5.地獄の門『その伍』そして、誰もいなくなった
流哉の視点となります。
楽しんで頂けたら幸いです。
タイトル付け、加筆と修正を行いました(2025/07/05)
死が通り過ぎた後に残る臭いは、いつだって同じだ。
タンパク質の焦げる微かな異臭と、恐怖が凝固したような凍てついた空気。
それが混じり合い、真夏の車内にありながら、まるで真冬の殺人現場にでもいるかのような不快な澱となって漂っている。
その、死の残滓が、少女たちの許容量を超えつつあった。
「……悪いな、もう少しだけ我慢できるか?」
流哉の問いかけに、冬城燈華はこくりと頷いてみせる。
だが、その顔色は青白く、浅い呼吸を繰り返していた。
瞳はほのかに潤んでいる。
血の気のない唇が、彼女の気丈な返事がただの強がりであることを示している。
他の少女たちも同様だった。
アレクサンドラとクリスティアナは顔を俯かせ、時折身じろぎしている。
魔導器の知識に長けた大津秋姫でさえ、今はただ固く目を閉じ、この異常な空間に耐えているのが見て取れた。
この状況で唯一、平静を保っているのは西園寺紡だけだ。
彼女はポケットから取り出した、薔薇の刺繍が施された絹のハンカチで鼻と口元を覆い、その人形めいた瞳で、変わらぬ無感動さをもって車内を見渡している。
――限界か。
流哉は内心で判断を下す。
この異臭だけが問題なのではない。
先ほどの戦闘、そしてその前の「地獄の門」。
常人とは違う彼女たちであっても、非日常の奔流に連続で叩きつけられれば、精神は摩耗する。
この閉鎖された空間そのものが、彼女たちの魂をゆっくりと削り取っている。
「紡」
流哉の声に、黒髪の魔女が静かに視線を向ける。
「結界を張れるか?」
「ええ。――どのような物語をご所望かしら、流哉さん?」
ハンカチをずらし、彼女は僅かに唇の端を上げた。
「燈華たちを含んで、外界を完全に遮断して欲しい。
この様子だと、長くは保たないだろう。
異界に長時間囚われるなどという経験は、こいつらにはまだ早い」
この異界そのものを力づくで破壊することも可能ではある。
だが、その衝撃が、疲弊した彼女たちにどのような影響を与えるか予測できない。
「《《原因》》となっている道具を所持している術者を探してくる。
それまで、ここの面倒を見ていてくれ」
「そういうことなら、承知したわ。ただ……」
紡は、ふと悪戯っぽく瞳を細める。
「魔術で一から結界を編むには、少し準備が足りないの。
だから、私の“魔法”を使うことになるけれど。
もちろん……見逃してくれるわよね?」
「この異界の中で使う分には、何も言うつもりはない。
元凶を叩くのは、ここに戻ってからでも遅くない。
これほど大掛かりな仕掛けだと見抜けなかった、オレの落ち度でもあるからな」
「では、遠慮なく」
紡は、どこからともなく一冊の古びた本を取り出した。
使い込まれて角の丸くなった、黒い革の装丁。タイトルはない。
彼女がその本を開くと、ぱらり、と乾いた音を立てて、ページが意思を持っているかのようにひとりでに捲られていく。
羊皮紙の擦れる微かな音だけが、奇妙な静寂の中に響いた。
やがて、あるページでその動きがぴたり、と止まる。
「――『天の岩戸』の御話をしましょう」
紡の唇から、静かな鈴の音のような声が紡がれる。
それは、鍵。世界を塗り替えるための、呪文。
彼女の言葉を合図に、童話の神秘が現実を侵食し始める。
流哉の目の前で、空間が蒼い光の粒子となって揺らめき、まるで堅牢な岩壁が築かれていくかのような幻視が網膜を焼いた。
やがて、紡と四人の少女たちの姿が、その光の壁の向こう側へと完全に遮断される。
流哉は、その物語結界が完璧に閉じられたのを見届けてから、静かにその場を後にした。
隣の車両へ移る。
そこは、先ほどまでの死の気配が嘘のような、無人の空間だった。
だが、異常なのはその長さだ。どう見ても、通常の電車の車両ではない。
体感で百メートルはあろうかという、歪んだ伽藍堂。
流哉は腰のベルトループに付けたチェーンを手繰り寄せ、掌に収まるサイズの、古びた懐中時計型の魔導器『羅針盤』を起動させた。
中央のガラスの中で、幾本もの細い針が震え、淡い光を放ち始める。
針が示す魔力の反応の色と、その量を見ても、これだけの規模の異界を構築・維持しているにしては、あまりにも気配が希薄だ。
術者が桁外れに優秀なのか。
それとも、よほど強力な魔導器を触媒にしているのか。
いずれにせよ、判断を下すには早計だ。
流哉は、針が指し示す方角へと、無音で歩を進めた。
「化け物の類や、殺意に満ちた罠の気配もない。
……となれば、隠蔽に秀でた術者と考えるべきか」
