01
貴方は私に、婚約者になれと言った。
貴方は私に、自分を愛すように言った。
貴方は私に、慎ましい女になれと言った。
貴方は私に、誰にでも愛想を振り撒くような女になるなと言った。
貴方は私に、笑うことを禁じた。
貴方は私に、呼ばれたらすぐに来るように言った。
貴方は私に、他の男と喋るなと叱った。
貴方は私に、釣り合う女になれと怒鳴った。
貴方は私に、二度とその顔を見せるなと命じた。
それでも、私は──。
★ ★
名門の公爵家に、古くから付き合いのある伯爵家の紋章が入った馬車が止まった。
友人とチェスを楽しんでいたエルドは、銀のトレイに手紙を載せて運んできた初老の執事からその知らせを受け取った。
「……それで? リアーナは客間に通したのか?」
差し出された手紙は婚約者からだった。
案の定、というか期待を裏切らない彼女の行動に、エルドはソファーの背にもたれて銀色の前髪を掻き上げた。
今年十八歳になるエルドは、十歳の時に決められた婚約者がいた。
彼女──リアーナは伯爵家の次女で、エルドより二歳ほど年下だ。公爵家と縁のあった伯爵家だけあって、二人の婚約は自然な流れだったのかもしれない。
二人は十歳になる前から幾度となく顔を合わせてきた。
リアーナの兄は秀麗な顔立ちで女性達の間でも人気が高く、彼女の姉もまた美人で気品があると社交界では有名だ。
だが、リアーナに至っては秀でたところもなく、顔立ちも存在も平凡な女性だった。いや、どちらかと言えばマイナス面が多かった。
とくに運動神経が悪く、ダンスではよく足を踏まれ、エルドは会う度にイライラさせられた。
──昨日だってそうだ。
この公爵家で、エルドの兄の誕生日を祝うパーティーが盛大に行われた。
弟として、婚約者を伴っての参加は予め決まっていた。
家族と一緒にやって来たリアーナは具合が悪かったのか、顔色があまり良くなかった。それでも体調が悪いとも言わず、エルドにエスコートされて会場に入った。
その時から嫌な予感はしていた。
普段から色々やらかしてエルドを怒らせる彼女が、何もしないわけがなかった。
そしてエルドの悪い予感は的中し、リアーナは絨毯に躓いて手にしていたグラスを落とした。グラスにはオレンジジュースが入っていて、高級な絨毯にグラスの破片とジュースが飛び散った。
周りに人がいなかったのは不幸中の幸いだった。
もし、誰かの衣服にジュースがかかってしまったらパーティーどころではなくなっていた。
彼女は血の気のなかった顔を更に真っ青にさせ、何度も頭を下げてきた。
尊敬してやまない兄のパーティーで恥をかかされたエルドは、ついに我慢の限界を越えてしまった。
「二度とその顔を見せるな」──と、リアーナに言ってしまった。
彼女は傷ついた顔でエルドを見つめ、最後は唇を噛んで再び深く頭を下げると、会場から出て行った。
後になって言い過ぎたと思ったが、これまでのことを思えば仕方がないだろう。
あれが将来自分の伴侶になるかと考えたら溜め息しか出てこない。
以前、彼女との婚約を破棄できないか父親に相談した事があったが、間髪入れず却下された。
公爵家の次男と伯爵家の次女の結婚など、双方にとってメリットはない。
あるとすれば家同士の繋がりを深くするぐらいだ。
とてもリアーナを妻に迎えて幸せな家庭が築けるとは思えなかった。
だが、こうやって昨日の今日で嫌われることを恐れず、エルドの機嫌を取る為に手紙を書いて直接足を運んでくるところは嫌いじゃない。
彼女は、エルドの言うことには何でも従った。
従順な態度は婚約してる間も変わらず、エルドを優越感に浸らせた。
エルドは友人に断り、ソファーから立ち上がった。
今頃、リアーナはエルドがやって来るのをじっと座って待っているだろう。
飼い主に待てを言われた犬のように。
けれど、客間に向かおうとするエルドに、執事は「お待ち下さい」と手を差し出してきた。
「本日、リアーナお嬢様はお見えになっておりません。先程やって来たのは伯爵様にございます」
「……なに、伯爵が?」
昨日の出来事は伯爵も知っている。彼女の家族は皆、見ていたはずだ。
まさか伯爵自ら娘の失態を謝罪しに来るとは思わなかったが、より意外だったのはリアーナが付いて来なかったことだ。
叱られて謹慎でもさせられているのだろうか。
ソファーに座り直したエルドは長い脚を組んで顎を撫でた。
怒りが完全に収まったわけじゃないが、自分の婚約者が罰せられているのは気に入らない。
エルドは伯爵が帰った後にでも父親の元に行って、リアーナの代わりに弁解しようと決めた。
けれど、エルドに告げられたのは予想外の言葉だった。
「え、婚約解消ですか……?」
「そうだ。伯爵から正式に、お前とリアーナの婚約を白紙にしてくれるよう頼まれた。これでようやくお前も自由になれるな」
父親から聞かされた話に、エルドは頭が真っ白になった。
自由になれる……?
それが何を意味しているのか分からず、エルドは突然のことに困惑するしかなかった。