。
幸い猛獣の類には今のところ会っていない。恵麻が頻繁に会うのは、やはり見たことはないが可愛らしい、鹿っぽい生き物や兎っぽい生き物、リスっぽい生き物など。
そして、何というか、どう見ても、妖精っぽい何か。
それは猫になった恵麻より小さいか同じくらいのサイズで、人のような姿をしているが肌の色が薄い青や緑に近く、そして背中に羽が生えている。
性別はよくわからない。だが皆可愛らしく、よく笑う。
意思の疎通は、多分できない。
恵麻も今は猫なので喋れないが、彼らも言葉、というより声を出さない。
もしかしたらイルカのように、超音波的な何かでコミュニケーションをとる生き物なのかもしれない。
とにかく恵麻はそんな不思議に溢れた森で、木の実を食べ川の水を飲み、時々水浴びをしては安全そうな木の上で寝る。
そんな生活を送っていた。
はじめは日数の経過を知りたくて夜の回数を数えていたが、それも億劫になってきた頃。
段々と猫の体にも慣れ、いつ戻れるのか、夢は覚めるのかという不安を抱えながらも、恵麻は少しずつ、猫生活を楽しみ始めていた。
美しいこの森で、好きな時間に起き、好きな場所に行って、好きなように過ごす。
確かに孤独だし寂しいが、人として必死に生きていたあの頃に比べると、余程自由な生活だ。
(私、本当に疲れてたんだな)
猫生活を楽しんでしまうくらいに、人間だった自分は追い詰められていた。
恵麻はそう気付いた。
(…でもやっぱり、手がないと文字も絵も描けないし、話し相手がいないのは残念。こんなに幻想的な風景ばかりなのに)
時間はいくらでもあるのに、どこを見渡しても美しいこの森や森の住人たちを書き残したり、誰かと感動を共有できないのは、ひどく残念だった。
一体この状況が何なのか分からないが、でも、悲観してばかりでは精神が保たない。
せっかくなら穏やかに過ごそうと、恵麻はある程度割り切って生活していた。
今日も今日とて安穏とした時間が流れていた森に、ある日初めて聞くざわめきを感じた。
猫となった恵麻は、聴覚も優れている。確か猫は、人間の8倍だか10倍だかの聴力を持っていたはずだ。
のんびりと木の上で昼寝をしていた恵麻は、遠くからガシャガシャ、ドスドスと足音のようなものが近寄ってきているのに気付いた。初めての感覚に、背中の毛が逆立つのを感じる。
(怖い…!)
恵麻が木の上で縮こまっていると、しばらくして十数人くらいの人達が走ってきた。
皆、鎧をつけており、帯剣している。
まるでファンタジー漫画に出てくる姿だ。時間もお金もなかったから、図書館で息抜きに読んだ漫画は大事に味わったのでよく覚えている。彼らの格好はまさに、漫画に出てくる騎士だ。
(どういうことなの…?!)
まさかこんな森の中でコスプレ大会はないだろう。
それに何より、彼らの髪の色が、青だったり赤だったり、あり得ない色彩なのだ。あまりにも自然で、染めたようにも見えない。
「探せ!この森に逃げ込んだはずだ!」
「見つけ次第斬り捨てろ!生死は問わんとの命令だ!」
男たちは何やら物騒なことを叫びながら周囲を練り歩く。
彼らの放つ言葉は明らかに日本語ではなかった。それなのに、恵麻には言葉の意味が理解できた。
猫になってからというもの、身に起こることが不思議すぎて、もはや許容範囲をとっくに超えている。
恵麻は思考を放棄した。
(それにしても、やっと会えた人間なのに…)
恵麻はずっと、人に会いたかった。
猫生活は気楽だけれど、ここがどこなのか、何が起きているのか知りたかったし、何より孤独だったから。
でも彼らに近寄る勇気はない。それに彼らは美しい森を踏み荒らしており、この森に愛着がわき始めていた恵麻はとても腹がたった。
騎士は物語では味方だったり高潔だったりするが、こいつらはきっとろくな奴らじゃない。
しばらく周囲を踏み荒らした彼らは、お目当ての人物がいないことを確認したのか来たときと同じように帰って行った。
恵麻はたっぷりと間を開け、安全を確認してから木を降りる。
久しぶりの刺激に動揺したからか、喉が渇いた。
いつもの川辺で喉を潤し、ふと川辺にある大きな岩陰を見ると、何やら見慣れないものが落ちている。
(…ん?)
いや、物じゃない。あれは…
「ふみゃっ!!」
(人だ!!)
川辺に倒れていたのは、人だった。




