一度目の人生の記憶〈カミロ〉
黒髪で眼鏡の、大人しそうな女の子。分厚い眼鏡をかけているせいで、どんな瞳の色をしているのか良く見えない。
制服の黒ジャケットと青いリボンはきっちりと締められていて、スカートの長さは短いのが流行っているこのご時世でも膝丈ときている。
まあ、地味って言える外見だよな。間違いなく。
レティシア嬢の印象なんてその程度だったのに、何故か入学時から気になる存在だった。
でも、これで理由がはっきりした。どうして今まで忘れていたんだ?
この人生が二度目であることを思い出したのは、腕の中に抱きとめたレティシア嬢の素顔を見た瞬間のことだった。
レティシア嬢……いや、レティシア。
王城でただ一人不遇な時を過ごしていた悲運の悪女、美しき黒薔薇。彼女の瞳が鮮やかな薔薇色であることを、俺は良く知っている。
学生時代のレティシアとは接点がなかったけれど、華やかな美貌で学園でも人気を集める存在だったはずだ。
それが二度目の人生では清楚と形容するには大人しい格好で、勉強ばかりしている様子なのはどういうことだ?
覚えていた通りに広がる日常の中で、レティシアだけが記憶と一致しない。
ということは。もしかして彼女もまた、一度目の人生の記憶を持っているんじゃないのか?
だからどうにかして未来を変えようと、最初に自分自身を変えたんじゃないか?
それがどうして地味な格好に繋がるのかはよくわからないが、きっとレティシアは覚えているんだ。
悲劇的な結末を迎えた、かつての人生を。
レティシアが学園を卒業するのを待って、王太子夫妻の婚姻の儀は執り行われた。
俺とレティシアは結婚式の時点では接点すらなくて、挨拶した印象としてやっぱり美しい人だなと思ったくらいだった。
しかし、新婚のはずのアグスティンには恋人がいた。
せっかく迎えた奥方なのだから大事にしろと何度もアグスティンに進言したけど、あいつは恋人に夢中で右から左に受け流すばかり。
そんな中でも健気に夫を慕うレティシアは、次第に暴走を重ねていったのだ。
初めて声をかけてもらった時のことはよく覚えている。
結婚式から少し経った頃、御前試合で優勝した時のことだ。あなたの魔法は綺麗ねと言って、レティシアは純粋な眼差しを俺に向けた。
俺は確か「貴方の方がお美しい」と月並みな言葉遊びで返したように思う。レティシアは呆れることもなく、楽しそうに笑っていた。
次の日のことだ。王城を歩いていた俺は、昨日の優勝について噂する一団に遭遇して咄嗟に身を隠した。
「優勝はカミロ様か。まだ19歳だってのに、強すぎやしませんかね」
「王弟殿下の嫡男だ。いくらでも便宜がはかれるだろうよ」
「いいよなあ七光りって。俺も欲しかったですよ」
くだらない陰口には慣れている。今更どうとも思わないけど、一団の中にはそこそこ仲良くしていた竜騎士の仲間がいたから、その時の俺はちょっとだけ堪えた。
いくら努力しても、正当に評価してくれる奴なんてそうそういないのか——。
「おやめなさい。陰口など、名誉ある竜騎士のすることではありませんよ」
凛とした声が聞こえて、俺は小さく息を呑んだ。
恐る恐る柱の影から顔を覗かせると、そこにはひれ伏す竜騎士と、背筋を伸ばして立つレティシアがいた。
「神に誓って、王室は昨日の御前試合で身贔屓などしてはおりません。優勝したのは全てカミロ様の実力です」
綺麗だ、と思った。艶のある黒髪を真珠で飾り、濃紺のドレスを身に纏っている。黒薔薇と謳われるにふさわしい美貌はもちろん、俺のために男たちを諌めてくれた、その勇気が嬉しかった。
「人の努力を笑っては、あなた方の誇りが汚れることでしょう。もうこのようなことは言ってはいけませんよ」
男たちはすっかり萎縮した様子で返事をして、許可を得るや否や早足で立ち去って行った。
レティシアもすぐに歩き出したけれど、俺のいる方に来てしまって、逃げるタイミングを失い顔を合わせるに至る。
「まあ、カミロ様」
「はは、どうも……」
立ち聞きしてごめんと言ったら、レティシアは少し恥ずかしそうに笑ってくれた。
初めての恋に落ちた瞬間だった。
いつしか俺たちはすれ違えば世間話をし、名前で呼び合う友人同士になった。
彼女と二人、中庭の薔薇園に佇んで会話をする。陽の光に照らされて、白い小さな花に囲まれた彼女はいつもより柔らかい雰囲気に見えて可愛らしい。
「アグスティン殿下は梨がお好きなのね。ケーキを作ってみようかしら?」
「うん、いいんじゃないか」
「ふふ。うまく出来たら、カミロにもあげるわね」
「レティシアの手作りか。楽しみにしておくよ」
好きな子の恋を応援するなんて、我ながら自分の傷口に塩を塗り込んでいると思う。
どんなに想っても彼女はいとこの妻で王太子妃なのだ。
手の届くような存在じゃないと絶望している間に数年が経ったけど、レティシアはアグスティンを愛して止まなかった。
ああ、どうして。どうして、俺じゃないんだ?
