動物園デート ②
気配を消すために息を止めていたら、アグスティン殿下はあろうことか私のすぐ隣に腰掛けた。
休憩所は歩き疲れた人で賑わっており、殆ど席が空いていなかったのだけど、たまたま私のすぐ隣のテーブルから家族連れが立ち去ったところだったのだ。
大丈夫、落ちつくのよ……!
アグスティン殿下は地味眼鏡女の素顔を知らないはず。だからカミロが帰ってこない限り、私がレティシアであるとバレることは無い!
ちらり、とアグスティン殿下の横顔へと視線を滑らせる。
どうやら私のことを気に留める気配はない……と思ったのに。
ふとこちらを見た殿下と、ばっちり目が合ってしまった。
殿下は一瞬だけ惚けたような顔をしたのだけど、やがて小さく微笑んで見せた。
「……貴方お一人か?」
は、話しかけてきた⁉︎ いやああああ!
心の中でだらだらと冷や汗をかく私は、なんとか外交用の笑みを浮かべるべく表情筋に全神経を集中させた。
カミロはもし声をかけられても無視しろって言っていたけど、プライドの高いアグスティン殿下を無視したら、その方がややこしいことになりそう。
「い、いいえ。婚約者と参りましたの」
「ほう。貴方のような美しい人を置いていくような婚約者か」
アグスティン殿下が皮肉げに笑う。その言葉と笑みに「婚約者」を蔑む意図を感じ取った私は、笑顔を貼り付けたまま両手を握りしめた。
「私が立ちくらみを起こしたので、飲み物を買いに行ってくれているのです」
「なるほど、そういうことなら仕方がないな。……貴方は貴族の御令嬢だろうか? 名前を教えては貰えないだろうか」
………はい?
奇妙な質問をしてきたアグスティン殿下を訝しく見つめ返す。そのサファイアブルーの瞳は特に裏を感じさせることもなく、熱心に私を見つめている。
「ええと、何故でしょうか?」
「男が女に名前を聞くのに理由がいるのか?」
まさか。
もしかしてこれ、口説かれてるの、私?
そういえば、ヒセラ様とうまく行っていないって、エリアス様が仰っていたっけ。さっきは揉めつつ別れてきたみたいだし。
「……ふ」
今の状況を理解したら、つい馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった。
そっか。そっかあ。
こんな人だったかな。目の前の恋が上手くいかないからって、終わらせもせずに投げ出して他の女性に声をかけるような。
ほんと、馬鹿みたい。私って見る目がないわね。
でも、今こうして気付いてみれば、さっぱりとした気分にしかならないわ。
「たまたま見ていたのですが、恋人さんとこちらにお越しでしょう? それなのに他の女性に声をかけるなんて、あなた最低な人ですね」
私は笑顔で断りの言葉を並べ立てた。
まさか返す刀で斬りつけられるとは思っていなかったのだろう、アグスティン殿下は真っ白な顔色になってぽかんと口を開けている。
「私には大切な婚約者がいるので、名前はお教えできません。ちゃんと目の前の人を大切にして下さい」
言うだけ言った私は、呆然としたまま動かないアグスティン殿下を置いて歩き出した。
言い逃げって卑怯だとは思うけど、止まらなかった。
日傘を差したほうがいいことも忘れ、震える足で必死に早歩きをする。
……怖かった。
アグスティン殿下と相対すると、どうしても殺された時のことを思い出してしまう。
ぶるぶると震える両腕を押さえつける。
休日の動物園は午後3時を過ぎた今でも賑わっていて、楽しそうに笑う人々の中で私だけが異質だった。
カミロは飲み物をどこまで買いに行ったのかしら。確か近くにジューススタンドがあったと思うけど、こっちの道で合っている?
会いたい。カミロ、どこに行ったの……?
「レティシア⁉︎」
今一番聞きたかった声に名前を呼ばれて、弾かれたように振り返った。
この時の私は多分迷子の子供みたいな顔をしていたと思う。
カミロは目を丸くして、ジュースの瓶を両手に持ち、表情が確認できるギリギリの距離で立ち尽くしていた。
「どうして歩いてきたんだ? 体調は? ごめん、飲み物を売ってる店が混んでて——」
焦ったように言いながら歩いてくるカミロに向かい、私は駆け出す勢いのまま抱き着いた。
私の突然の行動にも飲み物をこぼさなかったあたり、流石は竜騎士だと思う。
ただ低く息を呑む音だけが鮮明に響いて、私は広い背中に回した腕に力を込めた。
「……レティ?」
震える声がつむじに落ちてくる。
カミロは片方の手に2本の瓶を纏める時間を取ると、空いた方の腕で抱き返してくれた。
温かい。強張っていた全身の力が、嘘みたいに抜けていく。
「どうした……何か、あったんだな?」
今しがた起きたことは、カミロにも話しておくべきだ。
それなのに上手く言葉が出てこない私は、今更のように抱きつくなどという奇行に走ったことが恥ずかしくなってきた。
置いていかれた子供みたい。いくら安心したからって、こんな公衆の面前で何やってるの。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫だから……!」
私は身を捩ってカミロから離れようとした。けれどますます抱きしめる腕は力を増して、厚みのある胸に顔を押し付けられてしまう。
「カミロ……?」
「震えてる。一人にしてごめんな」
カミロの腕は力強く、先程まで安堵ばかりをもたらしてくれたのに、今は胸を痛いほどに鼓動させた。
それでも何故だか離れ難くて、私はほんの少しの間そのままでいることにしたのだった。
結局のところ、私はカミロに帰路に就くことを提案した。
本当はもう少しだけ動物たちを見たかったけれど、殿下と遭遇する危険があるのだから仕方がない。
そうして公爵家の馬車に乗り込んでしばらく、アグスティン殿下と会ったことについて伝えると、対面に腰掛けたカミロはその顔をまるで戦いに赴く騎士の様に厳しくした。
「……それで? 名前を聞かれて、何て答えたんだ」
「婚約者がいるから教えないって言ったわ」
何だろう。凄く、怖い顔。
「本当に、良かったのか……? いや、レティがどう思っても、俺は」
カミロは目を合わせないまま、低い声で何かを呟いている。思い詰めた様にも見えるその表情に、私はまず心配になった。
「カミロ? あの、どうし」
問いかける言葉は不自然に途切れた。何故なら、有無を言わさぬ腕に引き寄せられて、カミロの膝の上に乗せられてしまったからだ。
少しだけ低い位置にある若草色の瞳が暗く輝いている。
突如として近付いた距離に全身が酷く脈動して、私は顔が真っ赤になるのを自覚した。
「レティ」
「えっ、な、何……⁉︎」
ま、待って待って待って!
