04
ベッドに座ったリアーナの体は、重ねられたクッションに深く沈んでいた。
顔の半分は包帯で覆われ、前髪は頭皮が焼けて禿げ上がり、長かった髪は肩につかないほど短く切られている。
これでは社交界は愚か、人前に姿を見せることも出来ない。
エルドはベッドに上がる勢いでリアーナに近づいた。
「なぜ、こんなこと……!」
「私にできるのは、これしか……」
「──っ、僕は顔を見せるなと言っただけで、顔に傷を作れなんて言ってない!」
伯爵家に連絡しても会えなかったはずだ。
顔の半分に火傷を負うほどの怪我を負って、無事だった方が奇跡だ。
エルドは震える指で、リアーナの頬に触れた。
あの時、周囲に恥を晒すリアーナに自分までもが笑い者になり、顔も見たくないと思ったのは本当だ。それは認める。
だが、エルドの言葉に従ったとはいえ、リアーナの行動はあまりに行き過ぎていた。
自ら顔に火を放つなど、正気の沙汰とは思えない。
「どうしてお前は……っ」
──どうして、お前はこうも僕に盲目的なんだ……。
忠誠を誓った騎士だってここまでじゃない。
婚約者だからと言って優しくした覚えはないし、面倒ばかり起こすお前に嫌気が差していた。
それに何をするにも劣っていたお前を、他の友人たちと一緒に嘲笑っていたんだ。
婚約者として最低な態度ばかり取ってきたのに、なぜ一生残る傷を負ってまで自分に尽くそうとする。
エルドは言い様のない感情に頭を抱えて肩を震わせた。
今になって、目の前にいる元婚約者が恐ろしくなった。
彼女はエルドが「死ね」と言ったら、迷わず心臓に刃を突き刺そうとするだろう。
「私が、悪いんです……エルド、さま」
「お前はいつもそうだ。自分が悪かったと口にして、それで僕が納得すると思っているのか!?」
声を荒らげたエルドはリアーナの腕を掴んだ。
瞬間、布越しに掴んだ腕のあまりの細さに、全身がぞわりとした。
これは本当に腕なのか。
触れてはいけないものに触れてしまった気がして、エルドはゆっくりと手を離した。
動揺、怒り、恐怖と、様々な感情が押し寄せてくる。
エルドの揺れる瞳がリアーナを映すと、彼女は切なげに目を細めた。
この時、自分は核心に触れてしまったのだと理解した。
エルドは崩れ落ちるように椅子に腰掛けた。
リアーナが隠していたのは他にあったのだ。それこそが婚約を交わすことになった理由だった。
知られてしまったと気づいたリアーナは、声を詰まらせながら話してくれた。
「私は……子供のとき、に……病気になりました。筋肉が、衰えるという難病、です。八歳の時にはすでに、十六の成人は迎えられないだろう……と、宣告されました」
「───……」
真実を話し始めるリアーナに、エルドは無言で答えた。
頭では彼女の言葉を理解しようとしているのに、すでに大きな衝撃と空虚感を味わった心が追いついてこない。
リアーナは、一体何の話をしているんだ。
成人まで生きられない、だと?
それじゃ無事十六歳を迎えて生きている彼女はなんだと言うんだ。
「……不憫に思った私の父は、叶えられる願いなら何でも聞いてくださると」
「それで僕の婚約者になったのか……?」
「私は、幼い頃より、エルド様のことが、ずっと好きでした……。短い時間を、貴方の近くで過ごすことが、私の願いでした……」
婚約する前から一緒に遊んだ覚えがある。
無邪気に後ろをついてきた時から、リアーナはすでに病気を患っていたのか。
体の機能に難がある病気だから、リアーナはよく躓いて転びそうになり、ダンスも碌に出来ず、字も下手だったのだ。
頭の中で点と点が繋がり、一本の線が引けた時、エルドは目を閉じて唇を噛んだ。
人より劣っていたのは、リアーナがハンデを抱えていたからだ。
「私の父と、公爵様が話し合ってくださって……私の望みを聞き入れて、くださったのです……」
リアーナの声は聞こえてくるのに、エルドの頭にはこれまでの記憶が蘇ってきて邪魔をした。
己のしてきた、愚かな過ちの数々が。
それなのに、リアーナは弱い力でシーツを掴み、必死に体を起こしてエルドに頭を下げた。
「本当に……本当に、申し訳ありません、でした……。私は、自分勝手な我儘で、エルド様をずっと縛り付けて、おりました……っ」
「……リアーナ」
「それでも、エルド様と一緒にいる時だけは、自分の病気のことも、残された時間も忘れて過ごすことが、できました……っ」
エルドはリアーナが病気だったことを知らなかった。
知らなかったからこそ、彼女を普通の女性と比べてきた。
そして無理難題を押し付けた。どうして他の女性と同じことが出来ないのか、と。
──出来るわけがなかったんだ。
「その顔の傷は……」
「……これはエルド様との関係に、諦めがつくように、と」
「勝手、すぎるだろ……。なぜ言わなかったんだ……」
「憐れんでほしく、ありませんでした。私がここまで生きてこられたのは……エルド様のおかげです。貴方に相応しい女性になるよう、少しでも近づけるよう、頑張ってこられた、から……」
生きる糧になっていただと?
