エピローグ 伝説の悪女が交わした約束とそれを果たした騎士の話
その週の土曜日はカミロと約束をしていたので、私は出発の二時間前に目を覚ました。
諸々の支度を終わらせた後、最近手に入れたばかりのチェック柄のワンピースを着て全身鏡の前に立つ。数分間自分と睨めっこをした末に、髪は降ろしたまま、眼鏡だけは掛けていくことにする。
本当に中途半端なガリ勉地味眼鏡になってしまったものだ。けれど、これで良いのだとも思う。
「……よし!」
私はライトグレーのウールコートとマフラーを身に纏い、最後にクサカバを撫でてから部屋を後にした。
外出許可はきちんと出してある。珍しくめかし込んだ私を見て、管理人室から顔を出したバルバラさんが目を丸くした。
「あらレティシアちゃん、おめかししちゃってデート?」
「ふふ。実はそうなんです」
嘘をつく気が起きなかったあたり、私も大概浮かれているらしい。
バルバラさんはますます喜色を浮かべて、分厚い手でばしりと背中を叩いてきた。
「あらあ! 若いって良いわねえ!」
渾身の一打によろめいたところで、廊下の向こうからアロンドラがやって来た。どうやら朝食を食べて部屋に戻るところのようだ。
「レティシア。そうか、今日だったな」
黒いワンピースといういつもの服装をした親友は、バルバラさんと並んで微笑んで見せる。
「行ってらっしゃい。楽しんで来るといい」
「行ってらっしゃい、レティシアちゃん。門限は守るのよ!」
私は元気よく行ってきますと返して、二人に向かって手を振りながら寮を後にした。
カミロとは最寄りのモレス駅で待ち合わせをしているから、短い距離を一人で歩く。
煉瓦造りの駅舎が見えて来たところで眼鏡を外した私は、待ち合わせ相手を探して首を巡らせた。
「レティ!」
人混みの中でもカミロは直ぐに見つかった。背が高くて赤い髪ともなれば目を引くし、そもそも彼が私を見つけてくれる方が早かった。
大きく手を挙げた立ち姿を目指して小走りに近寄って行く。
カミロもまたコートとマフラーを装備しているので、どうやら防寒対策はバッチリのようだ。
「おはよう、カミロ。待たせてごめんね」
「おはよう。まだ集合時間前だし、全然待ってないよ」
吹き抜ける夏風のような笑みを見せたカミロだけど、じっと私と目を合わせて微笑んだまま歩き出す気配がない。どうしたのかしら。
「今日は一段と可愛いな。思わず見惚れた」
「うあ……⁉︎」
そして何の前触れもなく凄いことを言うので、私はやっぱり変な声を出してしまった。
どうしてさらりと赤面するような台詞を口にできるんだろう。私は格好良いとか、なかなか言えないのに。
楽しげに笑い、早速行くかと歩き出したカミロに並んで、私もまた歩き出す。
モレス駅から魔列車で約二時間。一度目の人生で約束した通り、私たちは今日、海へと向かう。
「わあ……!」
目の前に広がる一面の青に、私は感情の赴くままに歓声を上げた。
キラキラと輝く水面に、穏やかな波の音と潮の香り。空にはウミネコが舞い、人っ子一人いないまっさらな砂浜は波紋を残して静かに佇んでいる。
なんて綺麗なんだろう。
こんな、こんなの……冬だとは言っても、眺めてるだけなんて勿体無い!
衝動に打ち勝つことができなかった私は、カミロを残して猛然と走り始めた。
「あ……! レティ、気を付けろ! 砂浜は校庭と違って足を取られるぞ!」
「はーい!」
背中からの声に前を向いたまま返事をする。確かに言われた通り、足を踏み出すごとにブーツの踵が砂浜に飲み込まれる感触がして新鮮だ。
波打ち際まで来たところでようやく足を止めると、カミロもすぐに追いついてきて私の隣に並んだ。
彼が一度目の人生で語ったように、本当に世界の半分が海で切り取られているかのようだ。
波の音が目前に迫っている。一つ一つ形の違う白が打ち寄せては消え、砂の形を細かく変化させていく。
「綺麗ね……」
「ああ、そうだな」
「連れてきてくれてありがとう。私、約束した時は本当に来られるとは思っていなかったから、凄く嬉しい」
「へえ。俺は絶対に、何年かかっても連れてくる気だったけどな」
冗談めかした笑顔だけど、本気で言っているのがすぐに分かってしまい、私は頬を染めた。
海に行く約束について話したのは、カミロの部屋に突撃した時のこと。
