夏休みは終わり、波乱の予感
「レティ、これを」
あれは動物園から帰ってきて、侯爵家の前で馬車から降ろしてもらった時のことだ。
カミロが何やら紙袋を差し出してきたので、私は驚きつつも受け取った。
「え、そんな、どうして?」
「一つくらい記念になるものがあってもいいかと思って」
何でもないことのように言って笑うから、また胸が大きく弾んで苦しい。
いつの間に買い物をしたのかしらとは思っていたけど、まさかプレゼントだったなんて。
「開けてもいい?」
「もちろんだ」
カミロが頷くのに背中を押されるようにして、紙袋の中身を取り出してみる。
姿を現したのは、大好きなクサカバのぬいぐるみだった。
「わあっ、可愛い……!」
つい歓声を上げてしまい、私は自分のはしたない振る舞いに気づいて口を噤んだ。
これ、可愛いと思って見ていたぬいぐるみだわ。
胸に抱えてちょうどいいサイズで、丸っこい形と緑色のふわふわの生地が魅力的だと思ったのよね。
けど日傘もあるから荷物になるし、何より子供っぽいと思われたら恥ずかしいなと思って諦めたのに。
「どうしてこれが欲しいってわかったの?」
「じっと見てただろ。目がキラキラしてるからすぐにわかった」
カミロは揶揄うでもなく、ただ愛おしげに微笑んでいる。
ふわふわと足場が定まらないようなこの感じは何だろう。
心の中が筒抜けだったことが恥ずかしくて仕方がないのに、それに気付いてプレゼントしてくれたことが心の底から嬉しいと思う。
「ありがとう、カミロ。凄く嬉しい。大切にするわね」
私は平和な顔をしたぬいぐるみを胸に抱き締めた。
今日のことは、きっと一生忘れることはないだろう。
*
……とまあそんなことがあったので、私の自室にはクサカバのぬいぐるみが鎮座している。
私はつぶらな瞳と見つめあった末、革のトランクの隅にその緑色の塊を詰め込んだ。
「ちょっと窮屈だけど、しばらく我慢してね」
夏休みは終わり、今から私はアラーニャ学園へと戻るのだ。
大切だからこそ置いて行こうかと迷ったけど、やっぱりこの丸いシルエットを見ると癒されるので持っていくことにしよう。
地味なブラウスにいつものおさげと眼鏡をかけて準備万端。するとメイドがやってきてトランクを持ち上げてくれる。
部屋を出て玄関に向かうと、家族全員が大集合していた。
「レティ、私は寂しい! 元気で暮らすんだよ」
半泣きのお父様にぎゅうぎゅうに抱きしめられる。苦しい。
「レティ、体に気をつけてね。頑張りすぎなくていいんだから」
いつも明るいお母様もちょっと寂しそう。うう、駄目だわ。そんなお顔を見ると、涙腺が。
「おねえさま……行っちゃうの?」
そして薔薇色の瞳を潤ませて見上げてくるサムと目を合わせたら、何だかたまらなくなってしまった。
「サム、元気でね……! また冬には帰ってくるからね」
「ふえっ……おねえさま〜!」
姉弟で泣きべそをかきながらひしと抱き合う。
後ろでお父様が寂しそうに肩を落としているのは気にしない。どうせお母様が背中を撫でて慰めるから、やっぱり問題ないのだ。
さて、この国には魔列車というものが存在する。
魔法を動力にして動く巨大な鉄の塊であるそれは、一般市民から貴族まで幅広く利用されている交通の要だ。
この魔列車に乗れば、王都の真ん中から学園の最寄り駅まで約2時間で着くのだからありがたい。
ちなみに、私はこれでも名門貴族の娘なので、一等車両のボックス席を予約している。
アロンドラと同じ席を取るのもいつものことで、私は友人と過ごすこの短い旅を楽しみにしていたのだ。
「アロンドラ、久しぶり!」
ドアを開けると、席には既にアロンドラが乗り込んでいた。
久しぶりの友人の姿に笑みが溢れる。けれど以前会った時に夏休みの充実を語っていたはずのアロンドラは、どこか様子がおかしかった。
何かに思い悩んでいるような固い顔。いつも無表情な子だからわかりにくいようだけど、大事な友達の変調を見逃す私ではない。
「レティシア。久しぶり」
挨拶をする声にも覇気が感じられない。私は心配になって、対面に腰掛けながらも注意深く水色の瞳を見つめた。
「動物園はどうだった? クサカバは見られたのかね」
「アロンドラ、何かあったの?」
質問には答えずに質問で返すと、アロンドラはしばし瞠目した後、小さなため息をついて苦笑して見せた。
「……魔女殿に話を聞いてきた。なかなか興味深い話がたくさんあってね、有意義な時間だったよ」
がたん、と車体が軋む音を立てて列車が走り出す。
徐々に速度を上げる景色には視線を向ける気にはなれず、いつになく真剣な顔をした友人の次の言を待つ。
「結論から言えば、ヒセラ嬢は魔女かもしれない」
あまりのことに、すぐには返事を返すことすらできなかった。
何も言わない私を置いてきぼりにして、アロンドラは淡々と説明を続ける。
「ヒセラ嬢が王太子殿下と出会った時、何となく瞳が黒くなったように見えた。彼女の目は元々黒っぽいから、見間違いかと思ったが……もしかすると魔女の黒い魔力と何か関係があるのではないかと思い、気になっていた。
実際に魔女殿に聞いてみたところ、魔女は強力な魔法を発動させるときに、目の色が黒く染まることがあるそうだ」
ヒセラ様が、魔女……?
