いじめ-1
有名私立中学のスカウトは本当にやってきた。
全国テストの結果が発表されて三日後のことだった。給食が終わってからシュートの練習をしようと、元気とチャラと約束をしていたのに変な奴が来た。
元気というのは和田元気という名前の同級生だ。チャラは斉藤誠という名前だが、年中おちゃらけたことを言って、みんなを笑わせているのでチャラと呼ばれている。ふたりともサッカー部だ。
「有策、校長先生がお呼びだよ」
上原先生がにこにこ笑いながらそう言った。
「校長先生?ぼく何にも悪いことしてないよ先生。それに体操着に着かえちゃった」
「体操着のままでいいよ。先生も一緒に行ってあげるから」
元気とチャラに断わってから行こうと思ったが、上原先生がさっさと歩きだしたので、近くにいた添田清子に頼んだ。去年転校してきた添田清子は、帰国子女で学級新聞の編集長をしている。頭がいいと言われているが、美人であるとは言われていない。でも、おんな、おんな、していない、さっぱりした子だ。いやなやつではなかった。
「元気とチャラに言っておいてくれよ」
「わかったわ」
「サンキュー」
校長先生はメタボの教頭先生とは違って痩せている。それも普通じゃないほどの痩せかただ。みんなはホネと呼んでいるが全く正しいと思う。歩いている姿を見ると人骨の標本が背広を着て動いているようにみえる。風の強い朝の朝礼でお話をしようと演壇に立つと、カタカタと音が聞こえるようだ。
ホネは応接セットの一人掛けの椅子に座っていた。並んだ椅子に見慣れないというよりも、始めて見るお爺さんがいた。歳はうちのおじいちゃんよりも上だと思った。あたりまえの話だが鶏も卵も持ってはいなかった。
「おすわりなさい」
ホネがそう言って三人掛けの長椅子を指さした。上原先生を振り仰ぐと先生は頷いた。
「失礼します」
そう言って腰を下ろした。六年生だものこのくらいの礼儀は知っている。
「向井先生、この子が例の今野君です」
ホネが爺さんに僕を紹介した。
「今野君、こちらの先生は聖ミカエル学園の園長で向井先生とおっしゃる」
「はい」
聖ミカエル学園といえば入学偏差値七十三以上。中高一貫教育で東大に毎年五十名以上が入るという名門校だ。縁のない僕だって知っている。
「向井先生は君が望むなら無条件で入学を許可してもいいとおっしゃる」
「はい」
そういいながらぼくは向井先生を観察した。口をもぐもぐさせているけれど癖なのだろうか。ああそうか、総入れ歯なのだ。おじいちゃんのお母さん、ぼくにとってはひい祖母ちゃんが(このあたりでは、のの様とか、のうのう様と呼ばれている)、一日中縁側で総入れ歯をもぐもぐさせて遊んでいる。あれと一緒だ。ぼくはただちに向井先生を『モグ』と呼ぶことにした。
モグは暫くもぐもぐを続けていたが、やがて入れ歯が収まるべきところに収まったのだろう話し始めた。
「聖ミカエル学園は知っているね」
「はい」
「入学したいとおもうかね」
ぼくは、にべもなく言った。
「考えたこともありません」
「ほう」
そう言ってモグはホネを見た。
「向井先生は私の恩師でね、今回は私の方からお願いをしたのだよ。入学金も月謝も一切いらない、いいお話だろうと思うから、お父さんお母さんと相談してご返事しなさい」
「はい。でも、私立は学費以外にも何かとお金がかかるって、お母さんが言っていました。父母のお付き合いも大変だからって。僕のうちでは私立は無理だと思います」
「しっかりとした子だね、自分の立場を客観的に見て、かつ意見を述べられるとは素晴らしい。こういう子が欲しいのだよ、聖ミカエルは」
モグがホネに感心した口ぶりで言った。
「ご両親には担任の方からも話しをさせましょう」
ホネはモグにこの場を取り繕うように話し、上原先生に眼で合図をした。帰っていいということに違いない。僕は立ち上がって礼をした。
「失礼します」
そう言ってモグにさよならをして校庭に出た。元気とチャラがボールをけっているのが遠くに見えた。
「あれでいいんだよね」
アインシュタインに聞いた。
「もちろん、選択の権利は君にある。結果の責任もだがね。ミカエルなんて大天使の名前の学校か、いかがわしいったらありゃしない」
アインシュタインは悪魔としての個人的な感想をつけくわえた。
「それより、ゆうちゃん、いま面白いことが起きているぜ」
「なに、どこで」
「あとでわかるさ」
体育は一番好きな授業だ。思い切り校庭を駆け回り、冬の空気を胸一杯に吸うと、澄んだ青い空に体が吸い込まれるように感じる。走るっていいな、跳ぶっていいな、汗をかくってほんとにいいな。
教室に帰ったら、ロッカーにいれておいた服が消えていた。えっ、何だ、どうしたんだろう。教室中を探した。みんなも一緒に探してくれたがどこにもない。困った。だいたい寒い。
先生がジャージを貸してくれた。ダブダブのそれを着て六時間目を迎えた。