行こうって言ってくれて凄く嬉しかったという話をしたら、カミロは当然のように覚えていて、それならさっそく行こうかということになったのだ。
「まあ、連れてきたって感じでもないけど。クルロの背には乗せてやれなかったしさ」
少しだけ悔しそうな笑みに、当時を思い返す温かな色が浮かぶ。
クルロというのはカミロの相棒の竜だ。私も背に乗せてもらったことがあるけど、本当に懐っこくて良い子だったなあ。
「来れたことが嬉しいから、手段なんて何でも良いのよ。でもクルロには会いたいけどね。懐かしいな」
カミロはもちろん竜騎士を目指しているから、このまま行けばきっと会えるはず。
本当は竜騎士みたいな危ない仕事に就くことは、ちょっと心配なんだけどね。
「任せてくれ。きっとまたクルロと相棒になって、レティにも会わせてやるから」
「ふふ、楽しみね」
はっきりと頷いたカミロに笑みを返したところで、一際強い風が吹いた。
太陽が天辺にあるとはいってもそれなりに寒い日だ。遮るもののないこの場所では、油断すると髪の毛が好き勝手に舞って視界を覆う。
「すごい風! 何だか全部が新鮮だわ!」
「寒くないか、レティ」
「平気。カミロは?」
「俺も大丈夫だ」
小さな蟹が砂の中から顔を出してすぐに引っ込んだ。すると一際大きな波が来て足元を濡らし、私達は同時に足と悲鳴を上げ、それから一拍置いて笑った。
波打ち際は危険ということで、浜の中程まで退避することにする。
私はそこで白い砂の中に何かキラキラしたものが含まれていることに気付いた。
「何これ……? あ、貝殻⁉︎」
「おお、沢山落ちてるな」
興奮が爆発しかけている私とは反対に、カミロは落ち着いていた。海に来たことがある人はどうやら余裕があるらしい。
アロンドラが海には貝殻が落ちているって言うから瓶を持ってきたのだけど、大正解だったみたい。
「素敵! ちょっとだけ拾ってもいい?」
「もちろん。ちょっとと言わず好きなだけ拾っていこう」
カミロは甘く微笑むと、自ら率先してしゃがみ込んだ。
何だかあの事件以降、前にも増して笑ってくれているような気がする。優しいのは相変わらずだけど、態度が甘いというか。
私は首を振って熱くなった頬を冷やすと、慌てて同じようにしゃがみ込んだ。
「あ……あのね、瓶を持ってきたの!」
「はは、準備がいいな」
「そうでしょ? 何か記念になればいい、な、と……」
その時、私は一つの貝に目を奪われて、言葉が続かなくなってしまった。
「この貝、すごく不思議な色!」
カミロの足元に落ちていたのは、複雑なマーブル模様を描く薔薇色の貝だった。
そっと指先で摘んで拾い上げてみる。
巻貝の形をしていて、大きさは飴玉くらい。陽の光にかざすとキラキラと反射して、より一層深みのある色に変わる。
「綺麗だな。貝のことには詳しくないけど、珍しい感じがする。レティの瞳みたいだ」
「え? そうかしら……?」
確かに薔薇色だから同じ色だけど、この貝の方が綺麗に見えるような気がする。
でもそう言ってくれるなら、そうなのかもしれないわよね。
「じゃあこれ、カミロにあげる」
私はカミロの右手を取ると、掌に貝殻を乗せた。
特に深く考えての行動ではなかった。それなのに中々反応がなくて、不安になって顔を上げる。
ふと貝殻を乗せていない方の手が伸びてきて冷えた頬を包み込んだ。若草色が私をじっと見つめていて、目を離すことができない。
永遠に思える時間の中で、彼の唇が私のそれに触れたのは、ほんの一瞬のことだったのだろう。
風と波の音が遠くに聞こえた。
頬に触れていた手がそっと離れていく。この頃になってようやく何が起きたのかを理解した私は、爆発的に顔に熱が集中するのをそのままにするしかなかった。
「な……な……! ここ、そと……! そ、外ぉ!」
あ、駄目だわこれ。意味のない単語しか出てこない。
だって、急にこんな……!
「レティが俺を喜ばせるのが悪い」
狼狽する私と違って、カミロは飄々としたものだった。
少しだけ頬を赤くしたまま肩を竦めたかと思えば、ふと真剣な光を宿した目で見つめてくる。
「ありがとな、本当に嬉しいよ。一生大事にする」
だから私はすぐに返事ができなかった。
一生、って。
そんなものを一生持っていてくれるの?