羅針盤の指示通りに、歪んだ列車の中を進む。一車両、また一車両と。
そのたびに、車窓から見える景色が変転していく。
ある窓の外は、巨大な魚影が舞う深海だった。
次の窓は、風が吹き荒れる切り立った断崖の上。
また次の窓は、どこまでも続く雲の海。
果ては、星々が瞬く漆黒の宇宙空間。
これが幻術だというのなら、あまりにも大掛かりすぎる。
車窓にだけ術がかけられている可能性も、この異常に長い車内の構造を考えれば、すぐに否定された。
残る可能性は一つ。流哉自身が、何らかの精神干渉を受けているという仮説。
「……いや、それはない。それだけは、あり得ない」
思わず、乾いた声が漏れる。
「このオレの精神に干渉できるほどの術者がいるとすれば、そいつは――あるいは、オレを殺せるほどの“魔法使い”なのかもしれない」
そんなはずはない。
あり得ないと、頭では分かっている。
それでも、心のどこかで、自身の永い悲願を叶えてくれるかもしれない「誰か」の存在を願ってしまう。
冬城燈華と再会する以前の、空虚な時間を生きていた頃の自分であったなら、そんな淡い幻想に一喜一憂していたのだろう。
だが、今は違う。
面倒で厄介な荷物を背負い込んだ自覚はある。
それでも、一度結んだ約束を、途中で投げ出すような真似はしない。
神代流哉は、生まれてこの方、誰かとの約束を違えたことなど、ただの一度もないのだから。
思考を断ち切り、再び羅針盤へと視線を落とす。
針の振れに、微かな変化が出始めていた。目的地は、もう近い。
この羅針盤に秘められた力の一つ。『所有者が探しているモノの在り処を示す針』が、今や一点を指して、ぴたりと動きを止めている。
薄々感づいてはいた。だが、こうも読み通りだと、つまらないものだ。
辿り着いたのは、列車の最後尾。車掌室のある車両だった。
一連の事件の黒幕には、何かしら鉄道関係者が絡んでいると睨んではいたが、まさか、その運行の根幹を担う車掌そのものだったとは。
客室とを隔てる扉が、するり、と音もなく開く。
中から現れたのは、一人の男だった。
「お客様、いかがなさいましたか?」
見れば見るほど、変哲のない男だ。
きっちりと着こなされた皺一つとしてない制服。中肉中背。個性的とは言えない顔立ち。
ただ一つ、流哉の眼にだけは、その男の輪郭が、禍々しい魔力の燐光で二重写しになっているのがはっきりと視えていた。
「……最近、この町で囁かれている噂を知っているか」
「噂、でございますか?」
「ああ。電車に乗ったはずの少女が、忽然と姿を消すという、ありふれた都市伝説だ。
お前たちの会社が、その噂の発生源となっていることに、まさか気づいていないとは言わせんぞ」
「そのような風説が流布していることは、社内でも問題となっております。ですが、あくまで根も葉もない噂。
当社としましては、お答えできかねます」
カマをかけてみるが、簡単には尻尾を出さないらしい。ならば、もう少し踏み込むだけだ。
「そうか。……では、聞き方を変えよう。
お前がその懐に隠している“呪い”は、どこで手に入れた?」
流哉は、男の制服のポケットを、視線だけで射抜く。
「……何のことでございましょうか」
「隠すだけ無駄だ。オレの眼は、少々、特別でな。
お前の魂にこびり付いた穢れの色と、その発生源を見誤ることはない」
「……魔眼、持ちでしたか」
男の表情が、初めて微かに歪んだ。
「魔眼……ああ、この地は神代が治ていましたね。
かの一族の魔法使いは魔眼を持つという噂話を耳にしたことがありましたが、貴方がそうでしたか」
しばしの考えるような仕草の後に、男は一つの答えを流哉へと告げる。
「連盟にも掃いて捨てるほどいる魔術師程度かと思ったが、見識だけはあるらしい。
だが、そんな瑣末なことなどどうでもいい。
問題は、お前がその呪物を以て、何をしようとしているかだ」
「……どうやら、これ以上、逃げ隠れはできそうにありませんな」
観念したように、男は懐から一つの首飾りを取り出した。
何かの獣の骨を削って象った、禍々しい首飾り。
そこから、黒い靄のような魔力がとめどなく溢れ出している。この異界の動力源は、これか。
呪われた魔導器の所有者。
どうやら、また一つ、面倒事を抱え込むことになりそうだ。
今回の話し、どうでしたか。
一時的に燈華達と別れました。
紡に押し付けたとも言えます。
久しぶりに『羅針盤』が登場しました。
恐らく、流哉が最も使う魔導器ではないでしょうか。
流哉の魔眼にはまだ秘密があります。
まだある秘密、楽しみにして頂ければ。
※三上堂司からのお願い※
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