重くないの? というか、近すぎて心臓が! 心臓が、もたない!
「キスがしたい。いいか」
「へ……⁉︎」
熱を帯びた瞳に射すくめられた私は、残念なことに色気のない声を上げた。
そんなことを聞かれるとは思わないじゃない。だって、最初の時は……!
「前は何の断りもなくしたくせに、なんで今回は聞くの⁉︎」
「君の許しが欲しい。レティが俺を選んでくれたんだって、実感したいんだ」
カミロは絞り出すように囁いて、私の首筋に顔を埋めた。
それ以上のことは何もなかったのに。鎖骨に触れた息が、腰に回された手が熱くて、全身に力が入ってしまう。
どうしよう。声、出ない。
良いのに。
カミロなら、何をされたって——。
「レティは……どうしてこう、触れると急に固くなるんだ」
それは傷ついたように擦り切れた囁きだった。
私は瞑っていた目をそっと開けて、視界を埋める赤い髪をただ見つめた。
「今日は、あんなに笑ってくれたのに。俺と違って経験がない訳じゃないだろう? 何せ、君はかつて結婚していたんだから。
それなのに、こうして身を縮めるのは、相手が俺だからなのか……?」
すぐには何を言われたのか解らなかった。
ぼんやりとする頭で必死に考えるうちに、どうやら重大な誤解をされているらしいと思い至った私は、まず大きく息を吸った。
「ち、違うっ……!」
想像よりもずっと大きな声が出た。冷静を失った勢いで、広い背中をバシバシと叩く。
何とか身体を起こしてもらい、切なげに細められた瞳を正面から見つめた。
嫌だ。カミロにそんな誤解をされたままなんて、絶対に嫌。
「アグスティン殿下は、私に指一本も触れなかったの!」
考えてみれば一度目の人生でもこのことについて伝えたことはなかった。
当時はとても惨めで口に出せなかったから。
今は特に重要なことだと思い至らなかったから。
こんなことのためにカミロを傷つけて、私、最低だわ。
「だ、だから、慣れてないの! 完全な初心者なの!」
「……え」
カミロが呆然と呟くので、私は輪をかけて必死になった。
「つまりカミロだからってことではなくて……! ただ緊張してるだけなんだってば!」
いいえ。むしろ、カミロだからこそ緊張しているような。
私は何故なのかを考えてみようとしたのだけど、カミロがじわじわと顔を赤くしていくので思考を中断した。
「……本当なのか?」
「本当よ。本当」
うう、自分が如何にモテないかを明かすのって辛い。だけど誤解だってわかってくれるなら。
「カミロは、恋人はいなかったの?」
「ああ、いない。今まであまり興味がなかったし、一度目の時はレティシア以外どうでも良かったからな」
カミロはあっさりと頷いた。話の流れを汲むに、結婚もしていなかったのだろう。
彼に一人の人生を強いたのは私なのだ。
それなのに、どうして?
張り裂けそうな程の喜びを感じるだなんて。
「私もよ。恋人なんて一度もできたことなかったの」
息苦しさを苦笑で誤魔化すも、カミロは茹で蛸みたいに真っ赤になって言葉を失ったみたいだった。
う、とか、え、とか意味のない音を呟き、気まずそうに視線を漂わせた末、大きなため息を吐く。
「ごめん。俺、余裕なくてかっこ悪い。最低だ……」
言いつつ、また私の肩に顔を埋める。後悔に満ち溢れたその声に、私は逆に冷静を取り戻して、硬い背中をそっと撫でた。
「そんなことないわ」
かっこ悪いだなんて思わない。それだけ私がカミロのことをわかっていなかったってことだもの。
カミロと婚約してからは、あまりにも目まぐるしい日々だった。
けれど決して嫌ではなくて、むしろ温かくて、幸せで。
今までに少しはカミロのこと、知ることができたのかな……?
「レティ。やり直しをさせてくれ」
「え……」
何をと問う言葉はカミロに吐息ごと飲み込まれた。
はっきりしないほど近くに若草色の双眸が見える。唇に触れる熱い感触に、私はようやく口付けられたことに気付いた。
(あ、やり直しって。初めての、キスの……?)
まともに動こうとしない思考回路が答えを紡ぎ出した瞬間、頬がますます熱くなる。
叫び出したいほど混乱しているのに、何故かこの痛いほどの緊張を受け入れたいと思う。
けっきょく許可なんて得てないじゃない、とか。
いつも強引よね、とか。
言いたいことは沢山あったけど、離れて至近距離で見つめ合った時の彼の顔が、あまりにも幸せそうだったから。
私は今度こそ目を閉じた。
三度目のキスは、とてもとても、優しかった。