夏休みが始まる
アラーニャ学園は全寮制なので、長期休みになると全ての学生が家族の元へと帰還する。
そして夏休みは社交シーズン真っ盛りのため、殆どの学生が王都のタウンハウスへと直接向かうのだ。
例に漏れず王都にあるベニート侯爵家のタウンハウスへと帰宅した私も、玄関に入るなり家族の大歓待を受けることになった。
「レティ、よく帰ってきた! 待ちかねたよ!」
最初に感極まったように抱きしめてきたのはお父様。エンリケス・ベニート侯爵その人である。
娘の私が言うのもなんだけど、お父様は38歳になられた今も若々しくて抜群にかっこいい。
艶やかな黒髪には少しクセがあって色気がダダ漏れているし、緑色の瞳はいつだって優しげに細められている。
私はお父様のことが大好きなんだけど、この抱擁はちょっと暑苦しい。
「お帰りなさい、レティ!」
お父様の反対側から抱きついてきたのはお母様で、名前をマルティナという。
私の顔立ちはお母様にそっくりで、瞳の色も全く同じだ。今年で36歳のはずだけど、下手したら三十路よりも若く見えるかもしれない。
明るくて気さくなお母様のことも大好き。ただ力が強すぎて苦しくなってきたので、そろそろ解放してもらいたい……。
両親からの熱い歓迎に押し潰されかけた私は、一歩遅れて走り寄ってきた小さな人影を見るや、すぐに活気を取り戻した。
「おねえさま、おかえりなさい!」
「ただいま、サムエル!」
今年で5歳になる可愛い弟が、天使すらも敵わないほど愛らしい笑みを見せるので、私は両親の腕から逃れて小さな体を抱きしめた。
ああ、しばらく見ないうちにまた大きくなったみたい。
愛する弟の成長は嬉しいけれど、ほんの少しの寂しさをもたらしてくれる。
「サムエル、サム……! 会いたかったわ!」
「おねえさま! ほんとうにおねえさまだ!」
無邪気に笑う弟を解放して、二の腕に触れたまま私と同じ色をした瞳を見つめる。
まだまだ幼いから断言できないけど、弟は多分父親似だろう。黒髪の質もお父様とそっくりだから、きっと将来は素敵な青年に育つに違いない。
「私の可愛いサム。この夏はたくさんお姉様と遊びましょうね」
「わーい! おねえさまだいすき!」
柔らかい頬を紅潮させて喜ぶサムを前にして、私は語彙力を喪失した。
……もう一度言っていい? 本当に可愛い!
後ろでお父様が寂しそうに肩を落としているのは気にしない。どうせお母様が背中を撫でて慰めるから問題ないのだ。
ひとしきり家族で再会を喜び合った後、お茶の時間にその話は始まった。
「レティ、セルバンテス公爵閣下と相談したんだが、一度両家で食事の席を設けることになったよ」
構わないねと微笑むお父様に、私は緊張を押し殺した上で頷いた。
そう、こうなることがわかっていたから、ずっと気を揉んでいたのだ。
降って湧いたような婚約話。私の両親は喜んでいるけれど、セルバンテス公爵夫妻はどうお考えなのだろう。
幸いにも家格は釣り合っているとは思うけど、私みたいな地味女じゃがっかりされるかもしれない。
「楽しみね。レティ、わかっていると思うけど当日の装いは私に任せてもらうわよ」
と思っていたら、お母様が薔薇色の瞳を情熱に燃え滾らせているではないか。
……ええと、嫌な予感しかしないのですが。
食事会はセルバンテス公爵家にて、週末に行われることが決まった。
何だか話が早すぎるような気がする。
前々から両家の間で話し合われていたとは言え、この手際の良さはどうしたことか。
戸惑っている間に数日が過ぎ去り、あっという間に食事会当日がやってきた。
「さあレティ、まずはコルセットよ」
「う、あの、待ってくださいお母様……!」
早朝からメイドによって叩き起こされた私は、何が何だかわからないうちに裸に剥かれ、更にはコルセットを装着されたところだった。
一応眼鏡だけはかけているけど、これもどこまで守れることか。
「さあみんな、協力してきっちり締めてちょうだい」
「もちろんですわ、奥様」
お母様の指示を受けて返事を返したメイド達は、揃いも揃って心底楽しそうだ。
統率が取れすぎている。内臓を圧迫される恐怖に慄いたところで、メイドのうちの一人が驚いたように言った。
「お嬢様、お胸が大きくおなりで?」
「え? そうかしら……うぐっ!」
思わず下を向いたところでメイド達の力技が炸裂し、容赦なく締め上げられた私は無様な呻き声を上げた。
確かに王太子妃になった頃の私は結構なナイスバディだったので、だいぶ成長してくる時期だとは思うけど。
今はそんなことどうでもいい……!
