嗚呼、始業式。
日野茜は憂鬱だった。ただただ憂鬱だった。午前五時に布団の中で虚空を見つめて口をパクパクさせるほどに憂鬱だった。
今日はいわゆる始業式である。
昨日の夜。だんだんと人が増え、サラダとスープがまともに喉を通らなくなるほど緊張していた茜の耳に、あの鱒浦の声で、
『明日は待ちに待った始業式になります。朝七時に大広間へ集まってください』
と放送が流れた。その言葉は生徒の様々な意見を生んだ。孤独から解放される、という喜びの意見もあれば、知らない人と話すのはちょっと、という否定的な意見もあった。茜は後者、野菊は前者に賛成である。
やっと野菊に話しかけ会話らしい会話がつい先日完成したというのに、また知らない人とのご対面は、茜のメンタル的に少々まずい。現に彼女の心拍数はここ数日で格段に上がり、かいた汗はビーカー二個分であった。
ちなみに布団の中で口をパクパクさせていたのは自己紹介のデモンストレーションである。
「茜、もう起きたんなら着替えよう。なんか汗臭いぞ、お前」
茜越しに見ると、野菊は太陽だった。眩しすぎる存在だった。眩しすぎて目をまともに開けてられない程だった。朝っぱらから太陽は少々過酷である。ただ女子の本能として『汗臭い』はやはりキツいものらしく、茜はネガティブオーラ全開でしぶしぶ起き上がった。
ああ、駄目だ。暗く考えていると嫌なことばかり起こってしまう。ポジティブに考えていかなくちゃ。憂鬱なことなんてまるで無い、楽しい学園生活―――。
「今日は始業式だ。真新しい奴らがいっぱいだぜ。もしかしたらお得意の人見知りが発動しちゃったりして……あれ、茜?」
憂鬱である。
じんわりと蒸し暑い体育館に、半ば無理やり連れてこられる形でやってきた茜は、小刻みに震えていた。人、人、人、見渡す限り人の海である。飴色の椅子に座った大勢の女の子たちは、和やかに談笑しながら、放送がかかるのを待っていた。とても彼女らが孤児だとは思えない。
ただ、全員が全く同じ境遇だとは限らない。茜のように物心ついたときから独り身のような子もいれば、野菊のように割と最近に独りになった子もいる。そして複雑な事情が家庭内環境に絡みつき、人格をまるまる変えてしまった、というのもあるのである。
ガツン!
「ひぃッ」
誰かが茜の椅子を蹴った。その衝撃が、緊張していた茜を過剰に刺激させる。野菊が異変に気がつき、後ろを振り向いた。
犯人は予想外に可愛らしい女の子だった。
「前でびくびくされてると迷惑なのよ。シャキッとしてよね!!」
その少女、神原ミトという。
艶やかな黒髪をツインテールに結い、アーモンド型の黒い瞳と薄い唇をイライラして堪らないとでも言うように歪め、小さく細い足を組んでいた。可愛らしい外見だが、その口から飛び出すのは地獄の針山のように鋭い言葉ばかりである。ちなみにここに来る前は、名家神原家の長女だった。
こういうタイプは野菊が最も嫌うタイプだった。彼女は好きな物には一層甘く、嫌いな物には風当たりが強いのだ。
「だからって椅子蹴るのはおかしいだろ‼ほらぁ、茜が泣いちゃったじゃん」
そう言ってから野菊はあれ、と首を傾げた。まるで私が茜を大事に思っているみたいじゃないか。まだ会ってから三日しかなってないのに変だ。
ミトは茜の真っ青な顔をちらりと盗み見て、少しだけ罰の悪そうな表情をしてから顔をついと背けた。気に食わないのである。彼女にはまだ友達と呼べる友達がいない。ミトの意地っ張りな性格もあるのだろうが、名家出身のプライドがその他の一般人(彼女は愚民だと思っている)を寄せ付けたがらないのだ。茜は明らかに弱そうで突くと簡単に壊れそうなのに、いや壊れそうだからなのか、守ってくれる人が少なからずいた。何故自分には居ないのか、どうしてこんな子なのだろうか。
(そこが納得いかないの)
憎しみのこもった視線に耐えきれず、茜は面目なさそうに顔を伏せた。その状態に、野菊の腹の中の何かが煮え狂った。納得がいかないのである。見ず知らずの傲慢な女子にビクビクするなんて私のプライドが許すもんか、と拳を握りしめながら思った。
大体、と野菊は茜を見やる。この子がもっとしっかりとした逞しい女の子だったら、私の負担は減ったのだろう。しっかりしてほしいところである。
「茜、前向いておこう。こんな奴に関わる理由なんてないよ」
小刻みに震える茜の肩を抱き、ミトを軽く睨みつけながら、間もなく始まるであろう始業式に臨んだ。