2.魔女が住む屋敷で迎える朝『その弐』伽藍堂の朝と、戦場のキッチン
燈華の視点となります。
楽しんで頂けたら幸いです。
タイトル付け、加筆と修正を行いました(2025/09/05)
神代流哉が自室の扉を閉ざしてから、一夜が明けた。
冬城燈華は、ひやりと素肌を刺すキッチンのタイルの上に、独り、立っていた。
足の裏から這い上がってくる冷たさが、昨夜から続く奇妙な現実感を、強制的に意識させる。
カチャリ、と硬質な音を立てて、白い皿が重なる。
静寂が支配する館の中では、その音ですら、やけに大きく響いた。
熱せられたフライパンの上で、黄金色のバターが泡を立てて溶け出し、むせ返るような甘い香りが空間を満たしていく。
それはあまりにも平穏で、あまりにも日常的な香りで。
だからこそ、昨夜の出来事との断絶を、残酷なまでに際立たせていた。
いつもと変わらないはずの朝の光景。
この洋館で暮らす者たちの、絶対の決まり事。
けれど、その『日常』という名の風景は、昨夜起きた出来事によって、どこか歪な輪郭を浮かび上がらせていた。
リビングの豪奢なソファには、既にこの館の主である西園寺紡が腰を下ろしている。
その手にあるアンティークのティーカップも、立ち昇る湯気の香りも、いつも通り。
ただ一つ、違うのは。
その唇から紡がれるべき、辛辣な挨拶が存在しないこと。
湯気の向こう側にある彼女の表情が、昨日とは打って変わって、まるで凪いだ湖面のように静かだったことだけが、この朝の異質さを際立たせていた。
あの、閉ざされた扉を前に、珍しく感情を剥き出しにしていた激情家の魔女は、もういない。
まるで、何もかもが悪い夢だったかのように。
何度呼びかけても、返事はなく。
扉を叩けば、返ってくるのは、ただ虚ろな反響音だけ。
まるで、あの部屋だけが、世界というパズルから、綺麗にくり抜かれてしまったかのように。
結局、痺れを切らした紡がマスターキーで扉を開けた先に広がっていたのは、ただ、人の営みの痕跡だけが抜け落ちた、伽藍堂の空間だった。
もぬけの殻。
誰かがそう呟いた。中にいるはずの人物は、影も形もない。
部屋の風景は、前日、自分たちが埃を払い、窓を磨き、完璧に整えた、あの瞬間のまま。
そこには、ただ、主の不在だけが、絶対的な事実として横たわっていた。
「……この目で見るまでは、信じていなかったけれど。
こうも、あっさりとやってのけるとはね」
悔しさと、それ以上の畏怖が入り混じった、紡の、凍てつくように昏い声。
表情というものが抜け落ちた貌で、彼女はそう呟いた。
「対象の中身を上塗りする、なんて生易しいものじゃない。
これはもう、空間そのものの置換よ。
時空の理を捻じ曲げるなんて、それこそ、神の御業の領域だわ」
魔法使い。
この世界の理から外れた、出鱈目な存在。
その称号を得た彼女ですら、嫉妬と羨望を隠そうともしない。
まさしく、奇蹟の行使。
それこそが、神代流哉という男の本質。
燈華の焦がれる人は、いったい、どれだけ遠い場所に立っているのだろう。
時折、その距離が、途方もない奈落のように感じられて、胸の奥が、きゅう、と痛んだ。
「ねえ、燈華」
「……え?」
「中にいたはずの、流哉さんは、結局、どこへ消えてしまったのかしらね?」
「え、ええと……」
不意に名前を呼ばれ、思考の海から引き揚げられる。
フライパンの上の卵に意識を戻しながら、曖昧に言葉を返した。
「紡の言う通りなら、まだ、部屋の中にいるんじゃないかな。
その、部屋の中に作られた、別の世界? に」
「異界、でしょうね。
まだ彼の言う『宝物庫』を直接見たわけではないから、確かなことは言えないけれど。
昨日招かれたあの部屋そのものが、既に宝物庫の一部、もしくはその能力によって作られた空間、と考えれば、説明はつくわ。
……現時点では、その憶測が最も妥当なところかしら」
宝物庫。
彼の祖母、先代の神代の魔法使いから受け継いだ、異界。
そこに何があるのか、想像もつかない。
いつか自分も、その世界を、彼の隣で見せてもらえる日が来るのだろうか。
そんな、淡い期待が胸をよぎる。
一夜明けて、紡はもう、いつも通りの彼女だった。
自分が持たざるものへの嫉妬を、いつまでも引きずる行為は、彼女の美学に反するらしい。
その、潔いまでの切り替えの早さもまた、彼女の強さの一つ。
少しだけ、それが羨ましかった。
「……そろそろ、起きてくる頃かしら」
ポツリ、と紡が呟く。
その視線は、二階へと向けられている。
「確認してくる。朝食の準備もほとんど終わったし、一緒に食べるかどうか、聞いてこないと」
エプロンを着けたままなのは、少しだけ気恥ずかしい。
けれど、確認のためだけにこれを脱ぐのは、もっと面倒だ。
それに、もし、彼が食べると言うのなら。
この戦いは、まだ終わらないのだから。
ごくり、と唾を飲み込む。
心臓が、少しだけ早く脈打つのを感じながら、階段を上がる。
軋む床板の一枚一枚が、まるでカウントダウンのように響いた。
彼の部屋の前。扉の前で、一つ、深呼吸。
無駄足になるかもしれない。その可能性を頭の片隅に置きながら、それでも指を伸ばす。
コン、コン。
「リュウちゃん、起きてる?」
ノックの音が、昨日とはまるで違う。
木の内部まで、しっかりと詰まっている、確かな手応え。
虚ろではない。確かに扉の向こうの世界と繋がっている、という、実感。
それだけで、安堵の息が漏れた。
一度目の呼びかけに、返事はない。
けれど、諦めない。もう一度、今度は少しだけ強く。
コン、コン。
「……ああ、起きている」
くぐもった声。けれど、紛れもない彼の声が、扉の向こう側から返ってきた。
途端に、心臓が大きく跳ねる。
「お、おはよう、リュウちゃん!
