貴方が幸せなら
そういえば、リナ先生がおっしゃっていたっけなあ。アグスティン殿下の洗脳は解いてもらったようなので、心配いりませんよって。
それは良かったわよね。そもそもヒセラ様の正体を暴こうとしたのも、アグスティン殿下の洗脳を解くためだったわけだし。
(でも今は、会いたくなかったなー!)
私は中ば投げやりな気持ちになって、アグスティン殿下と向き直った。
今から男子寮に忍び込もうとしているので、アグスティン殿下が寮に向かおうとしている以上、なんとかしてやり過ごさなければならない。
「ご機嫌よう、殿下。良い夜ですね」
仕方がないので会釈だけして通り過ぎることにする。
こうなったらこのまま校舎に入って、ぐるっと一周して戻って来るしかない。
「待ってくれ!」
計画を組み直していたところで後ろから声が掛かった。恐る恐る振り返ってみれば、アグスティン殿下が気まずそうな様子で視線を逸らす。
「その……怪我をしたと聞いた。大丈夫だったのか」
なんと。まさかアグスティン殿下に心配してもらえるとは思ってもみなかった。
歯切れが悪いのも珍しいし、一体どうなさったのかしら。洗脳されていた事実が相当堪えたってこと?
「……はい。ほとんど治っております」
「そうか、良かった。此度は迷惑をかけて済まなかったな」
私はいよいよ仰天してしまい、はしたないと知りつつもあんぐりと口を開けた。
あのアグスティン殿下が、謝った?
嘘でしょう。自分が正しいことを信じて疑わず、傲岸不遜が服を着て歩いているようなあのアグスティン殿下が……⁉︎
「魔女の洗脳などというものが行われていたとは気付きもしなかった。今になって考えてみると、ヒセラのことは何とも思っていなかったというのに」
「は、はあ……。左様でございますか」
どうしよう、話が見えない。
何故私はアグスティン殿下の近況報告を聞かされているのだろうか。
「お前はどうだ。カミロと上手く行っているのか」
「へっ……⁉︎ 私でございますか?」
今度は予想外の質問までぶつけられてしまった。本当に何の気まぐれなのだろう、これは。
今まさに上手く行っていないところだし、何と答えたものか。
私が逡巡したのがどう見えたのだろう。アグスティン殿下は一歩前に進み出ると、実に堂々とした態度でこんなことを宣った。
「もしも上手く行っていないのなら、私のことを考えては貰えないだろうか」
……はい?
「どうにもお前のことが気にかかるのだ」
……何て?
「私では不服だろうか」
んんんんん?
私は頭の中で首を捻った。
えっ何だろ……私、もしかして幻聴聞いちゃった? 疲れてるのかな。怖いなー。
いいえ、でも。アグスティン殿下はやっぱり堂々としたお顔をしていらっしゃるし。
じゃあ今の台詞は全部、現実なの?
(……何なの、この人。良い加減にしてよ)
この時、私はふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じた。
王太子殿下に対してここまで無礼な感情を抱くのは初めてのことだった。
だってそうでしょう。全然私のことを顧みなかったくせに、今更何なの。
アグスティン殿下に記憶が戻っていないことは知っている。だからこの怒りがとても的外れなのも、二度目の人生で人間関係が変わった以上はこういうことが起きても不思議じゃないってこともわかってる。
だけどヒセラ様の洗脳にかかったのだって、「お、可愛い子じゃん?」って思ったからなんでしょう。
最初から私のこと、興味なかったんでしょう。
貴方が洗脳されたせいで、今回だってどれほど大変なことになったと思っているのよ。本当に反省してる?
「やはり、顔がよく見えないな。眼鏡を外してはもらえないだろうか」
アグスティン殿下が微笑んで首を傾げる。断られるなんて微塵も思っていない顔。
そういえば、最初の時も眼鏡を外せって言っていたわね。
そっか。そんなに見たいなら、見せてあげたらいいんだわ。
思いついてしまえば簡単だった。私は眼鏡に手をかけて、ゆっくりと外していった。
露わになった薔薇色の眼差しでアグスティン殿下を正面から見つめる。一度目の人生の夫であり、それなのに誰よりも遠くにいた人。
誰もいない校舎前に夜風が吹き抜けて、二本のおさげが視界の端で揺れた。ヒビの入った眼鏡を取り払ったおかげで、外灯に映し出された顔が驚愕に彩られていくのがよく見える。
「お、お前は、動物園の……!」
震える声が響いて外灯の明るさの中へと溶けてゆく。アグスティン殿下はまず動物園でのことを思い出してその表情に怒りを宿したものの、すぐに鋭く息を吸って、みるみるうちに青ざめていった。
「こ、れは。黒薔薇妃、レティシア……?」
そう、思い出してください、アグスティン殿下。
私は貴方に殺された。ずっと貴方に振り向いて欲しくて、愚かな行いを尽くした悪女。
私は一度目の過ちを背負って前に進む。
貴方は、どうするの?
