女神のきまぐれ〈カミロ/レティシア〉
*
「カミロ・セルバンテス。まずはお疲れ様と言うべきかしら」
真っ白な空間に、真っ白な布を纏った美女が佇んでいる。白髪だが年齢を重ねた故ではなく、明らかに生まれ持った透明感を宿した色だ。
どこか茶目っ気を感じさせる笑みを浮かべた彼女と目を合わせた俺は、慎重に口を開いた。
「貴方は今、時の女神と言ったのか?」
「その通りよ。私は時の女神、シーラ」
聞いたことがない名前だ。俺は神なんてものを信じちゃいなかったけど、教養として最もポピュラーな宗教の神くらいは頭に入っている。
これは夢なのだろうか。死にきれず、生死の狭間で妄想を作り出している?
俺は何となく視線を彷徨わせて、自身の体にべったりと付着した血の色を見つけて目を見開いた。
臙脂色の騎士服でもわかる明らかな血痕。これは俺があの二人を葬って、更には自分も切られた結果ついたものだ。
「これは夢ではないわ。貴方は死んだ。愛しい人の幸せを願いながらね」
女神シーラが歌うように言う。俺は未だ飲み込めない状況ながら、もう一度彼女の目を真正面から見つめた。
「あまりにも綺麗な死に様だったから、私感心してしまって。あんまりにも可哀想で、時を戻してあげることにしたの」
「……何だって⁉︎」
俺は俄かに女神の元へと走り寄って行き、無遠慮な距離感で堂々と見上げた。近寄ってみて気付いたけど、シーラは俺より数十センチ背が高かった。
「時を、戻す? 貴方はそんなことができるのか⁉︎」
「時の女神だもの。滅多にやらないけれど、できるわ」
「本当か……⁉︎」
時が戻る。つまり、レティシアにもう一度会える、のか……?
こんな幸運がもたらされるなんて想像したことすらなかった。
死に際に見たタチの悪い夢かもしれないと思うのに、突如として現れた一縷の望みに頭の中を満たされてしまう。
「頼む! 俺を、もう一度レティシアに会わせてくれ!」
自分でも呆れるほどに悲痛な声で叫ぶと、女神シーラは悠然とした笑みを浮かべて見せた。
*
カミロが語った話はこうだった。
つまり時が遡ったのは、カミロに女神様が同情したおかげだったということ。
一度目の人生の記憶を持つことに疑問ばかりを感じていた私は、原因が分かっただけで胸の支えが取れたような気がしたけれど、同時に引き絞られるような胸の痛みを得ることになった。
(女神様が同情するほど、私の幸せを願ってくれたの……?)
話をする度に、思い知らされる。
彼がどれほど私のことを想ってくれているのか。
そして身勝手に生きた結果身勝手に死んだ、私の罪深さを。
私は痛む胸を押さえて俯いてたけれど、前方から小さく息を吐く気配を感じて顔を上げた。
カミロは微笑んでいた。何も気にすることはない、とでも言うように。
「そして、女神は一つの注意点を教えて下さった。何でも時を戻すことで、自然と一度目の人生での記憶には蓋ができるんだと」
「記憶の、蓋?」
「ああ、そして記憶の蓋に使われるのは個人が持つ魔力らしいんだ。通常は死ぬまでその蓋が開くことはないが、二つの要素が満たされると開くことがある。
一つは、一度目の人生で深い関わりがあった者から強い刺激を受けること。もう一つは、自身の記憶の蓋を閉じている魔力を、その刺激が上回ることだ」
「刺激が、魔力を、上回る?……ま、まさか」
そこまで聞いては察するしかない。顔を青ざめさせた私は、カミロがニヤリとした笑みを浮かべたのを目の当たりにした。
「そう。レティシアの素顔を見たことで、俺は一度目の人生の記憶を取り戻した。それほどに眼鏡を外した時のギャップは衝撃的だったってことだな」
ええと、待って待って。
カミロの魔力量は当代一とすら言われている。それを上回るほどの衝撃的な素顔って何?
しかも、良かれと思ってかけていた眼鏡が、私の平穏に終止符を打つ原因になったの?
