オムライス
私は昨晩、あなたとキスをした。
……あなたのキスはそう、暖かくて優しくて、そして懐かしかった。
雪が溶けてきて、春の季節替わりで風が強いなか、あなたは私の左手を引いて夕食に連れ出した。
私が夕食を作るのを「めんどくさい」と口にしたばかりに、あなたは私を引っ張った。あなたがどんな気持ちだったのか判らないけれど、私には人として食事を作る義務があるし、あなたを迎え入れる余裕を作っておかなければならない。あなたの健康に気遣って食事バランスを考えなきゃいけないし、私とあなたのやりくりでどうやりくりをするか決心していかなければならない。私はあなたに値するようにおめかしをする。これは私なりのドラマや家族や社会から学んだ教訓である。だから私は妙に……あなたが右手を動かしたとき、目を閉じて覚悟した。
ファミリーレストランに入った時、あなたは無邪気な子供のように辺りを見渡してソワソワし始めた。
あなたのその時の素振りは、まるで私に隠し事をしているようだった。だけどそれは私の思い違いであって、あなたはただ恥ずかしかったのだと知った。店員さんにオムライスを注文したときには、私の肩がピクッとなって生唾を飲んだみたいだけど今なら解る気がする。
子供たちを寝かし付ける時間だからなのか、お店にはお客さんが点々としかいなく、店内BGM以外は静かだった。
落ち着いてるともお洒落とも何とも言えない、甘いようなBGMが私の胸の隙間に入り込んでくる。
せっかくだからと注文したセルフドリンクも、お互いはまだ口ひとつも付けずに氷だけが溶けていく。だけどまだ暖房が付いているお陰で、コップが汗をかいている。これもいま思えばあなたも同じだったんじゃないかって想うーーーー。
オムライスを運ばれた時に、あなたはようやく話をした。
「無理させてしまっていたね。」て。
よくは判らなかったけれど、私は思わず目に手を当てた。手を拭いた以外に濡れたものは触っていないはずなのに、水分的な何かが肌を触った。あなたの大好きなオムライスが滲むなんて、あってはならないと顔を俯かせた。それでも溢れてくる何かに戸惑いを感じながら、微かに聴こえるあなたの声を頼りに心を前に向かせた。
あなたは続けて口にしてくれた。
「パートナーとして、追及させるつもりはなかったんだ…キミが一番懸念していたことだったのに。オレは口にしないといけなかったんだ、オレがやる。オレにもする権利がある。と…。そうさ、いつもオレが帰る頃には、平然に笑いながら片付けているキミがいた。
ごめん、平然じゃないよな。
…もう、義務のようにキミは行動していた。
…今日こそは手を抜いて貰おうって帰ると、キミはオレのピークを知ったからかオムライスを出して笑っている。ちがう、そうじゃない。」
下を俯いている私なのに、あなたの顔が判るぐらいに表情が読める。そして何より私自身が私自身を大事に出来ていなかった…。あなたの声は、あなたが打ち込んでいたスポーツの時のように逞しくて真っ直ぐで、そして愛おしい。
あなたはそのまま語り続けた。私が作るオムライスは、私が家事をする結果は、全てにおいて狂いはなく遊びがソコに無かったこと。そう私はあなたの機械にしかなっておらず、あなたが愛してくれた私らしさを棄てていた。
そう……
私が『めんどくさい』と口にして始めて、私の殻を破ることが出来た。そしてあなたとの距離を縮めることが出来た。こんな一言で?と家族や知人や同僚に言われるかもしれないれど、私と一緒に居たいと想うあなたがまだ居てくれたことで気持ちが深まった。
私はいらない荷物を勝手に背負っていた。
あなたは優しかった。
そしていまも、相も変わらず。
私が好きだったシーフードスパゲティが目の前に運ばれてきたとき、始めて私は涙を涙と認めた。まだお揃いでオムライスを並べてたときには、自分の気持ちが隠れていて見えなかった。
あぁ、ここで純文学的な語りをするならば卵はあなたでご飯は私。色んな具材であなたを支えて来たけれど、本当の私は以外にも真っ赤でご飯の良し悪しで、主役の位置が決まる。もちろん卵の色や固さもソースも肝心だ。だけど卵の良し悪しが決まるのは私のさじ加減であり、あなたは私を必要とする。なぜなら私も居て、はじめてオムライスなのだから…。
だからシーフードスパゲティを運ばれたとき、私は私のために涙が溢れてきた。このアサリのように私は殻に閉じ籠っていて、潮干狩りがあれば人に合わせてホイホイと流されてきた。イカのように時間が経って弾力をつけてくるけれど、それが時に頑固さとなって顎が疲れてくる。なんなら腰を曲げてウヤムヤ生きている私なんて、縁起の良いエビのように素晴らしくない。そんな私をひとまとめにしたようなこのスパゲティは人生そのもの。母が私の看病のために作って貰ったこのシーフードの味が今でも忘れない。
ーーーー彼は私の好みを注文してくれた。
あなたが私のために注文をし直し、冷めたオムライスを口一杯に頬張っていた姿が焼き付いている。私が惹かれたあの頃と同じような食べ方で子供のように食べていた。
あなたは一般の人より身体が凛々しくて、素敵だ。毎日のヘアをセットするものの、癖毛と天然素質で作られるアホ毛が笑えてくる。声が端まで届いて、なんなら競技を共にした仲間に残るその声は、私の子守唄。あなたの胸で眠れるときには、大地のように広大で力強くて豊かな匂い。
あなたにスパゲティの味見をさせなくて良かった。このスパゲティほ私の涙で塩分過多になってしまうところだった…………。
風ご落ち着いて、私の髪を優しくあなたの髪と巻き付く頃。
あなたは私の手を引いて、今度は確認しながら私をリードしていく。五本指のどれかからぶつかるその硬いアクセサリーに頬を紅くさせながら、歩き馴れた道を確かめた。
…………私の生きる社会に見守られながら。
いま振り替えれると、あなたの顔が思い出せない。
思い出せるのは、なぜだけひとつだけ。
私は昨晩、あなたとキスをした。
あなたのキスはそう、暖かくて優しくて、そして懐かしかった。
「いゃあ……オレにも、エビを寄越せよな?」