「あら、本当ねレティ。前より女性らしい体つきになったみたい」
「お、お母様……! 苦しいです、もう許してください!」
「駄目よ。あなた普段は楽な制服を着ているから忘れたんでしょうけど、本来ならこの十倍は締め上げるものなのよ」
厳しすぎます、お母様!
しかし悲痛な訴えも虚しく、もう少しだけ引き締めたところでようやく解放された私は、今度は若草色のドレスを着せられることになった。
聞かなくてもこの色にした理由がわかってしまい、私は羞恥と戸惑いで真っ赤になった顔をお母様に向ける。
「これは流石に狙いすぎでは……! というか、なぜカミロの目の色をご存知なのですか!」
「セルバンテス公爵夫人にお聞きしたのよ。大丈夫、あなたは控えめだから、狙いすぎるくらいでちょうどいいわ」
話している間にも、メイド達の手によってドレスが整えられていく。
レースを重ねた肩の部分が美しい。腰からふんわりと広がるスカート部分には細い緑色のリボンが飾られていて、清楚な魅力を放ちながらも、開きすぎない胸元が繊細な色気を演出している。
流石はお母様、確かに可愛いドレスだわ。
だけど、だけどね。かつて悪女をやっていた私が着たら、失笑されてもおかしくない清廉すぎるデザインなのでは……!
「まってくださいいい! 紺色のドレスがありましたよね⁉︎ あれにします!」
「だーめ。あんな地味なドレスじゃ殿方をメロメロにできなくってよ?」
必死の抗議はあっさりと叩き落とされ、気付いた時にはドレッサーの前に座らされてしまっていた。
鏡の中、肩越しにお母様のにんまりとした笑顔が映る。
「さてと、これは預からせてもらうわよ」
電撃のように動いた白魚の手に眼鏡が奪われたのは、ほんの一瞬の出来事だった。
メイド達の歓声が上がる。私は唖然としてしまって、ひたすらに鏡の中の間抜け面を眺めていることしかできなかった。
「お嬢様のお顔を久しぶりに拝見致しましたわ!」
「なんてお美しいのかしら!」
「磨きがいがありますわ〜!」
かしましい会話を右から左へ受け流して後ろを振り返る。必死で手を伸ばして眼鏡の奪還を試みたものの、ひらりとした身のこなしに躱されてしまった。
「甘いわねレティ。残念でしょうけど、今日は眼鏡は無しよ」
楽しくて仕方がないと言わんばかりの華やかな微笑みである。
私が地味にしていることを最も不満そうにしていた人だから、今回の婚約によって娘を着飾る大義名分を得たことが嬉しくてたまらないのだろう。
「酷いですお母様! 私の相棒を返してください!」
「駄目よ。せっかく私に似て絶世の美女に生まれたのに、どうして隠そうとするのかわからないわ」
「それは、その……地味なのが好きなんです!」
「そんな理由じゃ駄目ね。良いじゃない、食事会には家族しか出席しないんだもの」
確かにお母様の言い分はわかる。
私の視力は人並み以上なのだから、伊達眼鏡など会食の場で許されるはずがない。
顔の見えないほど分厚い眼鏡なんて相手を拒絶している印象を与えるし、そもそもドレスに合わせるにはあまりにも野暮ったい。
それに一度目の人生ではセルバンテス公爵夫妻とは深いご縁があったわけでもないので、素顔を見られたからといって記憶を蘇らせることにもならないだろう。そもそも私の眼鏡姿をご存知ないということもある。
けれどここまできちんと装って普段と違う自分になってみると、あまりにも心許なかったのだ。せめて眼鏡くらいはと思ってしまう。
「さあみんな、あとはよろしくね。期待しているわ」
「お任せくださいませ、奥様」
上機嫌で部屋を出ていくこの屋敷の女主人に、メイド達がこぞって腰を折る。
振り返った彼女達の目がやる気に満ち溢れていたので、私はついに白旗を上げた。
仕方がない。もうこうなったら流れに身を任せることにするわ……。