だめだわ、眩暈がする。確かにこれは倒れた直後に聞いたらもう一度気絶していたかもしれない。
「そんなことって……」
私は呆然と呟いたが、この話をするにあたってはカミロも苦笑気味だった。
「冗談みたいな話だが、実際に起きたんだからしょうがない。……ちなみに、女神様はこうも仰った。きっとレティシアは先に記憶を取り戻しているはずだってな」
「ええと、つまり……。カミロの話を総合すると、私の魔力が弱すぎるから、簡単に記憶を取り戻すだろうってこと?」
「少々言いにくいが、そういうことになるな」
つまり私は人よりも極端に魔力が少ないので、記憶の蓋もガバガバ状態だったと。
実際に私は子供の頃からゆっくりと記憶を取り戻していった。多分だけど、どこかで見た殿下の肖像画か何かが引き金になっていたことにすら、気付かなかったのだろう。
「ここまで説明した上で本題に入るぞ。レティシア、君の素顔は記憶を取り戻すきっかけになり得るってことだ。特にアグスティンと、ヒセラ嬢。関わりの深かったあの二人は特別に可能性が高いだろうな」
「確かに、その通りね」
「レティシアはアグスティンと関わりたくないんだろ? 俺との婚約を発表すれば、必然的に眼鏡を外す場面だって出てくるし、王城に顔を出す必要もある。
問題の先送りにしかならないかもしれないが、平穏な学園生活くらいは守ってやりたいんだ」
そう言ったカミロの顔に愛おしげな笑みが浮かんでいるのだから、私は忙しなく動き始めた心臓に落ち着けと言い聞かせなければならなかった。
本当に、カミロはいつも優しい。いろいろなことを考えてくれていたのに、私は自分のことばっかりで……恥ずかしい。
確かにカミロの言った通り、素顔を晒すことにメリットは一つもなさそうだ。これは彼の提案に甘えて卒業までは大人しくしているべきだろう。
だけど、守られてばかりは嫌だな。私も彼の役に立ちたいから、何かできることがないか考えてみないと。
「まあ、とは言っても俺の顔が引き金になる可能性もあると思うけどな」
「え? 何か言った?」
「ああ、任せておけって言ったんだ」
頼もしさの表現なのか、カミロは自分の胸をどんと叩いてみせた。その冗談めかした仕草に、私は重要な話を聞いた混乱も忘れてつい吹き出してしまった。
「ふふっ。ありがとう、カミロ」
するとカミロは惚けたように動きを止めた。どうしたのかと首を傾げていると、精悍な顔がじわりと朱に染まっていく。
「レティシアが眼鏡をしていなかったら、記憶は取り戻せなかったかもしれない。けど、君の薔薇色の瞳が見られないのはやっぱり惜しいな」
「あら、私の目ってそんなに綺麗?」
自分で言うのかよって、笑ってもらえると思った。けれどカミロは当然のように頷いて、若草色の目を細めて微笑む。
「すごく綺麗だ。なあ、俺と二人きりの時だけは眼鏡を外さないか?」
「なっ……! 何、言って」
とても率直な言葉と眼差しに、私は呆気なく赤面した。
眼鏡を、外す? 今、ここで……?
ちらり、とカミロの目を見る。楽しそうでありながらも幸せそうに溶けた顔が、何だか知らない人みたいで落ち着かなくて、私はすぐに目を逸らした。
「眼鏡をしていないと、落ち着かない、し……」
「し?」
「は、恥ずかしいから、駄目」
……あら? 私、何を言っているのしら。
アグスティン殿下の時はあの方のために眼鏡を外すのが嫌だったのに、カミロに対しては恥ずかしいから駄目なの?
それって、変じゃない……?
「へへ、そっか。そういうことなら、いずれな」
可愛くない態度を取る婚約者を前にしても、カミロは楽しげな笑みを絶やさないどころか、ますます機嫌を良くしたみたいだった。
うう、なんだか、甘すぎないかなあ。本当に落ち着かないわ。
「なあ、レティシア。婚約は伏せたままにするけど、その分気をつけてくれよ」
ふと先程までの笑みを消し去ったカミロが言う。その真剣な面持ちに、私も居住まいを正してはっきりと頷いた。
「ヒセラ様のこと? そろそろ転入してくる時期だものね」
今は6月。詳しい日付は覚えていないけれど、確かヒセラ様が私のクラスに転入してきたのはちょうどこの頃だった。
「いや、それだけじゃない。レティシアは可愛いから、俺と婚約したことを発表して男どもを牽制できないのが心配なんだ」
「ふぇいっ⁉︎」
あまりの殺し文句に私は間の抜けた声を上げてしまった。今度は何を言い出すの⁉︎
「ま、また変なこと言って……! 大丈夫よ、眼鏡は外さないもの。今まで誰にも声なんてかけられなかったし、存在を認知されているか怪しいくらいなんだから!」
「そうは言っても何かの拍子で眼鏡が外れることはあるだろ。実際俺はそれで素顔を見ているんだぜ」
カミロが正論を並べ立てるので、私は小さく呻いて押し黙った。
確かに私の不注意で何かが起こることはあるかもしれないけど、こればっかりは信用してもらうしかない。
「ええと、その……十分に気をつけます」
「ああ、そうしてくれ」
大人しく返事をすると、カミロは満足げに頷いた。
この過保護ぶりはどこからくるのかしら。流石に気にしすぎだと思うけどなあ。