動物園デート ①
カミロが迎えに来たとの報せは、ちょうど玄関へと出ようとした時にもたらされた。
お父様は仕事で不在なので、お母様とサムエル、そしてメイドたちが見送りのために玄関に立っている。
カミロが両開きの扉から現れたのはすぐのことだった。
ストライプの長袖シャツに、紺色のダブルベストと揃いのスラックスを履いている。洗練された装いがとても似合っていて、私は一瞬だけ挨拶の言葉を忘れてしまったのだけど、この後のカミロの行動は更にとんでもなかった。
目が合うなり私の腰を引き寄せたかと思ったら、額に触れるだけの口付けを落としたのだ。
瞬間的にメイドたちから黄色い悲鳴が上がったけど、私は弾け飛んだ心臓のせいで周りを気にする余裕を失っていた。
「俺の婚約者殿は世界一綺麗だ。白も似合うだろうと思ってた」
う、うう……。今日は茫然自失とはいかなかったんですね……?
そんな風に溶けそうなほど甘い瞳で笑いかけられたら、息ができなくなってしまう。
何だか最近、カミロと居るとますます落ち着かない。胸がギュッとなって痛いというか……覚えのない感覚は戸惑いをもたらすばかりだ。
「まあ、仲良しね〜」
そうだ、お母様もいらっしゃるんだったわ! 恥ずかしくて後ろが振り向けない!
「ベニート侯爵夫人、本日もご機嫌麗しく。レティシア嬢を動物園にお連れしに参りました」
「ご機嫌ようカミロ様。どうぞ娘をよろしくお願いいたしますね」
「もちろん、命に代えてもお守りいたします」
爽やかな笑顔で放たれた社交辞令が、本気の重みを含んでいるように聞こえるのは気のせいなのだろうか。
「サムエル、お姉様を借りるぞ。良いかな」
カミロはにこりと笑ってサムエルにも声をかけてくれた。
カミロが礼を尽くしているのに、家族とはいえ私が失礼な態度を取るわけにはいかない。観念して背後を振り返ると、一瞬だけサムエルが変な顔をしていたように見えた。
例えて言うなら恨みがましい顔、かしら。可愛いサムがそんな表情をするはずないのに、変な幻を見てしまったわ。
「……おねえさま、僕もどうぶつえんに行きたいな〜」
「まあ、サムも?」
サムエルが同じ薔薇色の瞳で見上げてくる。
もちろん私はサムと一緒に動物園に行けるなら嬉しいけど、今日はカミロと先に約束しているし、どうしよう?
困り果てた私は、カミロがその顔に絶望を浮かべたことに気が付かなかった。
「あーら駄目よサム、デートの邪魔をしてはいけないわ」
カミロに相談しようと口を開きかけたところ、お母様が歌うように言ってサムの頭を撫でた。
「さあ、二人ともいってらっしゃいな。サムはお母様と遊びましょうね」
サムエルは不満そうにしていたけど、お母様の押しの強さは有無を言わせぬものがあった。
メイドたちによる「いってらっしゃいませ」の大合唱を背中に、私とカミロは外へと送り出された。
その途端に蝉の鳴き声が心地よく響き始める。夏の日差しは熱いけれど、空気が乾いて気持ちがいい。
……お母様。気を利かせてくれた、のよね?
