テスト勉強〈カミロ〉
テスト週間特有の緊張感が漂う廊下を、俺は早足で歩く。
早く図書室に行ってレティシアに会いたい。しかし逸る気持ちは、何者かによって遮られてしまった。
「カミロ様」
後ろから声をかけられて振り返ると、そこには金髪縦ロールを筆頭にして、三人の女子生徒が立っていた。
……知らない子だよな? 誰だっけ。
「私はラボイ侯爵令嬢ベアトリスと申します」
縦ロール女史が名乗り終えるのを待って、両脇の二人もそれぞれルイシーナとメラニアと名乗った。
うん、やっぱり知らない名前だ。
「何の用だ?」
「実は、夏休みに我が侯爵家の別荘へご招待させていただきたく、お誘いに参りましたの」
ベアトリス嬢が媚びるような笑顔で述べた内容に、申し訳ないが俺はげんなりとしてしまった。
いつもこれだ。長期休みの前になると、この手の誘いばかりに時間を取られて辟易する。
夏休みは社交シーズン真っ只中なので、生徒の多くは前期のうちに遊びの約束を取り付けてから休暇に向かうものだ。
去年は友人達と遊ぶのが楽しくて全部断ってしまったが、今年に関しては別の理由でそれどころじゃない。
何故なら、長期休みのうちにレティシアと少しでも仲を深めたいからだ。
「悪いけど他を当たってくれ。俺、忙しいんだ」
愛想笑いすら出てこないまま平坦な声で言う。
三人の御令嬢が顔を青ざめさせて社交辞令を述べるのもそこそこに、俺はまた目的地に向かって歩き出した。
そうしてたどり着いた図書室の奥にて、レティシアはやっぱり勉強していた。
エリアスの記憶が戻ったのはつい昨日のことだ。その時の俺はレティシアと勉強がしたくてここで待っていたのだが、流石にあの騒動の後に勉強なんて流れにはならなかった。
それにしても、俺が来たことにも気付かないとは。無防備すぎて心配になるけど、好きな人の好きなことを邪魔するのは本意じゃない。
俺はただレティシアと一緒にいたいだけ。
この人のことを二度と失いたくないだけなんだ。
もはや恒例行事のように結界を作り上げる。無関係の学生がここに来て、俺たちが一緒に勉強していると噂になってしまうことは避けなければならない。
正直に言ってこの結界を作るのは結構疲れるんだけど、そうまでしてもレティシアと一緒にいたい俺はちょっとおかしいのかもしれないな。
小さく苦笑してレティシアの斜め前の席に腰掛けると、椅子の音に気付いたのかおさげ頭がピクリと揺れた。
慌てたように上げた顔が、驚きに彩られていく。
「カミロ? ……これ、結界?」
「ああ。レティシアと勉強したかったから、張っておいたんだ」
「わざわざ……?」
首を傾げるレティシアに笑いかけて、鞄から筆記用具と教科書を取り出して机に置く。
頭のいいレティシアに勉強を教えてもらおうなんて都合の良いことは考えていないし、自分の勉強は自分でやるつもりだ。
「カミロもテスト勉強?」
「ああ。俺みたいな中間の順位の奴だって勉強してるんだぞ」
「ふふ。知ってるわ、そんなこと」
冗談めかして言うと、レティシアは楽しそうに笑ってくれた。
ああ、この可愛らしい笑顔を見つめ、再び共に過ごすことができるなんて。
一度目の人生で君の死を知った時、もう二度と会えないのだと絶望した。
それなのに君は今ここで生きている。
本当に、なんて幸せなんだろうな。
少しの時間が経った頃、俺は歴史の勉強で蹴躓いた。
くそ、やっぱり難しいぞ。何で派閥が三つもできて、一部の人間は派閥を重複なんて状況が起きるんだよ? この後内戦が起きるのに、これじゃ誰が戦ってるのかわからないじゃないか。
参考書にも載ってないし、探してきた本にも……書いてないな。八方塞がりだ。
「どうしたの、カミロ。どこで困っているの」
頭を抱えたくなった時のこと。優しい声が聞こえてきたので、俺は瞬時に顔を上げた。
見ればレティシアが遠慮がちに、けれど心配そうに首を傾げている。
どうやら俺は顔に出やすいらしい。
「見せて。私でわかることなら解説するわ」
「……悪い。えっと、バロン戦争のことなんだけど」
申し訳なくて歯切れが悪くなった俺に、レティシアは小さく微笑んだ。
わからない点について尋ねると少し考えるようにした後、自分の参考書を持って俺の隣に移動してくる。
「これを見て。国王派と大公派、そして議会派に分かれているでしょう。議会派は元々は大公派だったけど、時代の流れから分派した人達なの。つまり——」
朗々とした声での説明が続く。
本の柔らかい匂いと、夏の西日。
目元が眼鏡で隠れていても横顔のシルエットが綺麗で、思わず見惚れそうになった俺は慌てて意識を引き戻した。
だめだだめだ。せっかくレティシアが時間を割いてくれているのに、何を考えているんだ、俺は。
「ーーということなの。わかった?」
「あ、ああ、よくわかった」
本当は半分くらいしかわからなかったけど、正直に白状するわけにもいかないので、笑顔が引き攣らないように気をつけながら頷く。
「良かった。私、いつもカミロに助けてもらっているから、少しでも力になりたいの。困ったら何でも聞いてね」
レティシアは健気なことを言いながら微笑んで、また元の席に戻って行った。
優しいレティシア。
本来の君は穏やかで親切で、とても真面目なのに。
常識的な判断すらできなくなるほど、アグスティンのことが好きだったのか?
今も、アグスティンのことが好きなのか?
ずっと抱いていた疑問と不安が、何の前触れもなくせり上がってくる。レティシアはもう関わりたくないと言っていたけど、果たして本心なんだろうかと。
死の数日前に牢獄で会った時、君はまだ夫のことを愛していた。あんな仕打ちを受けても愛していたんだ。
そして、それほどに大好きなアグスティンを俺が殺したことを知ったら。
君はその時、何を思う……?
レティシアは知らない。
俺は怖かったんだ。
アグスティンとヒセラ嬢が記憶を取り戻したら、奴らの死に様がレティシアに知られるかもしれないこと。
だから婚約を伏せた。
万が一知られたとしても両家で婚約を交わしてさえいれば、レティシアも後には引けないだろうと思ったから。
俺は卑怯で、臆病者なんだ。
もし全てを知ったとしても。
どうか諦めて、俺の側で笑ってくれ……。
レティシアが勉強する姿を見つめていた俺は、ばれる前に参考書に視線を落とした。
そうだ、勉強をしなければ。レティシアがこんなに頑張っているのに、身勝手な物思いに時間を割いて成績を落とすわけにはいかないんだ。
好きな子の好きなことを邪魔するのは本意じゃない。
俺を好きになってくれなくても、側に居られるならそれだけでいい。
けれどそれすらも叶わなくなったとしたら。
俺はその時、どうするつもりなのだろう。