朝食の準備をしてるんだけど、どうする?」
声が、上擦っていないだろうか。
平静を装う声の裏側で、思考が高速で回転していた。
ガチャリ。
不意に、重い金属音がして、扉が開かれる。
そこに、立っていたのは。
「わざわざ、悪いな。用意してもらって」
「う、うん……って、それよりも服っ!」
思考が、止まる。
時間が、止まる。
いや、世界が、この一点に収束していく。
彼の上半身は、剥き出しのままだった。
濡れた黒髪。その雫を吸い取るためのタオルが、無造作に頭に乗せられている。
鍛えられている、と一目で分かる引き締まった身体。その肌を、一筋の水の雫が、ゆっくりと滑り落ちていく。
下はラフなスウェットを履いているけれど、そんなことは、もう、どうでもよかった。
見てはいけないものを見てしまった、という罪悪感と。
それ以上の、どうしようもない引力で、視線が縫い付けられる。
カッと、頬に集まった血液が、心臓の音に合わせて沸騰していくのが分かった。
「……悪い。すぐ着替える。下で待っていてくれ」
それだけを言うと、彼は、パタン、と無慈悲に扉を閉めてしまった。
残されたのは、心臓のうるさい鼓動と、脳裏に焼き付いて離れない彼の残像だけ。
───戻らなきゃ。早く、みんなのところに。
頭では分かっているのに、足が鉛のように動かない。
この熱を持ったままリビングに戻ったら。
あの魔女に、一体、何と言って揶揄われることか。
「あら、お帰りなさい。……ふふ、良いことがあったようね」
リビングに戻るなり、紡が紅茶のカップを傾けながら言った。
その瞳は、全てを見透かしているかのように、愉しげに細められている。
誤魔化す? それとも、開き直る?
ほんの僅か、一瞬の葛藤。
「その、真っ赤なお顔が、何よりの証拠だわ、燈華」
ああ、駄目だ。
こうなった紡の前では、どんなポーカーフェイスも通用しない。
観念して、白旗を上げるしかなかった。
「……良いこと、ってわけじゃないけど。
リュウちゃんも、一緒に食べるって」
それだけを言うのが、精一杯だった。
紡の追及の視線から逃れるように、キッチンへと駆け込む。
幸い、彼女はそれ以上、何も言ってはこなかった。
コンロの前に立ち、再び、フライパンを握る。
まだ、心臓が少しだけ痛い。
けれど、それ以上に燈華の中には、新たな闘志が燃え上がっていた。
これは、戦いだ。
彼が、初めて口にするであろう、自分の手料理。
美味しい、と感じてもらわなければ、意味がない。
それは、冬城燈華としてのプライド。
そして、何よりも、恋する一人の少女としての、譲れない願い。
「……絶対に、負けられないんだから」
誰に言うでもない決意の言葉が、吐息と共に零れる。
普段なら、少しは手を抜いてしまう仕上げの部分。
その、一工程、一工程に、全神経を集中させる。
きっと、紡たちも、その味の違いに気付くだろう。
気付かれたら、それは、それで、少し恥ずかしいけれど。
不安と、期待が入り混じる朝。
けれど、悪くない、と、思う。
こんなにも、気合が入る一日の始まりなんて、そう、滅多にあるものじゃないのだから。
今回の話し、どうでしたか。
紡の屋敷で迎える燈華達の朝です。
今回は燈華が朝食当番の為、ラッキーイベントは燈華でした。
流哉は紡の屋敷で迎える初めての朝はどうなるのか。
※三上堂司からのお願い※
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