逆さまの世界
朝から雨か。
私は少々うんざりして傘を開き、足元に翳した。
足元からパラパラと噴き出す雨は、強くはないが鬱陶しい。
駐車場までの通り道を這う雲は、今日は灰色で流れも遅い。
当分雨は続くのだろう。
雲から下に向かって建つ住宅街を見渡した。
ここら辺は田舎に近く、ほんの数年前まで建物は疎らだったのだが、今では随分増えた。
空の向こう側まで切れ目なく建物が建っている。
今日は雨のせいか通行人も少ない。
私は、スーツのポケットに入れた車のキーを確認した。
灰色の雲の漂う先にある駐車場のゲートを目指す。
不意に、視界の端で人のようなものが転がった気がした。
不審に思いそちらを見る。
若い男性が、必死な表情で何度もでんぐり返しをしていた。
大学生くらいの年齢だろうか。
「あの……」
私は話しかけた。
出社時間までは少し余裕がある。
頭のおかしな子かもしれないという警戒感はあったが、若者の表情はあまりに必死に見えた。
「何をなさっているんですか?」
「あ、すみません」
若者は、素直そうな感じで立ち上がり、気を付けの姿勢をした。
おかしな人ではなさそうだと思ったが、私は更に驚いて目を丸くした。
若者は、逆さまに立っていた。
足を地面側に付け、頭を空側に向けている。
私が軽く見上げた位置に、若者の逆さまの顔があった。
「な、何ですかそれ。手品ですか?」
私は声を上げた。
驚きが過ぎて、怒っているような口調になる。
「それ言いたいのは、僕の方ですよ。何でみんな逆さまに歩いているんですか」
若者は泣きそうな顔だった。
「いや、普通こうでしょう」
私は足元の空を踏みしめた。差した傘は、私の足元よりももっと空に食い込んで雨を防いでいる。
若者は、訳が分からないという顔をした。
本当に困っているような様子だったので、突き放した言い方は可哀想かと思う。
「それで、先ほどのでんぐり返しは」
若者は「でんぐり返しって……」と困惑したように呟いた。
でんぐり返しのつもりはなかったらしい。
「さっきから通る人通る人にじろじろ見られて。何でみんな逆さまに歩いているのかなって。試してみようかと思ったんですが……」
若者は言った。
その結果がでんぐり返しになってた訳か。
「三半規管かどこかに異常でも出たのでは。よく分からないけど突然そうなることもあるのかも」
私は手に持ったままだった車のキーを見た。
「家はどの辺? 道を歩くこともままならないでしょうから、近くなら送りましょうか」
「いえ、それがどこだか……」
「記憶喪失にもなっているんですか?」
若者は俯いた。逆さまになっているので、こちらからは上を向いていることになってしまうのだが。
「いえ、自分の名前も住所もちゃんと覚えてます。ただ、この町がどこなのか」
「どうやって来たんですか?」
「その、気が付いたら突然ここにいて」
そんな訳ないでしょ、と私は頭の中で突っ込んだ。
やはり一部とはいえ記憶を失っているのか、それともここに来た経緯を言いたくない事情でもあるのか。
「まっすぐ病院に行きますか?」
私はそう提案した。
若者が眉を寄せてこちらを見たので、言い方が悪かったかと思う。
「いえ、頭がどうこういう意味じゃなく。病院でちょっと耳の検査でも受けて、そこで落ち着いて地図を見ればいいのでは」
私はそう言ってから肝心なことを思い出した。
「スマホとかは?」
「ああ、そうか」
若者は、自分のズボンのポケットを探った。
「あ、あれ……」
どこかに置き忘れて来たようだ。
「あれ、どこで」
若者は自分の全身を両手の平でパンパンと叩き、スマホが無いか確かめていた。
不意に顔を上げると尋ねる。
「あの、うえした神社って、ここから近いですか?」
「うえした神社?」
私は記憶を探った。
「したうえ神社なら隣町にあるけど」
「じゃあ、そこかな。神社の名前を間違えて覚えてたのかも」
若者はそう言う。一生懸命記憶を辿っているようだった。
「そこで参拝してたんですよね、さっきまで。スマホもそこかな」
「じゃあ、そこまで送りましょうか?」
私は言った。
腕時計を見る。隣町なら会社までの通り道だ。
私は、若者を自分の車に促した。
「すみません」
若者は私の車に乗ろうとしたが、車体のドアの上部から不自然に体を曲げて乗り込むという、奇妙な乗り方になった。
車内でも逆さまの状態は変わらず、車の天井部分で済まなそうに正座してぶらさがっている感じになる。
発進すると、天井でバランスを崩し斜めになりかけたが、何とか座る姿勢は保っていた。
エンジンをかけ、曇り空を走り出す。
急に強くなった雨が、車体の下をパラパラパラパラと叩いた。
「神社にいたんですか。今流行りの神社巡り? いいですね」
私は言った。
「いえ……そんなんじゃないです」
若者は答える。
「あの……去年、大学卒業したんですが、就活失敗しちゃって」
「ああ」
私は曖昧に返事をした。
赤の他人の方が話しやすいのは分かるが、少々リアクションに困る。
「彼女いたんですけど、喧嘩して別れちゃって。親にも早く就職しろとか言われるし。友達もみんな仕事してるから、話も合わないし会いにくくなっちゃって」
「……ええ」
「何が悪いんだろうっていろいろ悩むうち、ネットで神社の画像見てふらっと」
「ああ、そうなんだ」
「参拝したら、人生が一気に逆転しないかなって」
私はハンドルを切った。
頭上の水溜まりを強い雨が叩いて、小さな水飛沫が車体の上から零れる。
「いや気持ちは分かるけど、一気に逆転なんてそうそうないと思うし」
私は言った。
「そうですよね……」
若者はそう答える。
「誰でも全て上手くいかない時期ってあると思うよ。少しずつ変わるもんだから」
「そうですか」
「まあ、自分だけがってつい思っちゃうんだけどね」
曇り空の雲の色が、やや明るい色に変わっていた。
隣の町は、雨はあまり強くないようだ。
空から唐突に盛り上がるようにして生い茂る森の中に、赤い鳥居が見える。
鳥居のすぐ前に乗り付けた。
「ここがしたうえ神社だけど」
若者は、車体の天井から手を伸ばしてドアを開けようとした。
開けにくそうだったので、乗ったときと同様に開けてやる。
「ありがとうございました」
若者は逆さま状態で何度もお辞儀をしながら車を降りた。
「傘要る?」
「いえ、いいです」
「頑張ってね」
私は言った。
若者は鳥居を潜ろうとしたが、跨ぐことになってしまうので少々戸惑ってから細い木々に覆われた鳥居の外側を無理やり通った。
逆さま状態で拝殿までの通路を歩いて行くのを、私は暫く見送る。
不意にゲリラ豪雨が足元から激しく吹き出し、私は車の中に逃げ込んだ。
終