そういえば、夏休みに会った時に、お祖父様のお知り合いの魔女さんに聞きたいことがあるって言ってたっけ。あれはこの事だったの?
アグスティン殿下に出会った時に、ヒセラ様は魔法を使った?
あの局面で使う魔女の魔法なんて、一つしかない。
「ま、まさか……!」
「そうだ。王太子殿下は、ヒセラ嬢の洗脳魔法に掛かっている可能性がある」
私はぽかんと口を開けた。間抜け面を晒しただろうけど、もはや少しも気にならなかった。
え。
……え?
「えええええええ⁉︎」
「しっ、声が大きい」
アロンドラが口元に人差し指を当て、窘めるように言う。
その仕草が珍しくて可愛かったので、私は少しだけ正気を取り戻した。
「え、ちょっと待って、じゃあ……!」
「一度目の人生でも、王太子殿下は洗脳されていたのかもしれないな」
「ええー⁉︎」
今度は小声で叫ぶことに成功したけど、驚きが冷める気配はない。
そんな、そんなことってあるの⁉︎
「なんていうか、だとしたら簡単すぎない? アグスティン殿下は国内でも有数の魔力量で天才のはずでしょう?」
「魔女の魔法は一般の魔法とは質が違うから、いくら魔力量が多くても関係ない。ゆえに魔女は魔法を使用することを厳しく制限されているし、特に洗脳魔法を許可なく使用した場合は最高で極刑もあり得る」
そうだ、そうだったわ。
魔女の力は脅威になる。だからこそ最高刑を適応することで見えない糸で縛り、世間に漂う恐怖感を緩和させたことで、ようやく魔女は社会に迎合されるようになったのだ。
「魔女殿に話を聞いたところによれば、洗脳魔法にはかけられる側の感情も必要になるらしい。要は、王太子殿下がヒセラ嬢に最初から好感を抱いていない限り、うまくいかないのだそうだ」
「かけられる側の、感情……」
それについては、多分あったんじゃないかと思う。
一般生徒のハンカチなんて、アグスティン殿下は拾わない。それなのに拾ってあげたのは、すれ違ったヒセラ様の美しさに、既に魅了されていたからではないだろうか。
「じゃあ、ヒセラ様はそうまでするほど、アグスティン殿下のことが好きだった、ということ……?」
「さてな。話したこともない人間の心など、私に解ることではないよ」
アロンドラは興味がなさそうに肩をすくめたけど、私はどうにも気になった。
ヒセラ様がそこまでアグスティン殿下を想うのなら、私のことはさぞかし邪魔だったことだろう。
私を極刑に追い込んだのも彼女の仕業だったのかもしれない。ひどい話だと思うけど、そこまで腹を括っているのはある意味すごい、のかも。
「レティシア、君、また甘いことを考えているな」
アロンドラが水色の目を眇めて咎めるように言った。やだ、なんでバレてるの?
「今回のことは国家転覆に関わる重大案件だ。ヒセラ嬢が何を考えているのかわからない以上、あの二人が婚約すればいいなどと呑気に構えている場合ではなくなった」
「それはそうね。ただ、証拠もなく王族が魔女に洗脳されたと騒ぎ立てれば、私たちが不敬罪で逮捕される可能性があるし……」
ものすごく大変なことになっているかもしれないのに、身動きが取りにくいという最悪の状況だ。
一体どうすればと頭を抱えたくなったところで、アロンドラがにんまりと笑った。
「我々で洗脳の有無をハッキリさせる。ここはカミロ殿とエリアス殿下にも協力を要請しようではないか」
……あの、ちょっと、お嬢さん?
魔女の魔法が間近で見られるかもしれないからって、随分と楽しそうですね⁉︎
まあでも、確かに。論より証拠って言うし、まずは私たちだけで調査するのは必要なことなのかもしれない。
「面白くなってきた。王太子殿下なんぞどうなっても構わないのだが、洗脳済みの国王など笑い話にもならないからな」
「もう、アロンドラったら」
アロンドラはいつものように適当に括った薄桃色の髪を揺らして笑っていた。
だから彼女の悩みが別のところにあるだなんて、この時は気付きもしなかったのだ。