俺ならその首飾りをした君を見て、世界一綺麗だと称賛しただろう。
俺なら怪しい商人との付き合いなんて止めさせて、自分からお茶の席に彼女を招待しただろう。
俺なら侍女を流刑にしてしまう前に、どうしたって君は綺麗だよと言って慰めただろう。
俺なら、俺は。
こんなに彼女を愛しているのに。
愛人に夢中のクソ野郎なんかと違って、君のことだけを一生大切にするのに。
そして王太子夫妻の結婚から5年が経った頃。
なんの前触れもなく、レティシアは税金横領の罪で捕らえられた。
レティシアへの国民感情が下落する中、俺はなんとかして彼女の罪を晴らそうと動いた。
けれど、だめだった。国王に即位したアグスティンの手腕は凄まじくて、一介の竜騎士が太刀打ちできるような相手じゃなかった。
「……レティシア」
鉄格子の向こうで膝を抱えてうずくまる彼女に呼びかける。
レティシアははっとしたように顔を上げると、俺の姿を認めて小走りで近寄ってきた。
「カミロ! どうしてここに?」
薄汚れた麻のワンピースに、艶やかな黒髪を一つに括っただけの髪型。それでも輝きを失わない彼女の薔薇色の目が愛おしくて、狂おしい。
「君を逃しに来た」
計画なんてものはどこにもなかった。
竜騎士としてやってきた人脈と、金に物を言わせてここに潜り込んだ。あとはレティシアを連れて追撃を振り切り、竜に乗って逃げるだけ。
逃げおおせるだけの自信はある。だからレティシア、俺と——。
「……私は、両親を置いて逃げたりできない。それに、貴方もこんな罪人と関わっては駄目よ」
薔薇色の瞳から輝きが失せる。力なく首を振ったレティシアは、笑みを浮かべてすらいた。
「私は王妃だもの。釈明もせずに逃げたりするわけにはいかないわ」
駄目だ、レティシア。
君は税金を使いすぎたかもしれないが、決して横領なんてしていないだろう。
このままでは失脚し、まともな人生は望めない。最悪、二度と牢から出られないかもしれないんだぞ。
「レティシア、だがっ……!」
「大丈夫よ。誤解だって、きっと陛下もわかって下さるわ」
レティシアの微笑みはあまりにも純粋で、夫への想いに満ちていた。
俺は頭を殴られたような衝撃を受けて、無様にも言葉を失ってしまった。
……そうだな。君は、決して悪女なんかじゃない。
ただアグスティンのことが好きなだけの、愚かで可愛らしい、この国の王妃だ。
俺なんかが君の手を取ることは、初めから許されないことだったんだ。
「……わかった。きっと裁判では力になるよ、レティシア」
「ありがとう、カミロ。……助けに来てくれたこと、嬉しかったわ」
そう言って微笑んだレティシアが最期の姿になるだなんて、この時どうして想像できただろう。
牢を出た俺は近衛騎士に拘束された。もともとは騎士達に囲まれた中をレティシアを連れて突破するつもりだったのだが、こうなっては彼らを無闇に傷つけるわけにはいかない。
数日間の謹慎処分が言い渡され、俺は一刻も早く処分を終えるために模範的に過ごした。
その間に、レティシアは断頭台に消えた。
救えなかったことをどれほど後悔したことだろう。
国王への反逆罪だって? レティシアはそんなことしていない。するはずがない。
あの時、強引にでも連れ出せば良かった。処刑されてしまうという悲劇をほんの少しでも想像していたなら、あんな冷たい牢獄に置いてきたりはしなかったのに。
世界の全てが灰色になって、昼も夜もわからなくなった俺は、深い絶望に沈んで戻って来られなくなった。
レティシアは確かに過ちを犯した。税金を過剰に使い、国民を蔑ろにした。
だが人の命を奪ったわけじゃない。最初に不実だったのは、彼女を傷つけたのは、アグスティンの方だったじゃないか。
ああ、だけど。一番愚かなのは、俺だ。
竜の背中から飛び降りたのは王城のとあるバルコニー。風の魔法を使って窓をぶち破ると、絹を裂いたような悲鳴が鼓膜に突き刺さる。
灯りの消えた寝室のベッドの上で睦み合っていたのは、この国の国王と、まんまと王妃の座に収まった女だ。
「カミロ……⁉︎ お前、何を」
「さよならだ、アグスティン」
もはや何の感情も得ることが出来ずに、俺は無造作に剣を振るった。
不快な鉄の匂いが広い寝室に充満する。断末魔すらなく掻き消えた二つの命を前に、俺はひきつれたような笑みを漏らした。
ああ、本当に愚かだ。きっとレティシアはこんなこと望んでいない。こいつらを殺したって、もう二度と愛しい人は戻ってこないのに。
騒ぎを聞きつけた近衛兵たちが駆けつけてくる。俺は初めから抵抗する気なんて少しもなかったので、あっさりと剣で胸を貫かれることになった。
だって、レティシアのいない世界なんて虚しいだけだろう?
なあ頼むよ、神様。
俺のことはどうなっても構わないから、どうかこの罪人の願いを聞いてくれ。
次の生でこそ、レティシアが幸せになれますように……。
——それなら、あなたが幸せにしてあげればいいじゃない。
透き通るような声が、聞こえた気がした。