「貴方を好きになることは今後絶対にあり得ない。貴方だって、珍しく寄ってこない女を見つけて面白がっているだけ」
私は瞳に決意を秘めたまま一歩を踏み出した。アグスティン殿下はよろめいてしまったのか、一歩二歩と後ずさりしたけど、構わずに大股で距離を詰めていく。
手を伸ばせば届く距離まで来たところで、私はぴたりと足を止めて青ざめたままの顔を見上げた。
全身に力が漲っている。こうなればもう、やるべきことをやるだけだ。
「もっと自分のことを省みなさいよ、この……バカ王子!!!」
こうして私は、アグスティン殿下の綺麗なお顔に全力のビンタを見舞ったのである。
高らかな音が夜陰に反響した。
身体の芯を捉えた渾身の平手打ちであることは、音を聞くだけで直ぐにわかった。
高揚感も達成感も、何もなかった。ただこの人に尽くそうとした一度目の私が、うたかたのように消えてゆく感覚だけがそこにはあった。
ビリビリと痺れる右手と、あまりのことに無言で頬を押さえて地面にへたり込むアグスティン殿下。その全てを意識の外に締め出して、私は勢いのままに駆け出した。
眼鏡をポケットに収めたまま、掛け直すことすら忘れていた。
カミロのところに行かなければならない。
頭の中は何もまとまっていないけど、それでも行かなくちゃいけないのだ。
以前にエリアス様がカミロの部屋は二階の右から五番目だと言っていた。何でそんなことを教えてくださるのか聞くと、「忍んで会いに行ったりするだろう」って楽しげに笑うから、私は「そんなことしません」って怒ったんだっけ。
今こそエリアス様に感謝し、当時の発言を撤回しよう。
門番のいる入り口を避けて垣根の間を抜け、ようやく男子寮の真下へと辿り着いた私は、煉瓦造りの男子寮を見上げて深呼吸した。
右から五番目……うん、灯りの点いたあの窓ね。
大丈夫、カミロに教えてもらったもの。この高さなら何とかなる。
呪文を唱えればふわりと体が浮き上がる。そのままゆっくりと高度を上げて、目的の場所に辿り着いた私は、躊躇なくカーテンに閉ざされた窓をノックした。
室内にあった人の気配が少しだけ止まるのを感じた。それでもすぐに窓へとやってきて、勢いよくカーテンが開かれる。
『レティ』
カミロの唇が、音もなく私の愛称を紡いだ。
慌てた様子で鍵を外して、音を立てて両開きの窓を開け放つ。
ところがその頃には私の貧弱な魔力は枯渇し始めていて、がくりと体が傾くのだから、小さく悲鳴を上げてしまった。
「レティ、手を……!」
切羽詰まった声で名前を呼ばれた。伸びてきた腕を反射的に掴むと、問答無用の力強さで引っ張り上げられて、二人して部屋の中に倒れ込む。
頭から雪崩れ込んだはずなのに、不思議と少しの痛みも感じなかった。
顔を上げればカミロの丸くなった若草色の瞳が至近距離にあって、私は彼を下敷きにしているというとんでもない状況に気付く。
どこからどう見ても男が女に襲われている図だ。けれど、そんなことはどうでもよかった。
私は両手を床に突いて、未だに状況を把握しきれていないらしいカミロを真っ直ぐに見下ろした。
「レ……」
「カミロ! 一度目の人生の時、ずっと気にかけてくれたことも、私が牢に入れられた時に助けに来てくれたことも、本当に嬉しかった。ありがとう!」
私の勢いに圧倒されて、何かを言いかけていたカミロは思わず口を噤んだ。
入学式で彼を見つけてからずっと、言いたくても言えなかったこと。ようやく言えた。
「あと、私は、悪女なのっ……!」
そうして私は、とてもとても酷い理屈を並べ始める。
「悪女だから、私は私にとって都合のいい選択をするの。悪女だから、私の大切なもの以外は、どうなったって構わないの。だから、だからっ……!」
結局のところ、私はガリ勉地味眼鏡になりきれなかった。
中途半端で愚かで、平和ボケしていて。大切な人が傷ついていると知ったら朝まで待てないような、ただの考え無しだった。
「カミロが一度目の人生で、誰を何人殺していようが、どうでもいい!」
そう、この人を守るためならば。
最低だった一度目の私だって、言い訳に使ってやる。
私は大きく息を吸って、床に突いた両手を握りしめ、ありったけの想いを吐き出した。
「そして絶対に、今度こそ生き抜いて見せる! 私はこの先、しぶとく長生きして……カミロが良い人生だったって言いながら死ぬように、見張っていてあげるんだから!!!」
言い切ってしばらく、私は荒い息を整えるのに必死だった。
私のめちゃくちゃな言い分が部屋中に響き渡り、余韻までもが消え去るまでの間、カミロは白昼夢でも見たような顔で絶句していた。
……あれ。沈黙、長くない?
