菊畑に紛れる孤独の花
草原野菊は夢を見ていた。確信も何もないのにそれが夢だとわかる。夢だと信じられる。この絶対的信頼感はどこから生まれるのだろう。ただ考えるのも億劫なほど頭が動かない。現状を理解しようとしなかった。
私は見ているだけしかできないのか。むずがゆい感覚が体中を駆け巡った。
薄暗くぼんやりとした視界がどんどん明るく鮮明になっていく中、今度は寒気が体中を駆け巡った。この風景、この香り、このあたたかさ……知ってる。懐かしい『何か』の正体を掴もうと闇雲に手を伸ばすが、何も掴めずただ虚しく空を切るばかりだった。その姿形を思い出そうとするとぼやけ、逆に忘れたころに実体を見せる。それの繰り返しで夢は構築されているんじゃないか、と野菊は思った。
目を閉じて、暗闇に身を任せる。
どんどん、どんどん落ちていく。落ちていく。
『お母さん』
幼い野菊はそう言って母のエプロンの端を掴んだ。
栗色のゆるいウエーブのかかった髪の毛をご機嫌そうに揺らしながら、母は可愛い一人娘の頭を撫で、彼女に視点を合わせるためしゃがみこむ。
『どうしたの、野菊ちゃん』
『パソコンやってもいーい?』
小鳥のさえずりのような澄んだ声と、純粋な澄みきった瞳にお願いされたら答えは一つだなと母は思った。
野菊の母はパソコンを使用するデザイナーで、父は会社のアプリ開発に日々勤しむ会社員であった。草原家は常にパソコンがあり、常にパソコンが隣に寄り添い、パソコンとともに生涯を生きていく、いわば『電脳家族』である。幼い頃から両親のパソコン作業をじっと見ていたため、わずか5歳という若さで、パワーポイントやエクセルやワードといった機能を使いこなすというスーパー幼児になっていた。
そして何故か草原一族は、ブルーライトなどの視力低下の原因となる物質と密接に関わってきたというのに、視力検査ではいつもAだった。代々目に関係する神様から愛されているという謎の言い伝えがあることは、まだ野菊は知らない。知ることができなかったのである。
『ただいまー』
『あらおかえりなさい。今日は早いのねぇ』
母が娘に向ける目とは少し違う優しげな目をして、微笑んだ。
幼い野菊は頭からパソコンのことを放り出し、帰っていたお疲れモード全開の父に飛びついた。
『おかえりぃ!おとーさん!』
『うおぉ、今日も元気だなぁ、野菊。どうした、父さんが恋しかったか?』
『お父さん、あたらしいソフトおしえてよ』
『父さんよりパソコンかぁ……。なんか父さん悲しいよ』
わかりやすくしょげる父を見て『変なのー』と指を指して笑う野菊とあきれたように苦笑する母。
___幸せ。
そう、笑いがあふれる草原家は幸せだった。
幸せ『だった』のだ。
場面が切り替わり、真っ白な世界になった。
何にもない真っ白な世界。
物も人も風も、もしかしたら時間という感覚もないのかもしれない。
手がかりも何もなく、普通ならここが何処なのか分からないはずなのに。
(病院……………なのか。じゃあもしかして……)
目が見開かれ、口内は乾ききって、焦点が合わない。あっけらかんと、物事に対して興味も関心も持たず、深く追求をしようとしない彼女が、心の内に秘めていた闇。本来真っ黒なはずの心の闇は、悲しくなるほど真っ白だった。
心のざわめきと激しく呼吸が荒くなるにつれて、世界は色を取り戻していく。点滴台のようなもの、真っ白な二つのベッド、何かの花、そして……その中で安らかに眠る男女の遺体。傍に立つ医者が何か呟き、頭を垂れた。
(…………母さん、父さん)
私は忘れない。あのときの悲劇を、加害者を。
二人分の命の重みを。
忘れもしない八月半ばの高速道路。15歳の野菊は、迫り来る熱気を露骨に嫌がりうちわで扇いでいた。その日はちょうど新アプリ販売記念パーティにお呼ばれしていたのだ。父の長年の夢であったアプリ開発に私の妻と娘も協力してくれた、とマイクで紹介されたときは、いつになく取り乱しブロッコリーとパセリを間違えて食べてしまうほど慌てた。
少し遠い会場で、車でおおよそ一時間かかるため、結構な長旅である。
『つーかーれーたー』
項垂れる野菊をたしなめるように、母は軽く頭を撫でた。
『もうすぐだ。野菊、辛抱しろよ』
『渋滞じゃなくてよかったじゃない。それだけでも神様に感謝よ』
何故二人は車に一時間も乗って平気な顔していられるんだろう。私なんてすぐにゲロ吐いちゃうわ。
夜も近くなり、冷たい夜風が吹いた。暑さがなくなり幾分かマシになり、うちわから手を離し窓の外を見た。
『母さん、今日の月は赤いよ』
いつもは白い優しそうな輝きを放つ月は、不気味に赤く光っていた。まるで炎のような、はたまた血のような。赤い月は不吉の印、とネット小説で読んだことがある。そう思うと鳥肌が立ち、目をそらした。
『珍しいわ。きっと父さんをお祝いしているんでしょうね』
母が目を細め、父が後部座席を振り向いて照れくさそうに笑った。
それが、私が見た父と母の最期の生きた姿だった。
キキーーーーーーッ
耳をつんざくような音に、何事かと前を見た瞬間。
『伏せろぉぉぉぉッ』
父の聞いたことがないような声が辺り一帯に轟いた。そして
今まで感じたことのない強い衝撃が身体を襲い、どこかに打ち付けられた。
脳みそが正常に機能しない中、最後に聞こえたのは愛しい二人の悲鳴だった。
つんと鼻につくお香の香りに、思わず野菊は俯いた。前を見ていると両親が死んだという現実を直視してしまうからだ。
葬式には様々な人が来た。同僚の人、パーティに来ていた人、親戚、同級生、担任、近所の方…………全員が一人残った野菊に慰めの言葉をかけていった。
(そんなもの、何の足しにもならなかった。私の気持ちを本当に理解していないくせに)
分からないくせに。親を失った私の心情なんて本当は微塵も興味がないくせに。嘘ばっかり言うな。
野菊はやりきれない顔で何時間か過ごした。
何人かから「うちに来ないか」とお誘いがあったが、野菊はやや乱暴に全てお断りした。もう、大人が信じられなくなったのだ。これからは独り身になって生きていく。家には帰りたくない。何処か、どこか違うところで暮らそう。自然に囲まれるのもいいかも。
高校をやめ、自由になって、そして……。
「…………………ッ」
真っ白な天井が見えた。いつの間にか夢は醒めたらしい。
(変な夢見た)
野菊はがんがんと頭痛が酷い頭をさすり、重たい身体をゆっくりと起こした。こんなに頭痛が酷いとパソコンができない。どうしたものだろう。
『友達にパソコンの面白さを教えてあげるのもいいと思うわ』
「……」
不意に母の言葉が浮かび、反射ですやすや眠る茜という少女を見た。友達、この子が?いやまさか。ありえない。
草原野菊。15歳。
後に茜は彼女にとってかけがえのないパートナーとなる。