ただの貝殻なのに。
カミロに貰ったものを考えたら、何のお返しにもならないのに。
「……それなら、今度保存用の袋でも縫ってあげるわ」
声が震えないように気を付けなければならなかった。
私の心中なんて知りもしないカミロが「本当か⁉︎」なんて嬉しそうに笑うから、ますます言葉が出てこなくなって。
その時、高らかな鳴き声が海に反響した。
私達は同時に天を仰いで、視線の先に勇壮なシルエットを見つけて息を呑む。
竜だ。青い空を背景に、ゆったりと翼を動かして飛んでいる。
そしてあれはーー背に人を乗せているのだろうか。
「竜騎士だ……!」
弾んだ声に隣を見上げると、カミロは輝く瞳で竜を見つめていた。
私の視線に気付いたのか、すぐにこちらを向いて勢いよく言う。
「レティ、手を振ってみよう!」
「ええ、そうね!」
私達は両手を上げて、がむしゃらに振り回した。自然の音に負けじと声を張り上げて、また更に手を振って。
すると驚くべきことに、返事が返ってきたではないか。
誰もいない砂浜に竜の鳴き声が響き渡る。背に乗る竜騎士が手を上げるのが見えて、私達は興奮気味に顔を見合わせて、笑った。
大空の向こうへと、力強い姿が遠ざかってゆく。
どんどん小さくなって豆粒のようになり、やがて完全に見えなくなるまで、私達はその場に立って見送っていた。
太陽の光が柔らかく降り注ぎ、砂浜を白く照らしている。風はいつの間にか穏やかになって、そよそよと髪を揺らす。
こんなことを言ったら怒られるかもしれない。けれど私は海に来られたことそのものよりも、カミロが約束を覚えていて、共に来られたことが嬉しかった。
きっと今日という日を忘れることはないだろう。
カミロも同じように感じてくれていたらいいな。
私は精悍な横顔をそっと見つめながら、心の中で願った。
それは帰り道に起きた。
海沿いには商店街があって、オフシーズンの今も地元の人で賑わっている。
私達は観光がてらお店を覗きながら歩いて楽しんだ。するとカミロがサムにお土産を買ってくれると言うので、私は狭い店内に遠慮して外で待っていたのだけどーー。
「ねえねえいいでしょ? お嬢さん、俺とお茶しようよ」
その途端に通りがかった男性に声をかけられて、現在に至る。
私は無表情を張り付けて応対しているのに、男性はまったく引く気配がない。
「人を待っているので……」
「へえ、彼氏?」
「彼氏というか、婚約者です」
「そうなんだ。それが本当かどうか確かめないと、諦め切れないなあ」
な、何この人、めんどくさい!
お店に戻る? いいえ、迷惑かけたら申し訳ないから駄目。
かと言ってここを動くわけにもいかないし……情けないけど、カミロが出てくるのを待つしかないか。
ため息を吐くのを必死に我慢する。すると男性が無遠慮にも肩を抱いてきたので、全身に鳥肌が立ってしまった。
「ちょっと……! やめて、離してください!」
「まあまあ、そんなに嫌がらないでよ」
へらへらと笑う顔に更なる嫌悪感が募り、必死で身を捩る。
嫌だ、気持ち悪い。これはもう件のビンタを決めるのも有りか。
そこまで思い詰めたところで、肩に乗った腕の重みが嘘のように消え去った。
「い、いててててて!」
そこにはカミロがいた。男性の腕を問答無用で捻り上げ、痛みに歪む顔を見下ろしている。
良かった、来てくれたの。安堵にそっと息をついた私は、しかし次の瞬間に血の気を失うことになる。
「おい、お前。……レティに一体何をしているんだ?」
あれ? 聞いたことのある台詞だなー。
確かあの事件の時、ヒセラ様に言っていたような。気のせいかな。
『いいかい。ヒセラ嬢じゃないけど、あの狂犬を制御できるのは君しかいないんだ』
『まずは君が怪我をしないこと、トラブルに巻き込まれないこと』
エリアス様の助言が頭の中でぐるぐると回る。
い、いや、まさかまさか。だって私、今回は怪我なんてしてないし。
「俺だって触るの我慢してるんだぞ。それなのにぽっと出の他人が、なに気安く触れてくれてんだ」
え、我慢?
その割にそこそこやりたい放題してると思うんだけど……?
じゃなくて、ちょっと待って。
目が。カミロの綺麗な目が、敵を屠る時のそれに様変わりしているわ⁉︎
「わ、悪かったよ! 離してくれよお!」
「お前の訴えを聞く義理はない。どれほど罪深いことをしたのか、解らせてやるよ」
カミロの声が凄みを増す。
この時点で私は大きく息を吸って、声を張り上げることにした。
「カミロ! 私、さっきの角で見たカフェが気になるなあ!」
するとカミロは唐突に男性の腕を離した。
か細い悲鳴をあげて走り去って行く後ろ姿にはもう欠片の興味もないようで、心配そうな眼差しで見つめ返してくる。
「レティ、大丈夫なのか? 怖かっただろ」
「カミロが来てくれたから全然平気! それより私、お腹が減って仕方がないの!」
「そっか、それじゃあ早く食べに行かないとな」
慈しむような笑みを浮かべるカミロを前にして、私は額に浮いた冷や汗を拭いたい気分だった。
危ない。もしかすると凄く危なかった、かもしれない!
中途半端なガリ勉地味眼鏡になってしまった訳だから、仕方のない事ではあるけれど。
私が望んだ平穏は、一生手の届かない存在になったみたいだ。
〈断頭台に消えた伝説の悪女、二度目の人生ではガリ勉地味眼鏡になって平穏を望む・完〉
書籍化&コミカライズも順調に進行中です!
まだまだ本作を盛り上げていきたいと思っておりますので、お付き合い頂けると嬉しいです。
ブックマークやこの下にある☆☆☆☆☆を押して評価して頂けると今後の創作の糧になります。どうぞ応援よろしくお願い致します!