第36話.トイレチャンス
長く続いた暗闇を照らす朝日が、水平線から顔を出す、翌日の明け方。
リガルたちロドグリス軍一行は、目的地であるヴァーナのすぐ近くの森に辿り着いた。
連日の行軍に加えての、先ほどの徹夜での行軍。
皆、疲労困憊だ。
本来なら、ここですぐに斥候でも放って、近くに敵が来ていないかどうかを探らせたいところだが、流石にこれ以上の行動は不可能という事で、陣を張ってすぐに休憩という事になった。
リガルも、本当に軽く朝食を取っただけで、すぐに眠りこけてしまった。
地球にいた時は朝までFPSをすることもざらにあったリガルだが、9歳の身体では、オールはきつかったようだ。
そんなわけで、ロドグリス軍は昼過ぎまで行動が出来なくなった。
結局、活動を開始したのは3時ごろ。
斥候を放ち、敵の同行を探り始める。
そして、そろそろ日が沈もうという頃。
「陛下! アルザートの別動隊を見つけました! どうやら奴らは、ここからすぐ近くの丘に陣を敷いているようです」
陣幕に斥候の1人がやってきて、アドレイアの元に値千金の情報が届く。
「そうかそうか。よしよし、やはり来たか。ここまでは計画通りだな。こちらの準備は万端。後は、敵にこちらの居場所が割れずに、敵がヴァ―ナを攻めてくれることを祈るだけだ」
満足げにそう呟くアドレイア。
ここまでは順調である。
だが、リガルにやらねばならないことが一つある。
(父上、順調に行っているところ悪いですが、少しイレギュラーを起こさせていただきますよ)
「おい、計画を始めるぞ」
アドレイアの眼が自身に向いていないことを確認したリガルは、隣にいたレイとレオに小さく声を掛ける。
もちろん、計画というのは、狙撃夜襲作戦のことである。
敵が近くにいて、互いに陣を敷いているこの状況。
まさに、ここしか無いというタイミング。
これを逃したら、チャンスがいつ来るか分からない。
レイとレオも、当然忘れている訳もないので、神妙な顔で頷く。
それを確認したリガルは……。
「すみません、父上」
「ん? どうした?」
「少し用を足してきてもよろしいでしょうか」
「あぁ。行ってこい」
アドレイアにトイレの許可をもらう。
これくらいは、別に不自然なことでもないので、許可をもらうこと自体はあっさり成功。
(問題はここから……)
第6位階以上の魔物が、都合よく見つかってくれることを祈りながら、陣幕を出ようとすると……。
「おい、1人で行くなよ。ちゃんと護衛を連れていけ」
「え?」
待ったがかかる。
そして気が付く。
(やばい。至極当たり前のことを失念していた)
リガルは王子という立場なのだ。
1人でトイレに行くなんて出来るわけがない。
(1人が2回トイレに行くと言えば、3人で6回のチャンスがあるとか思っていたが……。バカか俺は)
「そ、そうですよねー。ははは、当然2人と一緒に行くつもりでしたよ」
誤魔化しながら陣幕を出る。
「クソ、トイレチャンスは2回しかないか」
「そりゃ、そうですよねー。護衛を連れずに行くことなんて許されない」
「けど、それでも2回はあります。確率は下がりましたが、可能性がゼロになったわけではない」
「だな!」
レオの言葉に、気持ちを切り替えて、作戦に集中するリガル。
まずは、周囲の眼から逃れる必要がある。
アドレイアの近くから逃げ出すことが出来たとしても、陣幕の周囲には魔術師たちが沢山いる。
陣を離れようとすれば、当然止められる。
(父上の元から逃げ出すことさえできれば、後はそう大変じゃないんだ。下手にコソコソせず、堂々と歩いて、一瞬で姿を眩ますんだ)
リガルたちは、周りをキョロキョロ確認したりせず、堂々と陣の端へ向かって歩いていく。
そして、魔術師の数が少なくなったところで、チラリと周囲を見渡すと……。
「よし、今だ!」
小さく叫んで、素早く木陰に隠れる。
その後、恐る恐る顔を出して、陣の様子を伺うが、何か騒いでいる様子はない。
「ふぅ、どうやらうまく逃げ出せたみたいだな」
「ですね」
しかし、むしろ問題はここから。
難しいのは、逃げ出すことよりも、魔物を見つけること。
「とりあえず、もう少し奥へ行ってみよう」
そう言って、リガルは走り出す。
のんびり歩いていては、あっという間に10分以上経ってしまう。
トイレの嘘で誤魔化せる時間は、せいぜい10分が限度だろう。
全力で辺りを見渡しながら、しばらく走っていると……。
「あ、あそこにダークラビットがいます」