サムには悪いことをしてしまったし、気恥ずかしいけれど。
せっかくこんなに綺麗にしてもらって、みんなが送り出してくれたんだから、目一杯カミロと楽しんでこないとね。
「行こうか、レティ」
「……ええ!」
セルバンテス公爵家の馬車に揺られることしばらく、動物園に到着した私たちは早速中へと入ることにした。
平日とはいえ夏休み中の現在、日傘の下から見る園内は沢山の人で賑わっていた。
特に目立つのは親子連れとカップルの姿だろうか。太陽に照らされた開放的な空気に触れているだけで、自然と楽しい気分になってくる。
「念願の動物園! とっても嬉しいわ……!」
私ははしゃぐ気持ちを抑えきれずに歓声を上げた。
記憶を取り戻す前に両親に連れてきてもらったことはあれど、幼い頃の話なのでどんな場所だったのかは殆ど覚えていない。
一度目の人生の時から憧れていた動物園に、ついに来ることができたのだ。
「ねえカミロ、どこに行く?」
「レティの行きたいところに行こう」
「まあ、良いの? それなら、それならね、クサカバが見たいわ!」
クサカバというのは、水辺ではなく草原で暮らすカバの一種である。綺麗な緑色をしていると聞いたことがあって、ぜひ見てみたいと思っていたのだ。
「早く行きましょ!」
私はそう言って歩き出そうとしたのだけど、カミロがすっと手を差し出してくるので足を止めた。
「お手をどうぞ。クサカバのところまでお連れしましょう」
冗談めかした言い方だったのは、彼も照れていたのか、私が手を取りやすいようにとの気遣いだったのか。
しかし事ここに至って、私は差し出された手を見つめたまま立ちすくんでしまった。
どうしよう。男の人と手を繋ぐのなんて、初めてだわ。
「レティ?……ごめん、嫌なら良いんだ」
婚約者の態度に勘違いしたカミロが、寂しそうに笑って手を引っ込めようとする。
私は慌てて日傘を持ってない方の手を伸ばして、大きな手をがっしりと掴んだ。エスコートと言うよりも鷲掴みって感じになってしまったけど、構っていられない。
「違うの! 初めてだったから、狼狽えてしまっただけで。嬉しかったの。ありがとう、カミロ……」
言葉を紡ぐごとに恥ずかしくなってきて、私は赤くなった顔を地面に向けた。
しかし中々カミロから反応が返ってこない。不安になってそっと顔を上げると、そこには自身の髪の色に負けじと顔を赤くしたカミロがいた。
「なんでカミロまで赤くなるの⁉︎」
何だか両者の照れが掛け合わさって倍になっている気がするんですけど……⁉︎
「いや、だって……レティが可愛すぎるから。ああ、くそっ。反則だろ……」
何だかボソボソ言っているけど、声がくぐもっていて聞き取れない。
聞き返そうとしたところで、カミロは私の手を引いて歩き出してしまった。
大きな手だった。マルディーク部を辞めても鍛錬は欠かしていないのだろう、手の内側が硬くなっている。
何だか本当に、落ち着かないわ……。
クサカバはそれはもう可愛らしかった。
本当に草原のような色をしていたのだから驚いた。
人間の何倍もある巨体をゆったりと揺らしながら歩く様は、癒されるとしか言い表しようがない。
「もう、可愛い〜! 何時間でも見ていられるわ!」
「ああ、本当だな。独特で面白い」
カミロも感心したように頷いている。
とは言っても、まだまだ見所は山のようにあるからどんどん端から見ていかないと。
「ねえ、カミロは見たい動物はないの?」
「俺はカルガワニかな。世界で一番でかいワニらしい」
「それは凄そうね。早速行きましょ!」
カミロの腕を掴み、先んじて歩き出す。エスコートされる側の態度じゃないことはわかっていたけれど、カミロが楽しそうに笑っているのを良いことに、勝手に足が動くに任せることにした。
広い園内を歩いても、少しの疲れも感じなかった。
沢山の動物を見て、昼食を取って、また歩く。
そういえば記憶を取り戻して以来、こんな風に遊ぶことなんて殆どなかったかもしれない。
ただただ楽しくて、時間なんて気にもならなくて。
こういうひとときのことを幸福と言うんだろうって、ごく自然にそう思った。
カミロもよく笑っていたけど、楽しいと思ってくれているのかしら。
……そうだといいな。
小動物がいるエリアは触ってもいいことになっていて、私はふわふわの毛玉たちに心臓を撃ち抜かれたところだった。
ひくひくと動く鼻先に誘われるようにしてしゃがみ込む。
ああ、可愛い。ちまちました動きが本当に可愛い!