もしかして引かれた? せめて何か言ってほしい。文句でも何でもいいからお願い!
心の中で祈った時、室内の静寂を裂くようにノックの音が響いた。
カミロはふと瞳を揺らすと私の体をそっと起こし、ここで待っているようにと言い残して部屋を出て行った。
扉の外で何やら話し声が聞こえる。カミロはすぐに戻ってきて、私の前にあぐらをかいて座り込んだ。
「隣の奴だった。なんか騒がしいけど大丈夫かってさ。水晶玉での会話が盛り上がっただけだって言っておいたよ」
わ、わあ! なにそれ、恥ずかしい!
なんだか急に正気に戻ってきたかも。夜に押しかけて一体何してるのかしら、私ったら。
頬に熱が集まるのを感じながらも謝罪をすると、カミロは良いんだと言って首を横に振った。
「でも、そうか。悪女か……」
その瞬間に彼がこぼした苦笑は、とても柔らかいものだった。
二人して床に座り込んで、誰が見ても珍妙な状況だと思うだろう。頭の片隅でそんなことを考えついたら何だか可笑しくなって、私もまた同じように笑った。
「最低でしょう。呆れた?」
「いいや。随分と健気で寛大な悪女が居たものだと思ってさ」
カミロは憑き物が落ちたような顔をしていた。よく見ると未だにマルディークのユニフォームを着ていて、恐らくはあれから他事が手につかないくらい悩んだのだろうと想像がついてしまい、胸が痛んだ。
「なあ、レティ」
若草色が私を射抜く。この目をしている時のカミロに誤魔化しが通用しないことを、私はよく知っている。
「本当に、一生側に居ていいのか」
何を言われるのか身構えていたのに、当たり前のことを聞くから拍子抜けしてしまった。
さっき言ったでしょって、言いたかったけど。カミロの眼差しが懇願の色を纏っていて、きっともう一度聞いて確かめたいんだろうと理解できてしまったから、私は気恥ずかしさを押し殺して口を開いた。
「当たり前じゃない。……け、結婚、するんでしょ」
ちょっとだけ吃ってしまったのを恥じているうちに、伸びてきた腕に引き寄せられていた。
突然のことに驚きはしたけれど、心地の良さが勝るのだから不思議だった。
力は強くとも縋り付くような儚さを含んだ腕の中で、私はゆっくりと目を閉じる。
「レティ……レティ。今まで、嘘をついていて、ごめん」
濡れた囁きが落ちてきて、小さく首を横に振った。
謝るようなことじゃない。私はただ、貴方にずっと守られていたことを思い知っただけ。
広い背中に手を回してそっとさすってみれば、抱きしめる力がますます強くなった。
「泣かせて、ごめんな……!」
また首を振る。そういえば目が腫れたまま来てしまったけど、あっさり見抜かれていたのね。
本当によく見てくれているなと思い至れば何だか幸せな気分になって、私はそっと笑った。
「私ね。カミロが幸せなら、それでいいの」
そんなにおかしなことを言ったつもりはなかったのに、耳元で微かに息を呑む音が聞こえた。
婚約した時に一番初めに思ったこと。
もし私に幻滅したら、婚約破棄してもらって構わない。カミロには絶対に幸せになって欲しいからって。
でもこの考え方は間違いだったみたいだ。
カミロはきっと婚約破棄なんて望まない。何より、私こそが構わないだなんてもう思えなくなってしまった。
だからこれからは、私が側に居てこの人のことを幸せにしよう。
「約束するわ。もう二度と、私はカミロを置いて行ったりしない」
伝えたいことを全部伝えた瞬間、腕の力が信じられないような強さになった。
流石に苦しかったので背中を叩いて抗議したら、ごめんと言って解放してくれた。けれど見上げたカミロがあまりにも幸せそうに微笑みながら瞳を潤ませていたから、私も少し泣いてしまった。
それから、ぽつりぽつりと、一度目の人生の思い出話をした。
女子寮の門限が来るまでの短い間だったけれど。
優しく幸福な時間を過ごすうちに、私達は涙を引っ込めて微笑み合うのだった。