笑わせるな。
これまでリアーナにしてきたことの何が彼女を喜ばせ、希望になっていたというんだ。散々罵って婚約者らしいことなど一つもしてこなかったのに。
「言ってくれたら……」
リアーナの病気を知っていたら、きっと自分は命に限りのある婚約者を大切にしただろう。結ばれることがないと分かっているから。
せめて生きている間は、という気持ちで接したはずだ。
だから、リアーナは望まなかったのだ。病気を知られて大切にされるより、酷い仕打ちを受けても将来を一緒に歩もうとしてくれるエルドを望んだのだ。
「勝手を申して、深くお詫び致します……。リアーナは……っ、心から貴方を、お慕いしておりました……。私との婚約を解消して、自由になってください……」
「────」
彼女の涙声が胸に深く突き刺さる。
リアーナはまだ二人の婚約が白紙になったことを知らされていなかった。
エルドは、二人の婚約がすでに解消されていることを教えてやることができなかった。
同じく「分かった」とも、「感謝する」とも言えなかった。
頭を上げたリアーナが涙で濡れた頬を緩ませる。
──彼女に笑うなと言ったのは、いつだったか。
リアーナは微笑んでくれたが、その顔は火傷により二度と笑うことが出来なくなっていた。
彼女の部屋から出て、伯爵夫妻に挨拶しようとした時、突然リアーナの姉が現れて「貴方が、もっとリアーナに優しくしていたらっ!」と罵ってきた。
美しい顔を歪ませて泣き叫ぶリアーナの姉を、伯爵夫妻は必死で宥めた。リアーナの家族はもちろん、屋敷の者たちは当然彼女の病気を知っていたのだろう。
将来、この家の者たちと家族になれると思っていたのは自分だけだ。
婚約者である自分だけが知らなかったのだ。
実に滑稽だ。
全員に謀られていたのだから。
エルドは頭を下げ、伯爵家を後にした。家に帰ってくると、彼の足は無意識の内に父親のいる書斎に向かっていた。
父親にリアーナから聞かされた話を伝えると、父親は苦虫を噛み潰したような顔でやっと話してくれた。
伯爵家から婚約の打診があった時、一度は断ったものの娘を思う彼の気持ちを無下に出来なかったようだ。
結局、伯爵が所有する鉱山の一つを受け取る代わりにエルドと婚約させたという。
鉱山など公爵家にとっては碌な利益にならない。父親はあくまで伯爵家との繋がりを大切にしたかったのだろう。
なのに、自分は伯爵家で大事にされてきたリアーナに酷い扱いをしてきた。
彼女がどんな思いで病気と向き合いながら生きてきたのか、知らなかったとは言え、婚約者として最低な行いを繰り返してきた。
あんなに慕ってくれていたのに……。
自分を愛してくれるのは、後にも先にもリアーナだけだ。
婚約者として初めから寄り添ってやれば良かった。そうすればこんな結末を迎えても、一生消えることのない罪悪感に苛まれることはなかった。
エルドはその日、声を殺して泣いた。
脳裏には最後に見せたリアーナの顔が焼き付いて離れなかった。
二人で会って話した半年後、リアーナの訃報が届いた。
あの会話を最後に二人が会うことは許されず、エルドは許しを乞い、謝罪することもできなかった。
社交界では、幼い頃から病気を患っていたリアーナと婚約を結んで彼女に希望を与え続けたエルドの話が広まった。
噂の出処は間違いなく公爵家だろう。
加えてリアーナ側の伯爵家がまったく否定しなかったことで、噂は真実として取り扱われた。
おかげで新しい婚約者を作らずに済んだ。
周囲からすればリアーナのことが忘れられずにいるのだろうと思ってくれたからだ。
だが、そんな生易しいものじゃない。
「本当に、お前が憎いよ……リアーナ」
彼女はこの世で、一番手に入れたかったものを手に入れてから逝ったのだ。
亡くなってからもリアーナの存在はエルドを縛り付け、彼女が願ってくれた自由は泡となって消えた。
エルドは美談にされたリアーナとの関係を持ち出されることに耐え兼ね、家族の反対を押し切って神に仕える道を選んだ。
二度と、誰かを愛することはない。
それなら、一生を懸けてお前に償おう。
エルドは時間の許す限り祈り続け、神に最も近い場所で罰を待ち続けながら、元婚約者に思いを馳せた。
【END】