隣のクラスの子が僕の服を便所で見つけた。便器の中に捨てられて、ご丁寧なことに、こんもりと『うんこ』がしてあった。げっ。
養護教諭の篠崎先生と用務員の須藤さんの奥さんが洗濯をしてくれた。
でも、誰かの『うんこ』がついてしまった服なんか着たくはない、でも、シャツはともかくセーターはお母さんの手編みだ。口惜しくて涙がこぼれそうになった。
上原先生は難しい表情をしていた。
ぼくも何も言わずに先生のジャージを着たまま、ダブダブと帰宅した。サッカーの練習には出なかった。
「ね、面白いことが起きただろ」
「おもしろくない」
アインシュタインはケタケタと笑った。
「天使の仕業だぜ」
「うそつけ」
「天使は肯定しかしないって言っただろ」
「ああ」
「天使がいったん取りつくと、天使がいなくなっても、そいつは自分を肯定することしかできなくなるのさ、今の自分だけを肯定するようになる。ところが、それが何かに否定されると、別のやり方で、否定された自分を取り戻そうとするんだ」
「ふーん、アインシュタインは誰がやったか知っているんだ」
「知っているけど言わない、言っても仕方がない。否定されたら、正面からその否定に立ち向かわなければ成長で来ないのにな、忘れないでね、ゆうちゃん、疑問と否定と、古い権威の破壊だけが社会を発展させるってことを、ひとりひとりの人間もそうして今の自分を常に壊さなければ成長はないんだ」
「ぼくは凡才だからね、難しいことはわからないよっ」
「魂を売ればわかる」
「売らないっ」
お母さんはダブダブのぼくを見て驚き、わけを聞いてあわてて洗濯をし直した。そして、コインランドリーに飛んで行って、先生のジャージとぼくのジーンズ、そしてセーターを乾かして帰って来た。セーターは一枚しかない、無ければ明日に差し支えてしまうからだ。
登校したら教室の黒板に大きく殴り書きがしてあった。
『ゆうさくはうんこだ』
ぼくは黙って黒板に向かって歩き、黒板拭きを取り上げて消した。そして、先生のジャージを返しに行った。
「先生、これ、ありがとう。洗ってあります」
「おお、かえって済まなかったな、お母さんにお礼を言っておいてくれ」
教室に帰るとまた殴り書きがしてあった。
『ゆうさくのセーターにはうんこがついている。くさい、くさい。ちかよるな』
情けなくて消しに行く気もしなかった。
「おまえ、そのセーター臭くねえ?」
丸々と太った翔太が言った。お肉屋さんの符牒で豚のことをコロというらしい、だから山村翔太はコロと呼ばれている。
「臭くねえよ、何なら匂いを嗅いでみろよ」
コロはわざとらしく鼻を近寄せると、その鼻にしわをよせて叫んだ。
「くせえっ、気が遠くなる。うえっ、くせえ」
みんなが笑った。そして、どこからともなくはやし立てる声がした。
「ゆうさく、うんこ、うんこ、ゆうさく、うんこ、うんこ」
「成り行きを見ているんだね、がまん、がまん」
アインシュタインの声がする。そう、がまん、がまん。
「今日から、有策の名前はうんこに変わりました。みなさん、今野うんこくんを紹介します」
「あははは」
コロと十円と呼ばれている川口修平の声だった。なぜ十円かというと、かわいそうにほっぺたに赤くて丸いあざがあるからだ。
一時間目の国語の教科書を出した。黙って開いた。
「こういうのは消しておけよ」
そう言って殴り書きを消したのは垣田君だった。へぇ、いいことをするじゃないか。一時間目のチャイムが鳴って、先生が入ってきた。
毎朝、黒板の殴り書きは続いた。書いているのを見ている人もいたに違いないが、報復が怖いのだろう、誰も何も言わなかった。コロと十円の仕業であることは想像していたけれど、いったいなぜこんなことをするのだろう。毎回、垣田君は見かねたように授業前に殴り書きを消してくれた。
次になくなったのは筆箱だった。今度はまっすぐに便所を探した。元気とチャラが一緒に行ってくれた。便器の中に鉛筆や消しゴムが散乱していたが、うんこはされていなかった。
「よかったな」
元気が慰めてくれた。ぼくは改めて手洗いで筆箱と中身を洗いながら言った。
「誰だか知らないけどさ、便秘してたんじゃない?」
元気とチャラが笑った。
「おれ、これは先生に言っておくべきだと思うよ」
「いいよ、チクリはかえって悪い結果になる」
「有策はそう言うけれど、おれは言う。おれ、風紀委員だもの報告の義務がある」
チャラは表情を引き締めて職員室に行った。
「有策が我慢するって言っているなら、もう少し様子を見ようって、先生が言っていた」
これがチャラの報告だった。もちろん僕はそれでよかった。
テストのたびに、ぼくはアインシュタインモードを使った。一年間はこれで楽しもうと思っていた。だから、ぼくはクラスというよりも学年で一番の成績を続けていた。
一月の最後の土曜日、サッカーの県大会が始まる。トーナメントで四回勝てば決勝だ。