――ダークラビット。
この世界に生息する魔獣のうちに一体である。
階級は、第1位階で、魔術師でない一般人ですら簡単に倒せるほど弱い。
リガルは、レオに言われて立ち止まって、指さされた方向に目をやると……。
「第1位階の雑魚かよ……。相手にしてる場合じゃないが、足が速いこいつらに追ってこられると邪魔だ。やるか」
「「了解です」」
リガルたちは、ダークラビットと相対する。
作戦を考えるまでもなく……。
「おらっ!」
飛びかかってきたダークラビットを、リガルはひらりと躱すと、お返しにファイヤーボールを打ち込んだ。
直撃したため、ダークラビットはピクリとも動かなくなり、絶命する。
あっさりと勝負は決した。
「先を急ごう」
「「はい」」
再びリガルたちは森を進み始める。
2分ほど探し回ったが……。
「ダメか。だいぶ遠くまで来たな。そろそろ戻った方がいいか?」
やはり、第6位階ほどの強力な魔獣はそうそう見つからない。
せめて1時間はないと厳しいだろう。
10分なんて無茶もいいところだ。
「そうですね。もう少し右の方を通って帰りましょう」
「だな」
そう思って、進行方向を変えると……。
「グルルルル……」
「うおっ」
10mほどのところまで魔獣が迫っていた。
「こいつは……。ブラッディボアですかね?」
――ブラッディボア。
第3位階の魔獣である。
魔術師3人分の強さに匹敵する。
炎を纏った突進が非常に強力だ。
「これは撒けない……。やるしかないな。俺とレイが全力で防御するから、レオは後ろの方から攻撃することに専念してくれ」
戦闘を決意して、リガルは手早く指示を出す。
「「了解!」」
素早く陣形を組むと……。
「ウォーターシールド!」
「アースウォール!」
水の盾を作り出し、さらにその後方に岩壁を立たせる。
鉄壁の守りだ。
リガルとレイの魔術起動と同じタイミングで、ブラッディボアが早速突撃してくるが……。
「グルルルル……」
ピキッ、と音がして、岩壁が粉砕しかけるが、なんとかブラッディボアの突進を防ぐことに成功。
(あっぶねぇ……。二重防御でギリギリかよ……)
鉄壁と思われた守りを崩されかけて、動揺するリガルだったが……。
「ファイヤーボール!」
ブラッディボアが岩壁から姿を出した瞬間、リガルたちの後ろにいたレオがファイヤーボールを放つ。
レオが放ったファイヤーボールは、ブラッディボアの頭に直撃。
「グルァァァ」
ブラッディボアは、苦しそうにもがくが、即死とはいかないみたいだ。
再び突撃しようとしてくる。
その迫力にリガルはビビりそうになるが……。
(落ち着け。さっきと同じことをもう一回やればいいだけの事!)
「ウォーターシールド!」
「アースウォール!」
再び鉄壁の守り。
今度も壊れそうになるが、ギリギリ持ちこたえてくれる。
からの……。
「ファイヤーボール!」
再び先ほどと同じ場所に直撃。
「グルァァァ!」
再び吠え狂うと、ブラッディボアは横に倒れた。
「よ、よし、多分死んだよな?」
「た、多分。仮に死んでなかったとしても、もうほとんど動けないでしょう」
「確かに」
レオの言葉に納得したリガルは、帰り道を進み始める。
レイとレオもそれを追った。
しかし、今の戦闘でだいぶ時間を無駄にしてしまったせいで、そろそろ10分に達しそうだ。
「チッ。これはもう無理だな。今回は諦めるぞ」
「これは仕方ないですね……」
その後は、魔獣に遭遇することなく、陣に帰還することが出来た。
恐らく、誰にも見つかっていないはずだ。
「遅かったな。何かあったのか?」
「い、いえ、少し迷ってしまって」
「そうか」
陣幕に帰ると、アドレイアに心配の言葉を掛けられる。
一瞬焦ったリガルだったが、適当な言い訳で問題なく誤魔化すことは出来た。
(クソ……。次こそは絶対に成功させないと……)
しかし、リガルの闘志は実ることなく、夕食後のトイレチャンスでも、第6位階の魔獣を引き連れてくることは出来なかった。
元より、作戦もガバガバだったし、随分と無理があった。
(今回は諦めて、この反省を次回に生かすしかないか)
落胆し、そう考えるリガル。
しかしその夜のことだった。
そろそろ寝よう、という頃だったのに、急に陣幕の外が騒々しくなる。
「何事だ?」
アドレイアが不審に思い、陣幕の外に顔を出そうとすると……。
「敵襲! 敵襲!」
その瞬間、魔術師が顔を青くて叫びながら、陣幕に飛び込んできたのだった。