「ねえ見てカミロ、アオメウサギ!」
私は青い目をしたウサギを胸に抱いて、カミロの方を振り向いた。
すぐに可愛いって同意してくれると思っていた。けれどカミロはどこか茫洋とした表情をして、じっとこちらを見つめている。
「どうしたの?」
「……いいや。こんなに幸せなことはないなと思って」
予想だにしないことを言われて息を呑んだ隙に、アオメウサギは私の腕の中からすり抜けて行った。
私はしばらくの間、切なさと幸福が混ざり合った笑みをじっと見つめていた。
周囲の人たちは小動物に夢中で、こんなところに来てまで見つめ合う二人を不審に思うことは無い。
楽しそうなふれあいエリアの中、私たちの時だけが止まる。
一度は死んだ私と、確かにここに息づく動物たち。
カミロの乾いているのに泣きそうな目を見れば、私が生きていることに対しての言葉であることは間違いないような気がして。
胸が詰まって、喉が焼けるように痛くなった。
「あ……わ、私」
ようやく絞り出した声が震えていたけれど、私は何の言葉の用意も無いまま立ち上がった。
カミロも、幸せなの?
私もよ。
私も、少しだけ泣きそうなくらい。
しあわせ——。
「う……」
伝えたかったのに、唐突な立ちくらみを得た私は小さく呻いて額を抑えた。
「レティ、どうしたんだ⁉︎」
カミロがすぐに肩を抱いて支えてくれる。
立ってはいられるけどまだくらくらする。こんなこと滅多にないはずなのだけど、恐らくは日差しに当てられたのだろう。
何せ私は小動物を触るために、日傘を畳んでしまっていたのだから。
「ごめんなさい……ちょっと、はしゃぎすぎたみたい」
「大変だ、すぐ医者に!」
「大袈裟よ。休憩すれば治るから」
私は何でもないとばかりに笑って見せたけど、カミロは厳しい表情を緩めてくれなかった。少しの間押し問答をして、最終的に勝利をもぎ取った私は、ひとまず日陰で休憩させてもらうことにした。
屋根の下に沢山のベンチが設られた休憩所にて、空いている席に座り込む。
そういえば楽しくて忘れていたけど、今日は緊張してよく眠れなかったんだっけ。
情けないなあ。普段勉強ばっかりしているから、一度目の人生の時より体力がないんだわ。
「本当に大丈夫なんだな?」
「ええ、もうほとんど楽になったから」
「……気付かなくてごめんな。俺、浮かれてて」
カミロが鎮痛な面持ちで言うので、私は慌てて首を横に振った。
「カミロのせいじゃないわ。私こそ、ごめんね……」
体調管理すらまともにできない我が身が呪わしい。さっきはカミロに感謝を伝えたかったのに、もうそんな雰囲気ではなくなってしまった。
「それこそレティシアのせいじゃないだろ? とりあえず、何か飲んだ方がいいな。ジュースでも買ってくるよ」
迷惑をかけられている最中だと言うのに、やっぱりカミロは優しい。
「そんな、悪いわ」
「いいから。一人にするのが心配なんだけど、今は日差しの中を歩かせられないからな。すぐに戻ってくるから、知らない人に声をかけられても無視するんだぞ」
カミロは幼児に言い聞かせるように言うと、足早に休憩所を出て行った。
随分と心配をかけてしまったわ。不甲斐ない。
落ち込んだ私は俯き加減でカミロを待った。
しかし少しの時間が経った頃、聞き覚えのある声を聞いた気がして俄に顔を上げる。
「ねえアグスティン様、お土産屋さんを見ましょうよ!」
「私はいい。混んでいる場所は嫌いだ」
「ええー⁉︎ 私一人で行くなんて嫌です!」
何やら揉めているらしい男女が誰であるのかは遠目でもすぐにわかったので、私は全身を硬直させてしまった。
どうして。
どうして、アグスティン殿下とヒセラ様がここに……⁉︎
全身の血の気が引いていく感覚がした。逃げなきゃと思っても椅子にお尻がくっついたみたいに動いてくれなくて、焦りを空回りさせている間にも会話は終わりを迎えた様だった。
二人ともそれぞれ不機嫌そうな顔をしている。
しかもヒセラ様は売店に入って行ったのに、アグスティン殿下はこちらへと歩いて来るではないか。
ちょっと待って。これは本当にまずいってば!