その前日だった。放課後の練習に出ようとしたら、スパイクが見当たらない。朝練のあと下駄箱に入れっぱなしだった。いろんなことがあったのに不注意だった。時間がなかったので、仕方なくサッカーの監督の体育教師、江川先生に届け出た。いろいろ聞かれて全部を話したら、監督は烈火の如く怒って上原先生と話し合っていた。サッカー部みんなが一緒に探してくれ、結局ゴミ焼却炉の中に捨てられているのが見つかった。半分が燃えていて、もうスパイクではなくゴミそのものになっていた。
スパイクは一万円以上する。おじいちゃんや、ののばぁちゃんからもらったお年玉をためて買ったものだった。半分に焼け焦げたスパイクを持ったまま、ぼくはさすがに泣いた。くやし涙がひっきりなしに流れた。
「これはもう立派な犯罪です。おわかりですか、窃盗と器物損壊ですよ」
江川先生は本気で怒っている。
「上原先生、どうして放置しておられたのですか」
上原先生に報告したとチャラから聞いていたので、江川先生は非難の声を上げているのだ。
「今野君が我慢できるなら、もう少し様子を見ようと」
「被害者に我慢を強いるのですか、そんなことがあってはならない、いち早く問題にするべきことです」
「しかし、犯人探しというのは、教育としては決していいことではありません。クラスが分裂します。江川先生は担任をお持ちではないから」
「関係ありませんよ。上原先生の勇気の問題です」
「とりあえず、スパイクは私が買うということで」
「いりません」
ぼくは大きな声できっぱりと言った。自分の不注意だったんだ。おじいちゃんや、ののばあちゃんに申し訳なかった。上原先生が買ってくれるというのは、なにか理不尽で、筋違いのような気がした。
「いいです、運動靴で試合に出ます。負けません」
「アインシュタイン、権藤選手モードだ。絶対負けられない」
「よしきた、任せなさい。それにしても凄い成長だな、ゆうちゃん」
「凡才だからな、我慢と努力あるのみさ」
不甲斐ないフォワードのおかげでまたPK戦にもつれ込んだ。もちろん勝った。足の甲が少し赤く腫れたが、江川先生が薬を塗りこんでマッサージをしてくれた。
上原先生が家庭訪問に見えた。そして、聖ミカエル学園のことを話し、そして、ぼくが受けていたいたずらの数々を話し、お父さんとお母さんに深々と頭を下げて帰って行った。そのとき、スパイクを自分に買わせてほしいと言ったが、お父さんは受けなかった。
「冗談ではありません、やった子の親が弁償させてくれというならともかく、筋違いもはなはだしい」
これがお父さんの返事だった。何となく見直してしまった。
コロと十円が三色ボールペンを買った。垣田君以外は持っていない高級品だから、みんなが羨ましがって貸してくれとせがんでいたが、コロも十円も見せびらかすだけで貸そうとはしなかった。
『ゆうさくはうんこだ』『ゆうさくのセーターはうんこがついている』という落書きは続いていた。授業の前に消すのは相変わらず垣田君だった。
「あぁあ、もういい加減にしろよ」
垣田君はそう言って毎日消してくれていた。
ある朝、上原先生がチャイムの鳴る十五分も前に教室に現れた。ということは、落書きをまともに見てしまったということだ。先生は落書きを見ると消しもせずにそのまま教壇の椅子に腰かけた。何にもしゃべらなかった。クラス中がシンとしていた。
チャイムが鳴り、一時間目が始まるのだろうと思ったが、先生は座ったままで無言だった。みんなが黙ったままだった。やがて先生はゆっくりと立ち上がると口を開いた。
「これを書いたのは誰か」
何人かがコロを見た。十円を振り返るものもいた。
「黙っていないで言いなさい。これを毎日書いているのは誰か」
「先生」
添田清子が手を上げ、立ち上がった。
「告げ口をするのは厭です、でも、あんまりひどいから言います、毎日それを書いているのは山村君と川口君です」
「添田のほかにそれを見たものはいるか」
先生の言葉にクラスの大半が手を挙げた。
「山村、川口、立て」
コロと十円がのろのろと立ち上がった。
「間違いなく君たちが書いていたのか」
ふたりはまたのろのろと頷いた。
「きちんと答えなさい」
ふたりはかすれた小さな声で言った。
「はい、書きました」
「よし、一時間目は自習。山村、川口、ふたりとも先生についてきなさい」
二時間目の前にコロと十円が帰って来た。ふたりはぼくのそばに来ると頭を下げた。
「ごめん、もうしない。許してくれ」
「ああ、ばかばかしいと思ってただけで怒ってはいないよ。他の誰かにもするなよ、こんなことは」
「うん」
「でもさあ、ひとつだけ聞きたいことがあるんだけど、答えてくれるか」
「うん」
「あのうんこだれがしたの」
「・・・ ・・・」
噴き出した笑いが聞こえた。
「おまえらのどっちかがしたんだろ」
「・・・ ・・・」
「まあいいや、いけよ」
その後は普段のとおりに時間が過ぎた。放課後は練習だった。運動靴で決勝まで行ける自信はあった。なにしろ権藤選手なのだから。