1. そうだ、山に行こう
新連載始めます。前作より長めになりそうです。
宜しくお願い致します!
「疲れた…」
葉月恵麻、24歳。恵麻は今、リュックを背負って、人気のない山道を登っている。
恵麻は一応、名前を聞けば誰もが知っている、国内有数の大手メーカーに勤めているOLだ。
仕事は正直、楽しいとは言い難い。
大手企業とは名ばかりで、昨今の不景気もあり、恵麻の職場は人手を限界まで減らして回していた。一人、二人と人員が減り、補充はなく、気付けば深夜残業が必須になる程度には、職場はブラックの体を成していた。
おまけに最近異動してきた上司がセクハラ野郎で、若手社員はことごとく被害にあっていた。中でも恵麻は一番若く、抵抗されないだろうとでも思われたのか、最も被害にあっている。
数日前もそうだった。残業で残っていた恵麻にニチャニチャした笑顔で近寄ってきた上司は、当たり前のように恵麻の尻を撫で、あろうことか「今夜…どう?」とまで言い放ったのだ。
あの場で上司の股間を蹴り上げた恵麻は、悪くないだろう。むしろ褒めてもらいたい。
だがしかし、上司に手を上げてしまったのは事実。
翌日出社すると恵麻は暴力女のレッテルを貼られ、あることないこと噂され、事情をよく知らない他部署の人間からは白い目で見られた。
セクハラ被害に遭っていた若手社員からは同情の目を向けられたが、だからといって助けてくれるわけでもなく。
皆が憧れるような有名企業にだって、時代に追いついていない暗部は多数あるのだ。
明らかに嫌がらせと思われる量の仕事を振られるようになり、遂に恵麻は昨日、何かの糸が切れた。
「…そうだ、山に登ろう」
幼くして両親を亡くした恵麻は、代わりに養父母となってくれた叔母夫婦に迷惑をかけないよう、とにかく優等生街道をひた走ってきた。
公立の進学校に通い、国立大学を出て、有名企業に就職する。
叔母が望んだ生き様だ。
本当は、机にかじりつくよりも、自然の中で過ごすことが好きだった。忙しい日々の合間を縫って、山や海に出向き、ゆっくりと本を読んだり時には絵を描いたり。それが、恵麻の至福の時間だった。
でも、特別勉強が得意なわけではなかった恵麻にとって、自分のやりたいことに時間を割くのは難しかった。それよりも、周りに満足してもらえることを優先した。
今、分かった。自分の人生を生きるのは自分で、誰も責任なんてとってくれない。
私は、間違えたのだ。
もう良いだろう、よく頑張った方だ。
恵麻はろくに受け入れられたことのない有休申請をし、上司の返答を見ることもなく、職場を後にした。
今、彼女は山に登っている。
標高もそこまで高くなく、高齢者がハイキングを楽しむような小さな山だ。
平日の昼間のせいかすれ違う人も少なく、恵麻はのんびりと山に登っていた。
久しぶりに感じる山の空気は澄んでいて、恵麻はそれを胸いっぱいに吸って歩く。
だが、なんだか想像していたよりも道程が長い。疲れるようなコースでも無いはずなのに、段々と息が上がってきた。
「…疲れた」
思わずぼやく。最近働き詰めだったから、体力が落ちているのだろうか?
歩けども歩けども見えてこない、順路を示すはずの看板。
急に不安になった恵麻は、とにかく休憩しようと少し拓けた場所で荷物を降ろし、携帯を取り出した。山の上とはいえ観光地化された山だ。普通に電波は来ているはず。
「は…?」
恵麻はスマホを見て驚愕した。そこには圏外、と記されている。
「は?なんで?え?そんな、標高も高くないのに…?」
明らかな異常事態に動揺した恵麻は、慌てて荷物を背負い直すと来た道を戻る。
良く分からないが、これ以上ここにいてはいけない気がしたからだ。
足早に山道を下っていると、動物でもいたのか、直ぐ側でガサッという音がした。
「わっ…!」
不安になっていた恵麻は必要以上に驚き、飛び上がる。はずみで足元の石に蹴躓き、よろめいた恵麻は、緩やかな脇道を転がり落ちた。
ガザザザ、という音が耳を掠め、大した傾斜でもないはずなのに恵麻の体は転がり続ける。枝や石が当たってそこかしこが痛い。
「…痛っ…っ!」
どんっ!
叫び声も出せず転がり続けた恵麻は、急に後頭部に衝撃を感じた。
霞む視界、冷えていく体温、痺れる指先。
(うそでしょ…)
起き上がろうにも力が入らず、意識が遠のいていく。
そうしてそのまま、恵麻の意識は暗転した。