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「三十と一夜の短篇」

海へ。(三十と一夜の短篇第6回)

作者: 錫 蒔隆

 午前六時。空はもうあかるい。恒介こうすけは黄色いアルミフレームのロードバイクに跨がり、家を出る。さとすの家で待ちあわせ。中学三年の夏休み、大事大事と言われているこのさなか。

 ペダルをまわして五分ばかり、さとすの家に着く。さとすは起きだしていて、白いクロスバイクを調整している。

「おはよう」

「べっちゃんは?」

「まだ来てねえ」

 そう間を置かず、赤いクロスバイクに乗ったべっちゃんが「おまた」と到着する。

 さとすの家が、江戸川の土手道にいちばん近い。すぐ近くのコンビニに寄って朝飯と飲みものを買い、十分くらい走ると土手道に着く。

 「海見に行こうぜ」と言いだしたのは、べっちゃんである。土手道を南へ下れば、海へ行きつく。海のない埼玉から、自転車で海を見に行く。そのことに、さしたる意義も理由もない。受験をひかえたこの時期にやる冒険など、意味がないどころか害悪ですらある。言いだしたべっちゃんにも、そのことはわかっているはずだ。それでも、行かずにはおれなかった。思春期の衝動に、三人は逆らえなかった。


 最初にスポーツバイクを買ったのも、べっちゃんであった。なにをするにもべっちゃんは、恒介のまえにいる。三国志や水滸伝の知識も、べっちゃんから教わった。恒介はべっちゃんの影響を受けつづける。

 べっちゃんが赤いクロスバイクを買って乗ってきた中二のゴールデンウィークに、恒介の頭は揺さぶられた。自分が乗っている街乗り自転車が、なんとも不恰好に思えた。カゴとリアキャリアとチェーンカバーとドロヨケのついていないスマートさに、恒介はひと目で憑かれてしまった。T字のハンドルも、線の細いサドルとフレームもかっこいい。「いいべ、かっこいいだろ」とべっちゃん。美男子とは縁遠いべっちゃんが、このときの恒介には輝いて見えた。加部かべという名字だから、べっちゃん。

 そうしてべっちゃんにつづき、さとすが白いクロスバイクを買う。サドルもグリップも白い。汚れに弱い色あい。「白がすきなんだよ」と、さとすが言う。そんな嗜好は初耳である。黒子ほくろまみれの顔をしたさとすの本名は、さとしである。電話に出たおばあちゃんが「さぁとすぅ、電話だぞ」と言ってから、さとすになった。

 試乗会よろしく、三人で江戸川の土手道へ行ったのだ。恒介だけがママチャリ、いたたまれない気持ち。土手道を北へ十キロほど行くと、関宿城せきやどじょうに到る。そこまでの試乗で、ふたりのクロスバイクに追いつくことができなかった。疲労困憊の恒介にたいし、ふたりの顔はすずやかであった。

「帰り、ちょっと乗ってみ」

 べっちゃんに促され、恒介は赤いクロスバイクに跨がった。「かるっ」と、恒介は第一声を放った。これがほんとうに、同じ自転車なのか。恒介のママチャリにも、三段のギアはついている。いままで軽快と思っていた感覚は、まるで嘘だった。段ちがいの世界。風と同化しているかのような、心地よい感覚。勾配を立ちこぎすることなくするりと駆けあがり、勾配を一気に下るときの快感。強いて言えば、生きているという実感に打ちのめされているかのような。

 恒介は、さとすの白にも乗らせてもらった。より軽さを感じた。べっちゃんの赤より値が張り、性能も段ちがい。もう、ママチャリになんか乗っていられない……恒介はそう思った。


 それから恒介が黄色いロードバイクを買ってもらうのに、半年を要する。クリスマスプレゼント。自転車の専門店へ行き、見つけたそれ。店の入口に飾られた「衝撃プライス」、定価の半値の三万円。その黄色いロードバイクに、一瞬で心を鷲づかみにされてしまった。

 どういう自転車が欲しいという下調べをせずに来ていた。横に寝かせたU字型のドロップハンドルには、黒いバーテープがきれいに巻きつけられていた。べっちゃんもさとすも、クロスバイクを買った。それなら同じクロスバイクを買ってもおもしろくないと、恒介は考えた。そうなると「衝撃プライス」のそれが、無性に欲しくなったのだ。

 店内を見わたせば、五万円もするクロスバイクがずらりと陳列されていた。さとすのクロスも、それくらいだった。それにくらべれば、安い値段でロードが手に入る。もっと安い、一万円台のクロスもあった。べっちゃんの赤がそれだ。

 恒介の家は、裕福ではない。三万円もする自転車をせがむのは、気が引けてしまう。だがどうしても、ほかでもなくこのロードが欲しかった。やってきたその日に半値で出されていたことに、運命的ななにかを感じていた。

「どれがいいんだ?」

 父に訊かれ、恒介は躊躇することなく「衝撃プライス」の黄色を指さした。「もっと安いのにしろ」と言われることを覚悟していたが、意外にも恒介の望みはかなえられる。こうして黄色いロードバイクは、恒介のものとなったのだ。


 一九九三年の正月休み。試乗とばかり、三人で関宿城へ行く。クロスバイクは別物の自転車であったが、ロードバイクはさらに異質であった。感覚がまるでちがった。少しでもバランスを崩せば、転倒してしまいそうなあやうさ。カーブでよろめき、足をつく。まっすぐ走ることで精いっぱい。立ちこぎはバランスがとれず、とうていできそうになかった。乗りこなせるのかどうか、恒介は不安になった。自転車に乗れずに猛練習していた幼時の記憶が、鮮明に甦った。ロードバイクはそれくらい、異質な自転車であった。

 それから練習に練習を積み、ロードの感覚に体を馴らしていった。通学は徒歩だが、自転車はもっとも重要な移動手段である。そうして慣れてきたところであった。この年の夏は。



 すがすがしい朝である。恒介たち三人は、快調にペダルをまわしている。頭には麦わら帽子、背にはリュック。リュックのなかには、凍らせた500mlペットボトルのジュースを五本。フレームにはさんだ一本では足りなくなると踏んでの備えである。土手の上には、コンビニも自動販売機もない。

 だんだんと日差しが厳しくなり、恒介たちから水分を掠めとる。凍らせておいたペットボトルのジュースは少しづつ解凍され、飲みごろとなるのだ。

 「海まで40キロ」。小さな小さな看板は35キロ30キロと、その数値を下げてゆく。これが0になったとき、海へたどりつける。十キロごとに、高架をくぐる。ダウンヒルからのヒルクライムのくりかえしに、体力を持っていかれる。金野井橋かなのいばし野田橋のだばし玉葉橋ぎょくようばし流山橋ながれやまばし

 江戸川の対岸は、千葉県である。行けども行けども、どこまでもつづく江戸川の雄壮さ。土手から見おろす街並み。彼岸の景色。そのなにもかもが、恒介には刺激的である。

 恒介は、ここ数日の厭なことを思いうかべる。両親の不仲、毎夜の諍い。「出ていけ」「出ていく」の、醜い応酬。それは堪えがたい音であった。できるかぎり、家にいたくなかった。学校にいて級友とたわむれている時間が、恒介にとっての救いであった。

 家族はそのうち、崩壊するだろう。恒介は諦観している。父が家を出ていくことになるだろう。恒介は父についていかない。母を愛しているというより、環境の変化を拒絶する。

 中学一年の十月に、恒介は同じ県内の町へ引越てきた。団地から一軒家へ。べっちゃんともさとすとも、つきあいはじめて二年も経っていない。うまれてから小学校時代までの自分をすべてリセットして、ようやく築きあげたかけがえのない絆である。

 高校に入ればみな、べつべつの高校へ行く。べっちゃんは県下有数の進学校を。さとすも、恒介が志望する高校よりもワンランク上の高校を受験する。あらたな友人関係を、築かなければならない。けれどそれは、転校という漂白された体験とはまるで異なる。同じ中学から同じ高校へ進学する者たちがある。そのコミュニティーにおいて、彼らはゼロではない。ゼロではない位置から始められる。

 あの漂白、あのどうしようもない孤独感だけは二度と味わいたくない。たった一度の引越が、恒介の考えを保守的にさせていた。恒介は脆い。現実から眼を背けたがる。海を見に来たのだって、家のごたごたから逃げたかったからだ。


 直角に見おろす太陽は慈悲の心を棄て、容赦なく照りつける。日射病にならぬよう、休み休み走ってきた。気づかぬうちに、東京に入っていた。「海まで1キロ」の看板、ゴールは近い。胸は高鳴る。潮のにおいが鼻をなでる。十一時まえ。五時間あまりの長い道のり。まだまだ余力はある。この余力で、来た道をもどらなければならないのだ。同じかそれ以上の時間をかけて、家に帰らなければならない。

 「海まで500メートル」。400メートル。300メートル。200メートル。100メートル。看板が消える。道は突きあたり、右へ折れる。江戸川の終点。そこで自転車を降り、三人は呆然とする。


「これが海か?」


 べっちゃんの独白は、三人の偽らざる心情である。空を塞ぐ高速道路の、水面に突きたつ太い橋脚。まるで、檻からの景色。江戸川が東京湾へ流れこむ雄壮さを想像していた。現実はあまりに、想像と乖離していた。川と海の境が、まるでわからない。高速道路の向こうに、ただ水がつづいているだけの殺風景。

 感動などない。江戸川を制覇したという達成感もない。五時間かけてただただ、この暗い川を見にきたのか。暗澹たる未来の暗示のよう。こうして恒介は、現実というものを知った。

 また五時間かけてもどる。心も体もひどく、疲弊している。いちばん最初に家にたどりつけるさとすのことを、恒介はひどく羨ましく思えたのであった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 期待に胸を躍らせての少年たちの冒険。 無駄のない読みやすい文章。そしてさとす? と思ったらそんなつけ方あるある、と唸ってしまうあだ名だったのですね。少年たちの距離感が伝わってきました。 冒険…
2016/10/03 08:49 退会済み
管理
[良い点]  やがて別々の道を歩むだろうと知りつつも、最後になるかも知れない夏休み。  男の子の馬力は凄いなぁと感心してしまいます。  看板や標識を見ながら、次へ次へと期待を持って進み、ようやくたどり…
[一言] 淡々としているのに期待が込められた文章とその結末。 結末よりも過程のほうが楽しいことはままあることですが、 できるなら、結末もまた楽しいことであってほしい。 とくに家に居づらい少年にとっては…
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